一級建築士の山田は、建築の構造設計が仕事だ。耐震偽造問題以降、煩雑化した業務におされ、毎日帰って寝るだけの生活。師範代には憧れたが、どうしてもその余裕はない。けれど、山田は諦めない。「やりたいから、やる」 腹を括って師範代を引き受ければ、37[守]凱旋シラブル教室で薫陶を受けた師範代大音美弥子を思わせる、編集的世界観へ向かう重厚な指南を積み上げつづけた。感門之盟を終え、山田は涙ぐんでいた。「仕事がつらかった。だから師範代をやっていてよかった」 学衆さんが私を師範代にしてくれた、私を変えてくれるのは他者なのだ。そう、山田はしんから実感したのだ。師範代としての編集稽古は「日々の救い」だったと形容する。
高校生のとき、寺山修司作・蜷川幸雄演出の舞台『身毒丸』を見て舞台芸術に憧れた。丹下健三の作品集に興奮し、建築学科を志す。卒業制作では「仮設の演劇舞台」をテーマに定め、寺山修司の舞台をリバースエンジニアリングした。山田の「仮設」という問題意識は、建築工学としては異端。毛色の変わった人と見られていた。しかし、編集工学となれば話は変わる。仕事の手法と、アブダクションを基礎とする編集工学が共振していった。
[守][破]の師範代を終えると、迷うことなく13[離]へ。史上初、蜷川別当賞・倉田方師賞の特別賞の二冠を獲得。『情報の歴史21』編纂プロジェクトに参画し、20周年感門では川野貴志とともに近畿大学ビブリオシアターで司会を担当。34[花]では錬成師範にも引き抜かれる華々しい活躍ぶりだ。だがその裏にはつねに苦悩があった。
35[花]入伝式で「略図的原型」に関するレクチャーを任されれば、松岡校長の手書きシェーマを3度トレース。徹底的な準備のもとクリアで堅牢な講義をするも、「何度なぞっても、どうしてもわからない」と悔し涙をにじませた。まわりが止めるほど準備をしても、甘んじない。錬成前には、雨の建築現場で足場から滑り肋骨を折る。その痛みさえも加速力に変え、キレのある頼もしい指導をみせた。忙しいときほど仕事は5倍に、危機こそチャンスオペレーション、自己を変えるのは他者と知る。松岡校長の教えを身に纏うようにヨージ・ヤマモトの黒衣だけを着て、山田細香は自己のスクラップ&ビルドに邁進する。