【三冊筋プレス】ロラン・バルトの青い歓び(米川青馬)

2022/05/13(金)10:10
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<多読ジム>Season09・冬の三冊筋のテーマは「青の三冊」。今季のCASTは小倉加奈子、中原洋子、佐藤裕子、高宮光江、大沼友紀、小路千広、猪貝克浩、若林信克、米川青馬、山口イズミ、松井路代。冊匠・大音美弥子と代将・金宗代の原稿が間に合えば、過去最高の13本のエッセイが連載される。ウクライナ、青鞜、村上春樹、ブレイディみかこ、ミッドナイト・ブルー、電波天文学、宮沢賢治、ヨットロック、ロラン・バルト、青水沫(あおみなわ)。青は物質と光の秘密、地球の運命、そして人間の心の奥底にまで沁みわたり、広がっていく。


 

 ロラン・バルトは自身を定義されることを好まなかった。実際、さまざまな色のバルトがいた。今日はそのうちの「青い歓びのバルト」について語りたい。この青は、冷えた青、クールな青だ

 そもそもデビュー作を『零度のエクリチュール』(みすず書房)と名づけた。零度のエクリチュールとは、従来の文学的な文体ではなく、日常的な言葉を使った文体のことだ。「カミュの『異邦人』に始まったこの透明な言葉は、文体の理想的な不在に近い、不在の文体をなしとげている」。実際、『異邦人』は極めて平易な日常語で書かれており、外国人がフランス語を学ぶとき『星の王子様』と双璧の入門書になっているほどだ。
 バルトは『異邦人』を「さだめられた言語秩序への服従からまったく自由になった白いエクリチュール」と賞賛する。つまり、カミュは文学的文体の伝統にこだわってきたフランス文学界に、日常語文体を使って青白く冷えた革命を起こした、というのだ。

 

 

 

歓びの青みは一瞬で終わる

 

 20年後、バルトは『テクストの楽しみ』(みずす書房・旧訳『テクストの快楽』)を書いて、零度のエクリチュールを「歓びのテクスト」(旧訳:悦楽のテクスト)に拡張した。
 歓びのテクストとは、読者を「放心の状態におくもの、意気阻喪させるもの。読者の、歴史的、文明的、心理的な基底だとか、その趣味、その価値観、その記憶の一貫性を揺り動かすもの、読者と言語の関係を危機に落とし入れるもの」だ。歓びのテクストの前では「楽しみは粉々になる。国語は粉々になる。文明は粉々になる」。
 対義語は「楽しみのテクスト」(旧訳:快楽のテクスト)である。「古典。文明。知性。アイロニー。繊細さ。幸福感。伎倆。安全」を含むようなテクストで、読者を「満足させ、満たし、幸福感を与える」。
 平たく言えば、歓びのテクストとは、社会的常識を破壊する革新的な文学のことだ。現代的には「イノベーション」とも言い換えられるだろう。対する楽しみのテクストとは、プルーストやフローベールのように安心して読める優れた古典だ。歓びは青く冷えており、楽しみにはオレンジ色の暖かさがある。
 ただし、歓びの青みは一瞬で終わる。「理解されるやいなや、放心の原則は役にたたなくなる」からだ。『異邦人』は青白い革命を起こしたが、日常語文学はすぐさま普通になった。歓びのテクストはすべて同様に世界をさっと青く冷やし、ほどなく常温になる。

 

 


僕らは歓びを恐怖すると同時に待望する

 

 バルトが『テクストの楽しみ』で、歓びのテクストとして実名を挙げた一つが、ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ』(光文社古典新訳文庫)だ。この青は暗く底冷えする。「歓びの非社会的性格。それは社会性の険しい喪失である。とはいえ、主体(主観性)、人格、孤独への、いかなる落下もない。すべてが失われる、あますところなく。秘匿の極限的な底部、シネマの黒」とバルトは書いたが、おそらく本書のことだろう。
 主人公の私は、パリの屋内外で娼婦マダム・エドワルダとタクシー運転手を巻き込んだ非常識な情事にふける。バタイユによれば、「夜は何ものでもない=無である」。彼らは無の夜、「非―知の夜」のうちでエロティシズムに浸る。主人公の私は、最後には意味までも失う。「『無意味』氏がものを書く。この男は自分が狂人であることを承知している」。バルトのいうとおり、彼らの痴態は読者を放心させ、意気阻喪させる。はっきり言えば、『マダム・エドワルダ』のポルノグラフィは恐ろしい。
 しかし、この主人公のように極端ではなくとも、僕らの多くは大なり小なり「エロティックな対象に対して忌避と魅惑というアンビヴァレントな感情を抱く」。いや、エロティックな対象だけでなく、歓び全般に忌避と魅惑の両方の感情を抱く。それは僕らが「禁止と侵犯の運動によって突き動かされているからである」(『バタイユ』佐々木雄大/講談社選書メチエ)
 エロティシズムや社会的常識の破壊、革新的なイノベーションはときに恐ろしいもので、道徳的に禁止される。しかし同時に、僕らは禁止を破りたくなるほど、そうしたものを待ち焦がれてもいる。それこそが青く冷えた歓びの特色だ。バルトはバタイユの影響を受けて、歓びを恐怖と待望の両面があるものと捉えている。

 

 


朝子は震災ボランティアの地で踏みとどまる

 

 柴崎友香『寝ても覚めても』(河出文庫)は、歓びと楽しみの関係を現代的に描く。朝子は、麦(ばく)と恋に落ちて付き合うが、あるとき麦はいなくなる。5年後、朝子は麦とそっくりの亮平と出会い、付き合うようになる。いつのまにか、麦は人気俳優となっている。ある日、亮平と暮らす朝子のもとに、麦がやって来る。麦は朝子を連れ出す。朝子は亮平との生活をあっさり捨て、長く想っていた麦と新幹線に乗りこむ。しかし、朝子は二人の違いにふと気づいて我に返り、岡山駅で降りて亮平のところへ戻る。当然、亮平は拒絶する。でも、「おれは、お前のこと信じてない」と亮平に言われても、朝子は戻る。
 結論を言えば、麦は歓びのテクストで、亮平は楽しみのテクストだ。亮平はどこにでもいる勤め人で、一緒に楽しく暮らせるが平凡だ。麦はテレビの向こうにいる、遠い星からきたような「すごーく遠い」存在で、非日常的な刺激に満ちている。朝子はそういう麦と以前付き合っていてたまらなく好きだったから、思わずついていってしまうのだ。
 しかし、麦は生活をともにするような存在ではない。生活に必要なのは、ちょっとした幸福感や満足や安心と、仕事や人間関係だ。亮平にはそうしたものがあるが、麦はそういうものを何も持ち合わせていない。麦は、どこにも居つけないような非社会的な存在なのだ。実は、柴崎は東出昌大との対談で、麦を「宇宙人」という裏設定で描いたと告白している。彼は青い歓びの宇宙人なのである。
 濱口竜介監督の映画版『寝ても覚めても』は、この対比をさらに明白にしている。このヴァージョンでは、朝子と亮平は東日本大震災後の震災ボランティアに何度も参加している。そして、麦と朝子は逃避行のとき、新幹線で西へ行くのではなく、車で北海道へ向かう。途中の東北の海辺についたとき、朝子は歓びの麦から離れて、楽しみの亮平のもとへ戻ることを決心する。そこが、朝子と亮平が一緒に震災ボランティアをした地だったからだ。朝子は、ボランティアによって東北の地を自分の社会の一部にしていたからこそ、社会に踏みとどまったのだ。

 

 


恐怖の情熱に駆り立てられて歓びへ出かける

 

 バルトの翻訳者・石川美子は、彼が歓びのテクストについて語るときには「よろこびにみちた気分はあまり感じられない」という(『ロラン・バルト』中公新書)。そのとおりだ。バルトは本心では、温かい書斎のオレンジ色の照明の下で、プルーストやフローベールなんかをぬくぬくと楽しみつづけたいのである。彼が安心できるのは楽しみのテクストであり、歓びのテクストは恐怖にほかならなかった。何よりの証拠に、『テクストの楽しみ』のエピグラフには「わが生涯における唯一の情熱は恐怖であった ホッブズ」とある。彼は恐怖の情熱を帯びながら、歓びについて綴ったのだ。
 彼は、歓びのテクストを恐怖していたが、決して避けられないことも知っていた。社会は、平和で安穏とした楽しみの日々だけでは成り立っていない。あるとき、社会的常識の破壊やイノベーションやエロティシズムが、あるいは平和を脅かすような事態が、厳然として現れる。テクストも同様だ。「テクストの歓びは束の間のものではない。もっと悪いものだ。時期尚早なものである」。僕らが時期尚早にやってくる歓びから逃れる術はない。だからこそ、バルトは恐怖の情熱に駆り立てられて、自分のほうから寒く冷えた外へ、青い歓びのテクストへ出かけたのだ。『テクストの楽しみ』には、そうやって歓びと楽しみのあいだを行ったり来たりするバルトの姿が描かれている。

 

 


社会を道徳の外側から眺める

 

 僕らもまた、バルトや朝子のように、ときに青い歓びへ、道徳が禁止するもの=悪へと踏み出す必要があるだろう。なぜなら、酒井健が『バタイユ入門』(ちくま新書)で言うように、「禁止を破って悪をなすことが、実は狭い人間性を超えていく行為であることを、そしてそのようにして得られる聖なるものの感情が人間の深い可能性であることを認識しておかねばならない」からだ。「道徳によって禁止されていたもの、悪とみなされていたものは、たかだか個体の維持のためにそう処置されていたにすぎないということをしっかりわきまえておく必要がある」からだ。
 朝子は一時的に麦についていくことで、道徳の外側を見たはずだ。社会を外から眺める見方を知ったはずだ。道徳の外側、理性の外側には、聖なるもの、すなわち不合理な暗部や動物的欲望がある。いくら見ないことにしようとしても、締め出そうとしても、人間社会にはそうしたものが多量に存在し、渦を巻いている。朝子にはそのことがわかっただろう。何よりも、自分のなかに不合理な動物的欲望があることを痛感しただろう。戻った後の亮平との生活がうまくいくかどうかはわからないが、社会を道徳の外から眺めた経験が朝子の人生を支えるだろう。だって、僕らは自分や周囲の聖なるものと付き合いながら生きるほかにないのだから。
 ただし、現実社会で朝子のように大胆に踏み出すのは危険だ。僕は踏み出したい人を止める気はないが、現実社会で悪をなせ、などと言うつもりもない。その代わりに、僕らには物語や芸術がある。あるいは歴史書や哲学書や科学書やエッセイやノンフィクションがある。僕らはそうした仮想世界や本のなかで青い歓びを味わい、社会を道徳の外側、理性の外側から存分に眺めたらよいのだ。

 


⊕ アイキャッチ画像
『テクストの楽しみ』ロラン・バルト/みすず書房
『マダム・エドワルダ/目玉の話』

 ジョルジュ・バタイユ/光文社古典新訳文庫
『寝ても覚めても』柴崎友香/河出文庫

 

『零度のエクリチュール』ロラン・バルト/みすず書房
『バタイユ』佐々木雄大/講談社選書メチエ
『バタイユ入門』酒井健/ちくま新書
『ロラン・バルト』石川美子/中公新書

 

⊕ 多読ジムSeason09・冬
∈選本テーマ:青の三冊
∈スタジオふきよせ(松尾亘冊師)

3冊の関係性(編集思考素):三間連結型

『マダム・エドワルダ』→『テクストの楽しみ』→『寝ても覚めても』

 

⊕ 著者プロフィール

∈ロラン・バルト
 ロラン・バルトは1915年11月12日に、フランス北部の港町シェルブールで生まれた。第一次世界大戦のさなかであり、ロランが一歳にもならない1916年10月末に、父は北海で戦死してしまう。父親の影がほとんど感じられない家で、少年ロランは母と祖母と叔母という女性たちに囲まれて穏やかに育ったのである。9歳でパリに移り住むが、パリでのロランたちの生活は、経済的にいっそう厳しくなった。食べる物のない日もあった。貧窮生活ゆえに、ロランは自分たちが社会に組みこまれていない「少数派」であるという意識をつよめたのだった。エリートの道を歩み始めるが、たびたび肺結核になり、各地を転々として療養生活を送った。1946年にパリに戻った後、批評家としてデビューする。仕事のためにブカレストやアレクサンドリアに住んだこともあったが、祖母の遺産を手に入れ、1955年にパリのアパルトマンを購入して母と一緒に暮らし始める。彼は死ぬまでこのアパルトマンで生活した。
 1953年に『零度のエクリチュール』を発表して以来、『ミシュレ』『現代社会の神話』『エッフェル塔』 『モードの体系』『S/Z』『記号の国』『サド、フーリエ、ロヨラ』『テクストの楽しみ』 『ロラン・バルトによるロラン・バルト』『恋愛のディスクール・断章』『明るい部屋』などの著作を発表した。文学論だけでなく、現代神話論、ファッション論、日本論、恋愛論、写真論など、一冊ごとに異なるテーマを扱った。
 恋多きゲイで友人は多かったが、長く母と二人で生活し、母の死後は独りで暮らした。1980年に交通事故をきっかけとした院内感染により死去。死後にインタビュー集『声のきめ』や論文集『言語のざわめき』、エッセー集『偶景』などが出版された。

 

∈ジョルジュ・バタイユ
ジョルジュ・バタイユは、1897年、フランス中部の小さな町・ビヨンで生まれた。父親はすでに梅毒を患い、全盲状態だった。バタイユは子どものときから父親の介助にあたらされ、不快な衝撃を胸に刻みつけられた。これが彼を近代西欧の外側に立たせた原体験だ。 1928年に初の小説『目玉の話(眼球譚)』を書き、1929年からは文化総合誌『ドキュマン』を主宰した。その後、政治団体〈反撃〉や秘密結社〈無頭人(アセファル)〉を結成したり、ロジェ・カイヨワたちと「社会学研究会」を発足させたりしたが、第二次世界大戦前によってすべて解散し、バタイユは孤立する。
 しかし、モーリス・ブランショとの出会いをきっかけにして、大戦中に『内的体験』『有罪者』『ニーチェについて』の三部作、すなわち『無神学大全』を書き上げる。この時期に『マダム・エドワルダ』を書き、戦後すぐに『目玉の話』(眼球譚)も大幅に書き換えている。
 戦後は書評誌『クリティック』を始めるとともに、『呪われた部分(蕩尽)』『エロチシズム』『至高性』『宗教の理論』『ラスコーの壁画』『マネ』『文学と悪』『エロスの涙』などを次々に書いた。小説としては『C神父』『不可能なもの』『わが母』などを執筆している。1962年、頸部動脈硬化症により死去。

 

∈柴崎友香
1973年大阪生まれ。1999年短編「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」が文藝別冊に掲載されデビュー。2000年初の単行本『きょうのできごと』刊行(「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」所収)(2003年 行定勲監督により映画化)。2007年『その街の今は』で第57回 芸術選奨文部科学大臣新人賞、第23回 織田作之助賞大賞。2006年度 咲くやこの花賞受賞。2010年「寝ても覚めても」で第32回野間文芸新人賞受賞。2013年『群像』で小説「パノララ」連載中。「エルマガBooks」で「よう知らんけど日記」連載中。朝日新聞大阪版夕刊で月1回「季節の地図」連載中。
 『きょうのできごと』『青空感傷ツアー』『ショートカット』『フルタイムライフ』『その街の今は』『また会う日まで』『主題歌』『星のしるし』『ドリーマーズ』『寝ても覚めても』『ビリジアン』『虹色と幸運』『わたしがいなかった街で』『週末カミング』『星よりひそかに』『春の庭』『パノララ』『きょうのできごと、十年後』『かわうそ堀怪談見習い』『春の庭』『千の扉』『公園へ行かないか?火曜日に』『つかのまのこと』『待ち遠しい』『百年と一日』など著書多数。


  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。