【三冊筋プレス】シーン・オブ・ワンダー:虫の星(田中泰子)

2022/10/20(木)08:35
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 <多読ジム>season11・夏の三冊筋のテーマは「虫愛づる三冊」。虫フェチ世界からのCASTをつとめるのは渡會眞澄、猪貝克浩、田中泰子の面々である。夏休みに引き戻してくれる今福龍太・北杜夫から生命誌の中村桂子へ、虫眼鏡から顕微鏡への持ち替え。虫と日本人の関係から神の正体にもリーチする考察の着替え。そして、千夜千冊『虫の惑星』に導かれた「センス・オブ・ワンダー」と幼な心の風景の乗り換え。多読する虫たちの祭典を堪能あれ。


 

◇昆虫の世界へ、ようこそ

 

 初めて触った昆虫は、モンシロチョウではなかったか? 風に揺れる黄色い花に停まる行儀よくたたまれた白い羽を、親指と人差し指の間に滑り込ませ、そっと摘む。と、次の瞬間、指先に伝わる微かなおののき。それに驚いて開いた指の腹に残された鱗粉の輝き。飛び去る小さな白い影。

 

 地球は、水と空気と植物の緑、そして虫で満ちている。こんな惑星は、他にない。『虫の惑星』は、アメリカの昆虫学者、ハワード・エンサイン・エヴァンズが、1968年に書いたエッセイ集だ。トビムシに始まり、トンボ、コオロギ、蝶、寄生バチなど、身近な昆虫たちの生態と、無限の広がりをもつ彼らの世界について語っている。

 中生代、昆虫は環境の変化に合わせ体のサイズを小さくすることを選択し、多様性を獲得した。彼らが生態系に果たす役割は測り知れないのに、そのメカニズムは解明されていない。著者は、人口爆発に備えて宇宙進出を企てるより先に、虫の生態に研究費をつぎ込むべきだと説く。

 ハーバード大学比較動物学博物館のチーフキュレイターでもあった著者は、昆虫はすべて、何か一つのことに関する専門家であるという。一匹の虫は小さく、融通がきかないが、虫全体として見た時、その数の多さと多様性ゆえに、どのような状況にでも対応できる、いわば最強の生物なのだと。虫は、単純にして複雑。その小さな世界は、広すぎて、人間の知力では捉えきれないのだ。

 

◇虫の社会・人間の社会

 

 地球上でその特定の役割を果たすため、多様に進化した虫。その行動を擬人化することで、二つの大戦の間の不安定な時代の揺らぎを、コミカルに描き出したのは、チェコを代表する作家、カレル・チャペックと兄のヨゼフだ。1921年に出版された戯曲、『虫の生活から』には、「浮浪者」が、人間を代弁するものとして全幕を通して登場する。第一幕では、美しく芳しい蝶たちの、軽薄な愛欲劇が展開し、第二幕では、フンコロガシが、蓄財のためだけに働くことを喜びとする庶民として描かれる。第三幕では、民族の繁栄を目指し、全体のために働く勤勉な蟻たちが、領土拡大のために戦争を始め、統率者の指示に機械的に従ったために全滅してしまう軍隊として表現される。登場したキャラクターのほとんどが死んでしまうことから、当時のチェコの語感では好ましくない表現である、ペシミズムと酷評された。それを受けて、カレルは、多少の救いを感じさせる第二のエピローグを用意する。浮浪者が、虫同様に宿命的な死を迎えるのではなく、森で行き倒れているところを木こりに助けられ、仕事の手伝いを頼まれ、生きる希望を見出すとしたのだ。

 1920年代、チェコスロバキアは独立国となり、ファシズムが台頭していた。その時代にあって、カレルは、チェコ民族独立の指導者で哲学者のトマーシュ・マサリク大統領の知己を得る。ヨゼフは、勤めていた「人民新聞」の紙面に、ファシズム批判の風刺画などを描いていた。ヨゼフは、1945年4月に強制収容所で亡くなり、カレルは、ナチス・ドイツがプラハを占領する前年の1938年、クリスマスの未明に肺炎で死去した。

 兄弟は芸術上の良き協力者であり、共に、多趣味。経験豊かな園芸家でもあった。文・カレル/画・ヨゼフで人民新聞に掲載された『園芸家の一年』には、タバコエキスと安石鹸の匂いをまとって、バラの小枝を刺繍のようにおおうアブラムシを退治する園芸家の様子が、兄弟一流のユーモアで綴られている。

 

 幼少期を過ごした家には、裏庭があった。夏から秋にかけて、ユスラウメやイチジクが実をつけ、鳥や虫が、それを目当てに訪れる。子供が、一日陽を浴びて過ごせる空間だった。ある日遊びに来ていた従兄が、虫眼鏡で足元の蟻を観察し始め、私と弟もそれに加わった。蟻たちはセミの死骸にとりついて、大きな獲物の解体の真っ最中だった。従兄は、蟻が黒々と集まっている部分に太陽光を集めようとしていた。それを見たからなのか、弟が騒いだからなのか、母がすごい剣幕で怒り、弟を連れ去った。

「あなたたちが何をしているのか、よく考えなさい」。

 そう言われるまで、酷いことをしているつもりはなかった。従兄と取り残されて、私は、鼻の奥がツンとなった。

 

◇空に向け心を放つ

 

 3歳になったばかりの頃、初めてプラネタリウムの投影を見た。地球が綺麗な青色でよかった、と妙に感動したことを覚えている。この時、太陽は、それ自体が燃えて光っていること、地球は、太陽の周りを回っていて、その光を受けて青く見えることを教わった。でも、どうやってわかったの? ほかに何が見られるの? 機械の中はどうなっているの? 帰り道、いくつもの疑問を父に投げかけた。月に一度、二人でプラネタリウムに通うことになった。

 

 嵐の夜の海べで波しぶきを浴びながら、声をあげて笑い合う大叔母と1歳8ヶ月のロジャー。アメリカの海洋生物学者、レイチェル・カーソンのエッセイ集『センス・オブ・ワンダー』は、なんとも微笑ましい二人の光景から始まる。

 人が生まれながらに持っている、センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る心が、いつまでも失われませんように、との願いが込められているこの本は、著者の死の一年後、1965年に友人たちによって出版された。

 潮の満ち干に時間の経過を知り、鳥の渡りに季節の移り変わりを感じること、夜は明け、冬が去れば芽吹きの春が来ることを、人は当然のこととして享受する。著者は、そのリフレインにこそ、天の配剤があるのだと説く。そして、未知に対する好奇心は、死の恐怖をも払拭すると、スウェーデンの海洋学者の言葉を引いて、生命に満ちた大地や海や空の広がりに気づいたすべての人に、終わりのない喜びが与えられる、と結んだ。

 カーソンは、1962年に出版した『沈黙の春』で、繰り返し大量散布する農薬や殺虫剤の恐ろしさを、おそらく世界で初めて、訴えた。その考え方は、「生命への畏敬」を唱えたシュヴァイツァーの概念に通じる。彼女は問う。「死の連鎖を引き起こしたものは誰なのか。…たとえ不毛の世界となっても、虫のいない世界こそがいいと、…きめる権利がだれにあるのか」、恐ろしい武器の矛先は、人間自身に向けられているというのに。

 カーソンは、1964年4月に全身を犯すガンのため亡くなる。その半年前、ステンドグラスの燦きをまとったモナーク蝶の群の渡りを、友人とともに見送った。蝶たちが風に乗り、ひらひらと羽を閃かせる光景は、まさに一生を生き切った高揚感を表現していた。

 

◇「センス・オブ・ワンダー」を呼び覚ます

 

 よく観察して、「なぜ?」と問うところから、すべての創造力は生まれてくる。もし、そう思えるなら、昆虫の観察はどうだろう? 科学も芸術も、自然を観察するところから、始まるのではないか? 地球上の生物の8割以上が昆虫なのだとすれば、観察対象に事欠かない。

 レイチェル・カーソンは言う。知ることよりも、感じることが大切なのだ。自分の五感で得た情報をもとに、自然と対話する。センス・オブ・ワンダーをもって、地球の鼓動に耳を傾ける。虫たちが死に絶えたあとの静寂を聞くのではなく。

 カレル・チャペックが演劇で試みたように、生き残りをかけた虫の活動を、人間の行動と対比させた時に感じる違和感は、人間が、同胞に対してだけでなく、自然環境に対しても容赦ないエゴイストであることを表している。

 すべての生命は、動物も植物も、一つの例外もなく、関係しあって地球の生態系を支えている。エヴァンズが言うように、土の中も水の中も、空気中も、地球上のあらゆる空間が虫で満ちている。もし生命体の濃度を感知するような特殊な装置で、宇宙から地球を見れば、いくえもの虫の層に守られた稀有な星だとわかるはずだ。

 

 虫は嫌い、見るのも嫌、ゴキブリなんかいなくなればいいのに。そんなことを言っていては、地球に住む資格はありません! 

 


Info

⊕アイキャッチ画像⊕

∈ハワード・エンサイン・エヴァンズ『虫の惑星』(早川フィクション)

∈カレル&ヨゼフ・チャペック『虫の生活から』(八月舎) 

∈レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』(新潮文庫)

 

⊕多読ジム Season11・夏⊕

∈選本テーマ:虫愛づる3冊

∈スタジオらん(松井路代冊師)

∈3冊の関係性(編集思考素):一種合成

   『虫の惑星』   ┓

             ┠ 『センス・オブ・ワンダー』

  『虫の生活から』┛

 

⊕著者プロフィール⊕

∈ハワード・エンサイン・エヴァンズ(1919-2002)

アメリカの昆虫学者でハチの専門家。コネチカット州イーストハートフォードで、タバコ農場を営む両親の元に生まれた。博物学、特に昆虫に興味を持つ。コネチカット大学で昆虫学のクラスに進むが、第二次世界大戦で中断。ニューファンドランドのセントジョンズに駐留している間、軍の寄生虫学者として働く。のちに、カンザス州立大学、コーネル大学、ハーバード大学、コロラド州立大学で学術職を歴任した。処女作は、『スズメバチ農場』(1962)。全米科学アカデミーのフェローであり、ボストン科学博物館のウィリアムJ.ウォーカー賞(1967)や全米科学アカデミーのダニエル・ジロード・エリオットメダル(1976)など、数々の栄誉を受けた。

千夜千冊0277夜『虫の惑星』ハワード・エヴァンズ

 

∈カレル・チャペック(1890-1938)

大戦間の チェコスロバキアで最も人気のあった小説家、戯曲家、エッセイスト、園芸家。ボヘミア東部、地方の開業医の息子として生まれ、プラハの大学で哲学を学んだ後、ベルリン、パリに留学。帰国後の1921年、「人民新聞」に入社。ジャーナリストとして活躍する傍ら、小説や戯曲の創作を始める。劇『R.U.R.』(1920)、「虫の生活から」(1921)で名声を得る。文学のあらゆるジャンルに名作を残した。その作品には、ヒューマニズムと、人間の真実を追究する哲学性と、暖かいユーモアが流れている。代表作に、ルネ・ウェレックが哲学的小説の世界的傑作と評した三部作『ホルデュバル』(1933)、『流星』(1934)、『平凡な人生』(1934)がある。SF『山椒魚戦争』(1936)と戯曲『母』(1938)では、アドルフ・ヒトラーとナチズムを痛烈に批判。

 

∈ヨゼフ・チャペック(1887-1945)

チェコ(当時、オーストリア=ハンガリー帝国の一部だった歴史的にボヘミアと呼ばれた地帯は、第一次大戦後、チェコスロバキアを経てチェコ共和国となった)の画家、著作家、園芸家、そしてホロコーストの犠牲者。弟カレルとの共著の、『九編童話』の挿絵がポピュラーだが、この中に、ヨゼフが書いた童話『第一の盗賊の童話』も含まれている。1921年、カレルとともにプラハの「人民新聞」に入社。紙面の風刺漫画を担当。ナチズムとアドルフ・ヒトラーに対する際どい批判により、ドイツがチェコスロバキアに侵攻した1939年に逮捕、収監され、1945年4月、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で亡くなった。

 

∈レイチェル・カーソン(1907-1964)

 レイチェル・カーソンは、アメリカの海洋生物学者で作家。1907年、アメリカペンシルベニア州スプリングデールに生まれる。文学少女で作家を夢見ていたが、ペンシルベニア女子大学時代「生物学」に魅せられ生物学者を志す。ジョンズ・ホプキンス大学大学院で動物発生学で修士号取得。アメリカ連邦漁業局・魚類野性生物局の公務員として海洋生物学にかかわる。著作として、「潮風の下で」(1941)、「われらをめぐる海」(1951)、「海辺」(1955)を出版。海の3部作と呼ばれ、ベストセラーになる。環境問題に世界の目を向けさせた「沈黙の春」出版の2年後、1964年春、癌にて永眠。

千夜千冊0593夜『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・カーソン

 

Info

⊕アイキャッチ画像⊕

∈ハワード・エンサイン・エヴァンズ『虫の惑星』(早川フィクション)

∈カレル&ヨゼフ・チャペック『虫の生活から』(八月舎) 

∈レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』(新潮文庫)

 

⊕多読ジム Season11・夏⊕

∈選本テーマ:虫愛づる3冊

∈スタジオらん(松井路代冊師)

∈3冊の関係性(編集思考素):一種合成

   『虫の惑星』     ┓

          ┠ 『センス・オブ・ワンダー』

  『虫の生活から』┛

 


  • 田中泰子

    編集的先達:ブルース・チャトウィン。29破を突破後も物語講座、風韻講座、そして多読ジムを開講と同時に連続受講中。遊読ナチュラリストである。現在は健康にいい家庭料理愛好家として、アレンジシフォンケーキを編集中。