イシス人インタビュー☆イシスのイシツ【矢萩邦彦の黒】File No.3

2020/11/24(火)13:27
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「学校と合わない人生をずっと歩んできた」。

 

開口一番、語り始めたイシツ人は常に「黒」を纏っている。

 

それはまるで自身の「美学の表出」であり、多様なキャリアを統合する編集という「方法の表象」であり、また目の前の世界に痛みを感じている子供らを、決してひとりにしない「決意の表白」であるかに見えてくる。

 

イシスとの接続頻度は疎ながら、先達としての存在感は抜群。そのイシツな来歴や今後のイシスとの関り合いなど、一問一答形式で肉薄する。

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【イシツ人File No.3】矢萩邦彦

20[守]30[守]師範代、20[破]師範代、4[離]で典離。松岡正剛校長から日本初の称号「アルスコンビネーター」を付与される。大学在学中に塾講師として就を得て以来、教育の現場で「探究型」の学びを追及。「探究×受験」を両立させる学習塾「知窓学舎」を塾長として運営するほか、教育ジャーナリスト、編集者など様々なキャリアを編集の視点で統合、パラレルキャリアの第一人者でもある。編著に『中学受験を考えたときに読む本』(洋泉社)、共著に『先生、この「問題」教えられますか?』(洋泉社)、編集に『学校の大問題』 (SB新書)。イシス編集学校による教育新聞連載「探究と方法」への寄稿も記憶に新しい。

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◎ソウシツでイシツ。

(※ソウシツとは?:喪質。狭義に自身の不、負、腑)

――様々な肩書をお持ちですが、まずは教育に関わるようになったきっかけを教えてください。

 

小学生のとき、両親の意向もあり中高一貫の難関校を受験することになりました。進学先では同級生とも先生とも合わず、教職以外ほとんど経験していない先生が進路指導するシステムにも違和感を覚えました。教育そのものをネガティブに捉えていた中、1995年に阪神淡路大震災が起こったんです。

 

翌日学校に行ったら、刻々と報道されるテレビ番組を前に、何時までに被災者がどれくらい増えるか同級生たちが賭けをしていた。彼らに対する怒りより「日本の義務教育は失敗している」との思いが強く湧き出たんですね、一番大事な「教養」が身についていないじゃないか、と。

 

僕は江戸の思想が好きで、教育とは教養を伝えることであり、教養は他者の気持ちを思いやる想像力や愛と読み替えて良い言葉だと思っています。エリートコースを歩み、今後社会で決定権を持つ可能性の高い同級生や「大人」達に僕が何を言ったところで革命をおこせるイメージが持てず、義務教育を終えた後で価値観を変えるのは難しいだろう、まだ「幼な心」のある小学生のうちに顔を突き合わせ対話を重ねていけば何かしら変えられるんじゃないかと、中学受験の世界に飛び込んだんです。

・夜9時まで行われていたこの日の授業テーマは論理的思考。生徒たちとも和気あいあいで、love&logicを実践。マスクは当然、黒。

――なぜあえて中学受験の世界に?

 

それは中学受験というのは多くの場合、親が言い出すことだからです。僕も親の希望で志望していなかった学校を受験することになり、揚げ句不登校になりました。

 

元はミュージシャンとして身を立てたいと思っていたのですが、うちの両親はかなり厳しく極端なタイプ。芸術と哲学を学びたいという夢は「そんなもので飯が食えるか」の一言で阻まれ、特に母は勉強をしなかったら皿を投げるような人でした。

 

このままでは進学できないと学校から連絡を受けた母はショックで倒れ、家にいてはお互い幸せに生きていけないと、高校卒業と同時に友達の家を転々としたり駅で野宿をしたり、ホームレス紛いの生活を送るようになりました。

僕が家出をしたのち、母の教育熱は同じ進学校に通っていた弟に向けられ、真面目だった弟は家族と学校と自分の夢を両立できず、心を病みました。

 

たまに、そういう逆風があっていまの矢萩さんがあるんでしょう、なんて言われますが、僕はレアケースだったと声を大にして言いたいですね。たまたま死ななかっただけであって、同じような環境で生きられなかった子たちが沢山いる、そこを見ないで人生の糧とか易々と言ってほしくないんです。

 

だから僕が中学受験をやるのは、僕と同じような思いをしている子にコミットしたいから。親と子の間に入ってその乖離を埋めるのは、体験した自分だからできることだと思っています。

・授業終わりの疲れも見せず、深夜近くに及んだ取材に答える。

――不登校になった直接の原因は何だったのでしょうか。

 

世界を「メタ認知」(※)していない先生方への不信感など、理由はいろいろあるのですが…。

 

中学2年のとき、非常に絶望した事件があったんです。同級生たちとこの世に同じものが存在するかという議論になった際、そんなものあるはずがないと言った僕に対し、僕以外の全員があるに決まっている、原子と原子は同じものだと主張しました。いや待て、原子だってアドレスが違えば存在が変わる、崩壊系列を起こす原子を同じと捉えて良いのかと言い通しましたが、原子は同じが定説、矢萩はあまりに教科書を理解していないと騒ぎになってしまった。

 

僕だけがキレイに皆と違う世界にいて、ココにいるのはもう無理だなと思いました。自分が居ても居なくても何も変わらない場所に身を置いていても、世界なんて変えられないという思考が強化されるだけだ、と。

 

不登校になってからは読書と深夜ラジオに埋没し、一時は年間1000冊の本を読みました。一番最初にハマったのはプラトンとユング。あまりに周りと意見が違うので自分の方がおかしいのかと思うこともありましたが、プラトンとユングを読んだらすごく安心したんです。

 

特にプラトンは想像の力を重視し、見えないものすら客観的実在と捉えイデアと呼んでいますよね。プラトニックなのにロジカル。そこに僕は非常にロマンを感じ、ああ同級生や先生と話が合わなくてもこの人たちとは分かり合える、しかも彼らの本が出版され続けているということは、いまだ同じような考えがこの世には必要とされている、それなら大丈夫だと思えた。

 

きっと自分みたいな人間が、いろんなところでやりたいことを阻害されている。だから万人のためというより、自分の後輩たちが出てきたとき、オッケーここに居場所があるよ、思う存分学べるよって、そういう場を開いておきたくて平成25年、探究型の学びと受験のための学びを両立させる学習塾を開いたんですね。

・論理というシステムを動かすにはファンタジーや愛が不可欠。fantasy&logic、love&logic。教室の本棚では孫子やインテリジェンスに『星の王子様』『不思議の国のアリス』を組み合わせる。

◎ヰシツでイシツ!

(ヰシツとは?:意質。狭義に強い意思、決意)

――実践しておられる探究的な学びとは、どのようなものなのでしょう。

 

僕が25年前に始めた学習法は、米国の哲学者ジョン・デューイの学習理論をベースとしています。リベラルアーツや時事問題を取り入れ、議論をする中で探究の種をみつけ、教科学習との間に「対角線」を引くようにその場を即時編集していくんです。これは吉田松陰はじめ先人が実践していた手法でもあり、すべての「あいだ」に関係線を発見していく方法は、僕が師とあおぐ松岡正剛氏から受け継いだものです。

 

塾業界では「探究型と受験は両立しない」と言われますが、要は「知識」から「方法」へ向かう編集力が問われているだけ。うちの塾では決まったカリキュラムやテストはなく、そのクラスに誰が集まり誰が担当するかによって、授業の内容も深度も変えています。いま君がそういう発言をしたから授業をこっちに展開させようとか、講師と生徒が互いにアフォードしあって学びが生まれていく存在同士のやり取り。まさにインタースコアです。

 

正直、講師には大変な負荷がかかりますが、僕は陽明学の人間なので「知行合一」、現場で行動しながら教える側も学び変容し続けなければならないと思っていて、それには講師側がパラレルキャリアであることも重要じゃないかと思っているんです。

 

だから弊塾では講師募集はしたことがないんですよ、みな僕がスカウトした人材です。交通ビッグデータの専門家もいれば哲学者やAI関連のドクターもいる。少し変わったところでダンサーや寿司職人も。僕自身も教育に必要な知識技能という視点で、ジャーナリストやキャリアコンサルタントなどいくつもの職を兼任しています。

・こちらは「宇宙と哲学」の棚。

――松岡校長の名が出ましたが、イシスと出会ったのはどういった経緯だったのですか?

 

年千冊の読書を10年くらい続けていると、松岡さんの名は嫌でも目に入ります(笑)。何だろうこの人は、と思って調べたら『遊』の人だった。僕、小学生のころから近所の変わった本屋で『遊』を眺めていて、こんな余白のない雑誌って他にないよなーと子供心にカッコよさを感じていたんです。

で、『情報の歴史』を松岡正剛が編集したと分かった時点で、これはもう弟子入りするしかない、と。

 

調べれば調べるほど、松岡さんの編集的世界観が自分の理想としてる教育像に近く、しかも様々な仕事を編集で統合していくパラレルキャリアという生き方の先人でもあり、その世界を切り開いたパイオニアに認められれば僕も世界にコミットしやすくなるんじゃないかと考えたんですね。

というのも、僕がパラレルキャリアを始めた25年前は、いろいろなことに関わっていますと言うと怪しまれるような時代でしたから。

 

編集学校があることを知り2007年、最初から[離]で「典離」を取ることを目指して入校しました。弟子入りが目的ですから早く先に進みたくて[離]と[花伝所]を重ねて受講し、さらに[風韻]も同時並行しようとしたら「そんな奴はいない!」と当時の師範代に怒られました(笑)。松岡さんは面白がるんじゃないかと思ったんだけど。

 

ようやく松岡さんと対面できたときは、ああ日本にも賢者がいたんだ、と思いましたね。まだ書物の中でしか賢者に出会えていなかった当時の僕にとって、それはものすごい希望でした。場も人も途轍もないスピードで要約し、どの情報とくっつけるとどんな編集ができるのか、その計算がめちゃくちゃ早い。しかも松岡さんの編集は、何か心を引っかかれるような、良い意味での創を遺す。

 

アートだと思いましたね、この人は知をアートにしてるんだ、と。

 

――「アルスコンビネーター」の称号を校長から付与されたのは、日本初だったとか。

 

目論み通り「典離」を取ったので、そろそろ認めてもらえるんじゃないかとお願いをしに行ったんです。〝いまの日本でパラレルキャリアとしてやっていくには肩書が重要、師匠として相応しい肩書きを付けていただけないか〟と。

 

後日呼ばれて松岡正剛事務所に伺うと、広げられた色紙に「アートコンビネーター」と揮毫されてあったんです。途端に僕は「んっ?」という顔をしたんでしょうね、思っていたものとちょっと違うぞと。その顔を見抜くや「こっちはどう?」とひっくり返したところに書かれていたのが、「アルスコンビネーター」の称号でした。

 

もうね、唸りましたよ。一瞬に込められた「用意」と「卒意」。これが即時編集かと。すごい体験をさせていただきました。以後、幾度もこの時のことを思い出し、生徒たちと接する時などあらゆる可能性を捉えた場の編集を意識するようになりました。

・数ある本棚のうち、教室の本棚から一冊選ぶとしたら?との問いにアルスコンビネーターからの連想で『アルケミスト』を手に取る。

――今後はイシスとどのように接続していくお考えでしょうか?

 

そうですね、暫く離れてしまっていますが、必要と思っていただける場があるならぜひ関わりたいと思っています。当時の僕はけっこう異端扱いで、僕がいることで和が乱れることもあったんですね。典離をもらって学校の手伝いをしないとは何ごとだと、諸先輩に詰め寄られたこともあったし。松岡さんにも「お前は一人でできるだろうから一人でやれ」と言われて。

 

でも僕は編集学校が好きで、編集の可能性も信じている。偏差値偏重社会へのアンチテーゼとして学歴を一切公言しないスタンスで活動していますが、唯一オフィシャルにしているのが編集学校の履歴です。それはずっとイシスと「共闘」しているという、僕なりの証憑でもあります。

 

ただね、僕から見ると「イケてるかどうか」の視点がいまの編集学校には足りていない気がするのも事実です。松岡さんも「有りもの・借りもの・旬のもの」と仰ってますよね。イケてるかどうかはめちゃめちゃ大事な要素で、いまの人々の感覚とパラレルにカッコよさを追及していくカマエは、僕が当初から求めてきたところで。

 

そのためにはまず意識だと思うんですよね。昔は「本質的でない」と切り捨てられちゃったけど、イケてるかどうかも編集と同じ本質。これは常に生徒と接している生の感覚で得ている実感です。

 

――最終的に目指してる世界は?

 

東日本大震災の直後、言語学者ノーム・チョムスキー博士に会いにマサチューセッツ工科大学(MIT)を訪れました。教育界の再編集に必要なことは何かと問うた僕に、「To be free of dogma」との言葉が返ってきました。ドグマは「教義」と訳されますが、僕は「無自覚思考停止状態からの脱却」と捉えた。今なら「アンラーニング」とも言えるでしょう。これこそが世界をメタ認知する能力であり、探究的学びが目指しているところ。いままさに、そのための種を蒔いている最中なんです。

◎イシツ人のイシツブツ

 

「石油製品がキライ」というイシツ人が愛用している革製の手帳カバー。文庫本とノートを一緒に収められ「本好きが多いイシスの人にも興味を持ってもらえるのでは」とチョイス。クロムハーツ製で色はもちろん黒。この日の鞄も同社製の黒で統一されていた。

【おまけ◎イシツ人の愛】

2011年、いくつかのテーマを携えノーム・チョムスキー博士に会いに行った。そのひとつが「チョムスキーさんにとって愛とは何か?」。そんなのココにあるだろう、ココに聞いてみろと、胸のあたりを博士は叩いた。論理的思考も世界という構造も編集も、愛というエネルギーがなければ動かない。江戸時代まで「学び」とは他者をおもいやる想像の力を意味した。螺旋構造のように抽象と具体を行き来しながら、学びの部分と全体にフィードバックをかけ続ける。

 

(※)メタ認知…認知心理学用語。自身の思考や行動を「情報」と捉え、別の立場や抽象的な視点で認識することで、客観的かつメタ(高次)な判断を可能とする。


  • 羽根田月香

    編集的先達:水村美苗。花伝所を放伝後、師範代ではなくエディストライターを目指し、企画を持ちこんだ生粋のプロライター。野宿と麻雀を愛する無頼派でもある一方、人への好奇心が止まらない根掘りストでもある。愛称は「お月さん」。