【三冊筋プレス】自然の孤独を抱きしめて(渡會真澄)

2022/10/18(火)08:33
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 <多読ジム>season11・夏の三冊筋のテーマは「虫愛づる三冊」。虫フェチ世界からのCASTをつとめるのは渡會眞澄、猪貝克浩、田中泰子の面々である。夏休みに引き戻してくれる今福龍太・北杜夫から生命誌の中村桂子へ、虫眼鏡から顕微鏡への持ち替え。虫と日本人の関係から神の正体にもリーチする考察の着替え。そして、千夜千冊『虫の惑星』に導かれた「センス・オブ・ワンダー」と幼な心の風景の乗り換え。多読する虫たちの祭典を堪能あれ。


 

 とある夏の日、ふと地面にしゃがみ込むと、無数のアリがせわしなく動き回っていた。

 地球に存在する全生物種の数は、わかっているだけで約175万種。そのうち昆虫は6割ほどを占める。これは紛れもない事実だけれど、足元のアリのことをどれだけ知っているかといえば、はななだ覚束ない。そもそも漠とした数に、どれほどの意味があるのだろう。むしろ指で触れ、臭いを嗅ぎ、耳を澄ませることで感じられる小さな虫たちの存在こそが、確かなものではないだろうか。

 

昆虫少年からの手紙

 

 昆虫少年だった文化人類学者の今福龍太が、博物学者、科学者、絵本作家、小説家、詩人など14人の先生に向けてしたためた手紙が『ぼくの昆虫学の先生たちへ』だ。みずから描いた精緻な昆虫画も添えた。今福は、現在の自分から遡って少年期を回想する。
 アンリ・ファーブル先生の『昆虫記』をはじめて読んだのは、小学生時代の岩波少年文庫だった。先生はジガバチの細やかな観察をとおして、秘密の小世界を守り抜こうとする夢こそが、ぼくの昆虫学だと気づかせてくれた。そればかりか一冊の『昆虫記』は、ファーブル先生の名評伝を書いた山田吉彦先生やジガバチの精密画を描いた熊田千佳慕先生との邂逅をもたらしてくれたのだった。
 少年のころから使い続けている捕虫網の生みの親、志賀夘助先生は、虫への謙虚さを忘れない日本一の昆虫屋だった。先生のつくった網は捕まえた獲物を逃がさず、しかもなお、やわらかく包み込み、決して翅を痛めたりはしない。大人になった今、虫の乱獲と邪な商品化を憂う今福は、自分は珍種を探し求めるマニアではないという志賀先生の言葉を、あらためて深く受けとめる。
 あの『ロリータ』を書いたウラジミール・ナボコフ先生は、鱗翅学者でもあった。ロシアから亡命してヨーロッパへ移住し、アメリカで帰化生活を送った先生にとって、どこにいても蝶の採集行が一番のたのしみだった。一人きりになれることこそが最大の幸福の源だったのだ。ラテンアメリカなど各地を旅する今福も、少年期、たったひとり丹沢の山麓でウスバシロチョウを追いかけ、華やいだ豊かな孤独を求めていた。

 

無心に虫を追いかける

 

 好奇心だけをたよりに虫を追い、虫を採り、虫を集め、虫に陶酔する。およそ無用としかいえないような「ぼく」の昆虫学を、山梨の田舎の祖母は応援してくれた。キアゲハを麦藁帽子で捕まえて、足が一本取れ翅の傷ついた、びっくりするような標本をつくってくれたりもした。そんな祖母と共読したのが、どくとるマンボウこと北杜夫先生だ。この手紙だけが、老先生と少年の対話形式で綴られている。ふたりのやり取りは、虫の世界がいつも例外や混沌に満ちていることの驚きを、無心に虫を追いかけることの大切さを教えてくれる。少年は問う。マルダイコクコガネが捕りたかったのにヒラタクワガタがやってきたのは、ぼくの無心が呼び出した宇宙の不思議のようなものですか? 老先生は応じる。『幽霊』という小説を読んでみなさい。そこに問いの答えではなく、答えへの真摯な模索が書かれておるからな。

 

全裸のアブラゼミ

 

 北杜夫の『幽霊』は、一人称で書かれた忘却の物語だ。主人公のぼくは、時間の深みに消えた幼年期の記憶を胸の痛みとともにたどっていく。父、母、姉、家族は死の手にゆだねられ、幼いぼくは、ひとり昆虫図鑑に見入り、昆虫採集に熱中した。青白い全裸で殻にしがみつくアブラゼミ、銀白色の鱗粉を残したウラギンシジミ、魔法の燐光を明滅させるルリタテハ。むせるような草いきれのなか、圧倒的な憧憬に慄きながら、ぼくは自然から生まれてきた人間だ、ぼくは決して自然を忘れてはならない人間なのだ、と直感する。しかし、戦争がすべてを奪った。ぼくの昆虫標本は消失してしまった。少年から青年へ、孤独にこもりがちの日々を過ごしていたが、あるとき、ぼくは信州の山へ向かい、ヒメギフチョウに導かれるようにしてひとりの少女とすれ違う。名も知らぬ少女の像と母や姉の像が重なり、ぼくにひとつのおもいが生まれる。むかし父が異国の地で母とめぐりあったように、いつかまた、あの少女にめぐりあうかもしれない。自然の孤独を抱きしめて、人間のなかにおりて行こう。

 

生命のダイナミズム

 

 今福や北は、ぼくと自然のあいだに目を向けたが、虫をはじめ、小さな生きものを研究する中村桂子は『生命誌とは何か』で、さらにその奥へと分け入る。宇宙に存在する物質や原始の地球に誕生した生命体から、多様な生きものや人までをつなぐ。科学は生物の構造と機能の解明に貢献してきたが、いっぽうで学問と日常、知識と経験は分断されてしまった。それらを、あらためて一体化することをめざす。本来、生物は合理や客観だけではとらえきれない。巧妙、精巧だけれど遊びがある。偶然が必然となり、必然の中に偶然がある。正常と異常に明確な境目はない。こうした、矛盾に満ちたダイナミズムこそが生きものを生きものらしくしている。もちろん昆虫も人も、ゲノムからみたら同じ生きものなのだ。たったひとつの遺伝子から生命現象を解明するのではなく、自然のなかに入り込んで生命の来し方行く末の物語を紡ぎたい。中村は、生命誌に揺るぎないおもいを込めた。

 

小さな世界へのまなざし

 

 窓の外から虫の音が聞こえる。翅を震わせているのはカマドコオロギ、あるいはホシササキリだろうか。
 昆虫学の先生たちから、虫との付き合いかたや生きかたを学んだ今福龍太。ただひとり昆虫図鑑と昆虫採集だけを拠りどころに、自然から生まれてきたことを察知する北杜夫の小説の主人公、ぼく。脈々と継がれる生命の語り部、中村桂子。彼らには、ともすると忘れがちな自然への慎ましさと小さな世界への慈しみがある。最後に中村の言葉を引用したい。「わからないことのあるおもしろさを基本とした生命誌は、専門家と素人、研究者と生活者の区別なしに、誰もが当事者です」。昆虫に無我夢中になった少年たちは、まさしく自然の当事者だった。
 かすかな翅音に耳を傾ける。3人の背中越しに虫を追いかけ、自然の孤独に身を委ねた読書の、その名状しがたい悦楽が胸の奥で共鳴する。

 

Info


◆アイキャッチ画像◆
『ぼくの昆虫学の先生たちへ』今福龍太/筑摩選書
『幽霊 ある幼年と青春の物語』北杜夫/新潮文庫
『生命誌とは何か』中村桂子/講談社学術文庫

 

◆多読ジム Season11・夏◆
∈選本テーマ:虫愛づる3冊
∈スタジオヨーゼフ(浅羽登志也冊師)
∈3冊の関係性(編集思考素):三間連結

 

◆著者プロフィール◆
∈今福龍太
1955年東京に生まれ湘南の海辺で育つ。幼年時代は虫採りに、青年時代は山登りに熱中。1980年代初頭からラテンアメリカ各地でフィールドワークに従事。クレオール文化研究の第一人者である。2002年に奄美・沖縄・台湾の群島を結ぶ野外学舎を創設、主宰。著書に『薄墨色の分包』『群島・世界論』『宮澤賢治 デクノボーの叡知』ほか多数。本書の原稿執筆は2020年。新型コロナウイルスの拡散により日常生活が大きな変化を余儀なくされた時期と重なる。
千夜千冊1085夜『クレオール主義』今福龍太

 

∈北杜夫
1927年、医者であり歌人の斎藤茂吉の二男として東京に生まれる。本名は斉藤宗吉。長野の松本高校を経て東北大学医学部を卒業。精神科医になる。ユーモアに満ちたエッセイストで、どくとるマンボウの名をを冠した『航海記』『昆虫記』『青春記』等がある。ほかに『楡家の人びと』『輝ける碧き空の下で』など。2011年逝去。本書は1952年から雑誌「文芸首都」に分載された後、一冊にまとめられ自費出版。当時の発行部数は750部だった。
千夜千冊1721夜『パパは楽しい躁うつ病』北杜夫・斎藤由香

 

∈中村桂子
東京都出身の1936年生まれ。理学博士。東京大学理学部化学科を卒業後、同大学院で生物化学を修了。三菱化成生命科学研究所の人間・自然研究部長、早稲田大学人間科学部教授、大阪大学連携大学院教授などを歴任。その後、JT生命誌研究館館長に着任。現在、名誉館長。『小さき生きものたちの国で』『科学者の目、科学の芽』『いのち愛づる生命誌』など著書多数。本書は日本放送協会より2002年に刊行された『生命誌の世界』を改題、文庫化したもの。
千夜千冊1618夜『自己創出する生命』『ゲノムが語る生命』中村桂子


  • 渡會眞澄

    編集的先達:松本健一。ロックとライブを愛し、バイクに跨ったノマディストが行き着いた沖縄。そこからギターを三線に持ち替え、カーネギーで演奏するほどの稽古三昧の日々。知と方法を携え、国の行く末を憂う熱き師範。番匠、連雀もつとめた。

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