【三冊筋プレス】「わからないこと」を読もう(松井路代)

2023/02/07(火)08:00
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 2022年のノーベル物理学賞

 2022年のノーベル物理学賞は、<「量子もつれ」状態の光子の実験によるベルの不等式の破れの証明、そして量子情報科学の先駆的研究>に貢献したとして、ジョン・クラウザー博士、アラン・アスペ博士、アントン・ツァイリンガー博士の三氏におくられた。
 量子力学分野のノーベル賞選出がきっかけで、「量子もつれ」とは?という記事や番組がいくつも出た。
 ちょうど、4月からイシス編集学校輪読座「湯川秀樹を読む」で、極微の世界の物理学に6か月間にわたって取り組んでいたところだったので集中して視聴した。

 

 極微の世界のモノの振る舞い

 

 日本人で最初にノーベル賞を受賞した湯川秀樹の専門は理論物理学である。すべての物質の「素」となるモノの在り方を探究するのが生涯のテーマだった。
 19世紀まで、最小単位は原子だった。20世紀の初めに原子核を砕くと陽子や電子などのさらに小さな小さなモノが飛び出してくることがわかった。それらは素粒子と名付けられた。 
 詳しく調べるほど、その種類の多さや、従来の物理学では説明できない「奇妙な」振る舞いに、研究者たちは頭を悩ませはじめる。
 ミクロの世界は、素粒子は粒と波の両方の性質を持っているらしい。極微の世界を観察、記述しようとする量子力学理論は素粒子物理学の重要なツールだったが、量子力学自体も湯川秀樹が生きた時代はまだ構築途中だった。
「量子もつれ」は、中でも極めつけの「ジョーシキ」を超えた現象で、アインシュタインは「存在しない」とまで言っていた。
 アインシュタインの死後、三氏の実験で「ある」ということが証明されたのだった。
 ノーベル賞のニュースを聞いて、アインシュタインや湯川秀樹が生きていたらどう感じ、語っただろうかと考えた。

 

科学ライター、ルイーザ・ギルダーのデビュー著作
『宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか 』

 

 量子もつれという現象

 

 「量子もつれ」現象については、アメリカの科学ライター、ルイーザ・ギルダーによる『宇宙は「もつれ」でできている「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか 』に詳しい。
 <ど文系>の私が説明するキケン性を承知で書くと、離れたところにある2つの素粒子が「もつれ」の状態であるとき、片方の素粒子の性質を測定すると、その瞬間、もう一つの素粒子の性質が決定してしまうという現象である。
 木星と金星ほど離れていてもそうなる。
 相互作用にしては、情報の伝達が速すぎる。
 従来の物理学観だと光よりも速い「何か」の想定が必要となるが、相対性理論の枠組みでは、光より速いものは存在しない。
 どうやら「もつれ」状態の二つの粒子は、離れていても一つの情報の「系」のなかにあるとしかいえなくなってきた。
 量子力学の発展に伴い、情報、あるいは情報系の見方がひっくり返りつつある。


 目鼻を付けると死ぬ

 量子力学も科学の一つである。
 仮説→実験→観測→検証のサイクルを回して、理論の確からしさが上がっていく。しかし、ここまで小さなモノの世界になると、実験、観測が極めてむずかしくなってくる。
 人間の視覚で素粒子を直接見ることがかなわないだけではない。
 例えば、対象を見るために当てる光すら、観測対象の素粒子の動きに影響を与えてしまう。

 湯川秀樹はそのむずかしさを、荘子の「渾沌の死」の寓話になぞらえる。

 太古に生きていた中央の帝王「渾沌」は、目、耳、口、鼻等を持たないズンベラボーだった。北と南からやってきた二人の神が、もてなしのお礼に、目をはじめとする7つの穴を開けてあげた。すると渾沌は死んでしまったという寓話である。
 「渾沌」は、現実世界、言葉で分節化される前の「ありのまま状態」のアナロジーだ。
 物理学では「ありのまま」から、一種の仮想的な状況を作り出して実験を行い、観測し、法則を導き出すという方法で発展してきた。
 20世紀に至り、観測機器は素粒子を作り出す巨大な加速器にまで発達をとげた。
 厳密性を高め続けた結果、人間の元々持っている五感から発生した「運動」や「時間」や「位置」という言葉を使うことすら見直さなければならないところに至っている。
 実は量子が「奇妙」なのではなく、私たちの認識や言葉のほうに限界があったのだ。
 言葉で目鼻をつけると、「生きた」状態での観察はもう不可能になってしまう。


 タイパではなく

 一人の天才が作った相対性理論とは異なり、量子力学は数えきれないほど多くの物理学者が、対話を通じて理論の精緻化を進めてきた。
 年々、物理学分野の実験にはとてつもない時間と費用がかかるようになってきている。
 学会で物理学者たちが会い、コーヒーやワインを飲み、語り合ううちに、取り組む人の輪は広がっていった。「わからないこと」や「もしかしたら間違っているかもしれないこと」に対して人生をかける。
 2022年の流行語の一つが、タイムパフォーマンスを略した「タイパ」だったが、物理学者たちの姿勢はそれとは遠く離れたところにあった。

 本の中の世界で

 湯川秀樹が暗中模索に耐え、創造性を発揮できたのは、幼いころから親しんでいた漢籍や本の影響が大きいと考える。
 1963年には『本の中の世界』という読書案内本を書いている。好きな本として取り上げられているのは、「荘子」「近松浄瑠璃」「カラマーゾフの兄弟」「舞姫」、エラスムス「平和の訴え」、「山家集」「源氏物語」など古典や文芸作品が少なくない。

1963年第一刷『本の中の世界』湯川秀樹


 併せて収められている「短かい自叙伝」で、湯川秀樹は中でもずっと惹かれ続けているのは、小学校に入る前に祖父について素読をした荘子であると語っている。
 著者たちとの交際が、アナロジカルな飛躍力、対話によって理論を構築していく力の素となった。そして、本の世界に没入することは「大きな喜び」そのものだった。


 「わからないこと」で変わろう

 湯川秀樹をはじめとする科学者の残した文章が、小説とはまた違う「乾いた涼しい風」を運んでくることに魅せられた漫画家の高野文子は、科学者たちの本と横顔を伝える『ドミトリーともきんす』を描いた。
 登場するのは、青春時代のユカワくんこと湯川秀樹、トモナガくん(朝永振一郎)、ナカヤくん(中谷宇吉郎)、マキノくん(牧野富太郎)である。もし四人が同じ下宿に住んでいたら、こんなユーモラスな会話があったかもしれないと想像することは楽しい。

 

『ドミトリーともきんす』高野文子

 読書はいつでも、世界の見方を新しくしてくれる。 
 一挙に新しくするには、時々腰を据えて科学本に取り組むのが一番だと考えている。『ドミトリーともきんす』やサイエンス番組は、そのとっつきにぴったりだ。
 「短かい自叙伝」で湯川秀樹は、小学校の頃、作文の時間が「書くことを思いつかない地獄の時間」だったと語っている。
 大人になり、物理学の文章を書いているうちに、心のうちを文章にできるようになったという。
 人は、いつでも、どこででも学べる。変わっていける。
 このことこそ、科学本読書が教えてくれたことだった。

『ドミトリーともきんす』より、

ユカワくんのプロフィール

 

info


『宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか 』ルイーザ・ギルダー/講談社
『本の中の世界』湯川秀樹/岩波新書
『ドミトリーともきんす』高野文子/中央公論新社

◆多読ジム Season12・秋◆

∈選本テーマ:2022年の三冊
∈スタジオNOTES(中原洋子冊師)
∈3冊の関係性(編集思考素):三位一体

 

撮影協力:カフェうつぎ


  • 松井 路代

    編集的先達:中島敦。2007年生の長男と独自のホームエデュケーション。オペラ好きの夫、小学生の娘と奈良在住の主婦。離では典離、物語講座では冠綴賞というイシスの二冠王。野望は子ども編集学校と小説家デビュー。

  • 編集かあさん家の千夜千冊『ことば漬』

    編集かあさん家では、松岡正剛千夜千冊エディションの新刊を、大人と子どもで「読前読書」している。  再読    昨秋、子ども編集学校を企画・実践するメンバーと『松岡正剛の国語力 なぜ松岡の文章は試験によくでるのか […]

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