【三冊筋プレス】三つ目がとおる 鳥の目・虫の眼・花の芽(金宗代)

2022/02/08(火)08:49
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白洲正子もチャペックもウィリアム・モリスもメーテルリンクもみんなボタニストの編集的先達だ。<多読ジム>Season08・秋、三冊筋エッセイのテーマは「ボタニカルな三冊」。今季のCASTはほぼほぼオール冊師の布陣をしく。日本フェチの福澤美穂子(スタジオ彡ふらここ)、軽井沢というトポスにゾッコンの中原洋子(スタジオNOTES)、編集かあさんでおなじみ松井路代(スタジオ茶々々)、ついに三冊筋デビューを果たした増岡麻子(スタジオこんれん)の四名の冊師たち。そこに、多読ジムSPコースとスタンダードコースを同時受講しながら読創文と三冊筋の両方を見事に書き切った熱読派の戸田由香と、代将・金宗代連なって、ボタニカル・リーディングに臨む。


 


最も幸福な人とは、己れの幸福をいちばんよく知っている人のことなのだ。そして己れの幸福をいちばんよく知っている人は、幸不幸の違いは、ただ高潔で不屈、かつ人間的で勇気ある考えのあるなしの違いにすぎないということを誰よりもよく知っている。

 あるところに、青い鳥をほしがっている病気の女の子がおりました。

「その子、どこか悪いの?」とチルチルが訊ねると、妖精ベリリュンヌは答えました。「それが、原因不明の病気でね。ひたすらしあわせになりたがっているのさ」。

 ベリリュンヌはさらに言う。

「人間っていうのはほんとにみょうな生きものだね。妖精たちが減ってしまってからというもの、人間はなにも見ないばかりか、目に見えるものをうたがいもしない」。

 人はなぜ幸福になれないのか。幸福を感じることはなぜ、不幸を感じるよりもずっとむつかしいのか。ベルギー生まれの文人モーリス・メーテルリンクはそのことばかりをずっとずっと考えつづけた。

 

 メーテルリンクという人はファーブルのようでもあるし、パスカルのようでもある。シェイクスピアのようでもあるし、スウェーデンボルグやシュタイナーのようでもある。

 もし、このエッセイの本文を最後まで読むのがまどろっこしいのであれば、冒頭から末尾まで随所に四角で囲んだメーテルリンクの言葉を読んでもらうだけでも、その不思議な味わいはかなり伝わるのではないかと思う。

 そんなメーテルリンクについて松岡正剛はこう読んだ。千夜千冊68夜『青い鳥』にはこう書かれている。

あえて日本語の感覚で説明してみるが、ここには『験』とは何か、『憑』とは何かということの根本が問われていた。混乱を救うものは瞬間と運命の両方にひそんでいることを告げていたーーー68夜『青い鳥』

 

 また、1612夜『つぼみたちの生涯 ふしぎの植物学 雑草のはなし/都会の花と木 植物はすごい』にはこうも書かれていた。

日本語にはゲン(験)、ツキ(憑)、カン(勘)という言葉がある。メーテルリンクはこのゲン・ツキ・カンのような『はたらき』、つまりは理念実装力ともいうべきを霊感要素や霊感物質として華麗に追跡するようなところがある。ぼくはそれを『ファンタシウムの追跡』と呼んで、メーテルリンクを偏愛していた時期があるのだが、そのファンタシウムはチルチルとミチルなら『近所』に見いだしてほしいものだったが、実は植物の『根と葉と花』にこそ充ちていたわけであるーーー1612夜『つぼみたちの生涯 ふしぎの植物学 雑草のはなし/都会の花と木 植物はすごい』

 

 さらに『遊学Ⅱ』(中公文庫)では「ゲン・ツキ・カン」に「ウン(運)」をプラスワンして、メーテルリンクのエッセイ『埋宮』(1902)の宇宙感覚を記述する。

現代の最も不可思議な事態とは、人生のここぞという重大な出来事になぜか神秘のようなものが関与していることである。それはゲン(験)をかつぐとかツキ(憑)がいいとかというごく日常的な感覚を借りながら、しかしときに、ウン(運)に見はなされたとかカン(勘)がにぶったといった深刻をともなって、やってくるーーー『遊学Ⅱ』(中公文庫)

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幸福も不幸も、それが外からやってくる時でさえ、われわれ自身の中にしかないというのはおそらく嘘ではない。われわれの周囲のものは何もかも、こちらの心の持ち方で天使にもなれば悪魔にもなる。ジャンヌ・ダルクは聖者の声を聴き、マクベスは魔女の声を聴いた。

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何一つ高邁な希望のない者たちは「運」をまるで病弱な子どものように内に閉じ込めてしまう。逆にそれを、人類がまだ全体を認識しきれない無限の領域へと、おおらかに解放する者たちもいる。しかも解放したからといって、彼らがそれを見失うことはない。

 ゲン・ツキ・ウン・カンを少しつまらない言葉で言い換えるなら「神秘」。もっとつまらない言い方、というか最悪な言い方をすると「スピリチュアル」だ。そんな無味乾燥な”ファスト・ワード”で言いあらわした途端、メーテルリンクの花は瞬く間に凋(しぼ)んでしまう。萎(しお)れてしまう。枯れてしまうに違いない。
 つくづくメーテルリンクは、その「瞬く間」こそ逃してはいけないとそう言っている。幻想元素を仮説して、「ファンタシウムの追跡」とでも名づけないかぎり、メーテルリンクという青い鳥はいつだって籠の外なのである。


 ここまで読んでもらうだけでも、メーテルリンクとは何者なのか、やっぱり只者ではないことがおおかた見当がつくことだろう。ゲン・ツキ・ウン・カンこそが人間的本質、宗教的本質、文明的本質、いや、宇宙的本質のコアであることを早々に見抜いた作家だった。

 偶発性こそが、偶有性こそが、偶然こそが世界の当然なのであって、それを必然に変えられるか、どうか。必然の渇望と勇気を持てるか、どうか。メーテルリンクはそのことを問い続けたのである。

 そう考えていま一度、『青い鳥』を読み返してみると、マイケル・サンデルの『実力も運のうち』(早川書房)ではないけれど、サンタクロースも見向きもしない貧しい木こりの子として生まれたチルチルとミチルを主人公にした魂胆もこれで少しははっきりするのではないだろうか。

 

 それより何よりも分からないのは、この物語のいちばんの不思議は、ではどうして、そのチルチルとミチルのもとから青い鳥は飛び去ってしまったのだろうか。メーテルリンクは、青い鳥にいったい何を託そうとしたのだろうか、ということではないだろうか。

 結論から言ってしまえば、何かが欠如していること、「ないもの」を描くことで、いっそうよく世界の意味や仕組みを直感できるように企んだのが『青い鳥』という夢幻劇なのである。ということは、青い鳥とは「秘密そのもの」なのである。

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ことのほか耐え難い幻滅が、瞬時にわれわれを打ちのめしたとしても、「人生は夢ほど美しくない」などといって嘆いてはいけない。むしろ「人生に受け容れられなかったのだから、自分の夢に何かがかけていたのだ」といえるようになろう。

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世界のどこにいようと、自分は見捨てられているのだと感じれば感じるほど、人はそれだけ己れの根源の力を再発見する。

 今回取り上げる三冊はメーテルリンクの『青い鳥』『花の知恵』『限りなき幸福へ』である。『蜜蜂の生活』『蟻の生活』『白蟻の生活』の昆虫三部作など工作舎から出版されている一連の博物文学の端緒となった著作が『花の知恵』(1907)だ。『青い鳥』(1906)とほぼ同時期に執筆された。

 原題の「L’intelligence des Fleurs」は直訳すれば「花の知性」あるいは「花の知能」なのだが、それはともかく『青い鳥』と『花の知恵(知性、知能)』のタイトルを強引に一種合成すれば、ノヴァーリスの『青い花』と関係線を引くこともできる。

 

 と言っても、もともとメーテルリンクはノヴァーリスを「精神の究極の表現者」と崇敬し、『ザイスの徒』と『断章』の仏訳(1895)を発表している。その序文が収録されているのが最初のエッセイ集『貧者の宝』(平河出版社)だ。
 早世した弟、同郷フランドル地方の中世の神秘家ロイスブルーク(ルースブルックあるいはリュイスブロック)、そしてノヴァーリスなど、このエッセイ集にはメーテルリンクの極めてプリミティブな感情と思索が吐露されている。これを読んだリルケは「これほど深い沈黙がその内にこめられ、これほどに孤独と無私と静寂が、そしてこれほどにすべての声高さと喧騒に超然と背を向ける姿勢がこめられている著書を、私は知らない」と絶賛した。

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悲しみは、人が幸福な時に悲しみの戸棚に預けておいたものに正確に見合った分だけを返してくるにすぎないのだから。

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だが、大切なのは苦しみから逃れることではなく、それがもたらすものを取捨選択することなのだ。これを忘れてはならない。このような取捨選択は意味のない、見えない小さなことであり、そんなものに原因が明らかな苦しみを取り除く力はないと、はたして断言できるだろうか。

 『貧者の宝』に続く二作目のエッセイ集が『限りなき幸福へ』だった。メーテルリンクの全集をモーラしたわけではないが、ぼくはこの本が『青い鳥』の最良のトリセツなのではないかと思っている。

 それだけではない。日本のどこの書店にも「スピリチュアル」と同じくらい嫌味のする「自己啓発」という棚ジャンルがあるが、『限りなき幸福へ』にはそれとはまったく別様のとんでもない啓発力が漲っている。

 同じエンライトメント(enlightenment)でも啓蒙ではない、やはり啓発だ。日本刀のように研ぎ澄まされた啓発の発条がある。

 この三冊筋の随所に散りばめられている番号付の引用はすべて『限りなき幸福へ』からとった。

 

 ちなみにプリミティブな感覚といえばその極北を描いているのが、メーテルリンクが85歳の時に記した遺作『青い泡(ビュル・ブルー)ーーー幸福な思い出』ではないかと思う。日本語訳は『ガラス蜘蛛』(工作舎)で読むことができる。

 生地のガンで過ごした少年時代を懐かしく回想した短いエッセイなのだが、最晩年にして最年少を綴る凄味を感じることができる。人生の最後にもう一度、「青」を持ち出すことでノヴァーリスへの最高のリスペクトを示したのであろう。
 メーテルリンクは、ノヴァーリスが「人は生涯に一度の聖書を書くために生まれてきている」と言ったことを忠実に守ろうとした。ただし、イエスキリストとしてというよりは、アンチキリストに擬態した。

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われわれは天秤皿の一方に不幸を載せ、他方に各々が思い描く幸福を置く。未開人は幸福のさらに酒や白粉や羽飾りを置く。文明人は多少の金貨と適度な気晴らしを置く。しかし、叡智ある者は見えざる多くのものを置く。たとえば、魂を。たとえば、浄められた不幸をさえ。

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それは偉大で高貴な迷いやためらいが心に生じたら、たてまえの道理や現実や正義に関わることなく、勇気を出して、つまらぬたてまえなど一気に駆け抜け、遠ざからなければならぬということだ。われわれが抱く義務や正義や真実の観念は今は自明で、進歩的で、揺るぎないものに思えても、数年後、数世紀後には当然そうでなくなるだろう。だから、なるべく早いうちにいちばん高い視座と理想を持つことが賢明なのだ。

 27歳のとき出版した処女詩集『温室』にはシェイクスピアの次の一言がエピグラフとして引用されている。

「そして手にはもっと多くのものを私たちに示してくれるガラスの盃」。
 メーテルリンクは、ガラスの温室やガラスのドーム、ガラス瓶やガラス鉢、クリスタル・ガラス、ガラスのオブジェとその結晶的イメージを子どもの頃からこよなく愛した。だからこそ、ノヴァーリスなのである。

 『青い鳥』でチルチルとミチルが妖精ベリリュンヌからもらった「もののほんとうの姿」が見える道具も「きらきら光る」ダイヤモンドだったはずだ。

 

 また、若い頃からプラトンプロティノスヤコブ・ベーメを読み耽り、グノーシス錬金術、カバラ、神智学では飽き足らず、この世界を支配する見えないもの、すなわち死後の世界、テレパシー、幽霊、オカルティズムにもずんずんとハマっていった。

 ただし、教義や主義や思想の沼にハマることはほとんどなかった。ただただ、未知と秘密を冒険したかったのである。これについては『花の知恵』の巻末に訳者の高尾歩さんによる、すばらしい解説がある。アルトーが「闇に生命を与えた」と評した意図がよく伝わってくる。

メーテルリンクにとって、人間の知性は、何より自ら闇を用意して自己証明を行なってゆく永遠の生成原理であった。闇は、それが認識されるとき既につねに知性の衝動を引き受けている。そして、メーテルリンクにあっては、その闇のなかに必ず、姿形を纏いながら自分と共振している何らかの像(イマージュ)が現われ、知性は微光を放つその像とともに闇に向って謎解きに出かけていくーーー高尾歩(『花の知恵』解説)

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神の計算に従えば、人間とは奪うことによって与え、与えることによって奪うという答えが出るだろう。凡庸な魂は、往々にして奪う魂との出会いがあってこそ成長できるのである。

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だから運命は、実際は愛を奪ったり、勝利へ導いたり、あるいは人を王につけたりする偶然性の中にではなく、むしろ夜、星が無心にまたたく空や、身近な人や恋人を、あるいは心に湧いてくる数知れぬ想念を、われわれなりにどのように受け容れるか、その受け容れ方の中にあるといえよう。

 『花の知恵』には「地上の一点に終生つなぎとめられるという掟」と「一族による地球の全面侵略の野望」の拮抗が描かれている。つまり、「花の文明」が描かれているのである。

 「自立した小さな知性」の働きにしばし注意のカーソルを向けてみれば、人間が飛行機を発明するはるか昔に、カエデのプロペラ、タンポポの滑翔装置など花はみごとな飛行システムを創造していることを知ることができる。
 この一例だけでも十分だが、ミモザの戦慄(おのの)き、セキショウモの悲劇、セージの愛の罠、ランの複雑な仕掛けを観察できれば、人間に先行して花が文明を築いていたことは明らかであろう。もちろん、蜜蜂も蟻も白蟻もそれぞれの「虫の文明」を持っている。

 

 メーテルリンクには「鳥の目」も「虫の眼」も「花の芽」も生えている。しかも生えているだけではなくて、この三つの目がよく通る。三つ目がとおる。「とおる」と言えば、”通る”だけではなくて、能の「融」のように”透る”し、”徹(とお)る”ゆえにはるばると”遠る”。
 極小から極大まで見通すこの三つ目の編集装置は、全世界の守護霊であるような「地球霊」を確信している。それはジェームズ・ラヴロックの「ガイア(GAIA)」のようなものでもあるが、もしかしたら、青い鳥は地球霊のシンボルでもあったのかもしれない。青い鳥の「青」は地球色の予知夢なのかもしれない。

 チルチルとミチルが夢の中で最後に訪れた《未来の王国》は「空気の青、水の青、窓の青。深い青、きらきらした青、淡い淡い青。息をのむ青、さびしげな青、やさしい青。粉っぽい青、とろけそうな青、めまいをおこしそうな青」だった。

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幸福であるということは、隠れた微笑や、無数の匿名の出来事で作られた誰も気づかない埋もれた神秘の宝石を見つけ出そうとすることにほかならない。そしてそれは、われわれ一人一人の内に埋蔵されているものなのだ。

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どこへ行こうが、天空のもと、われわれの生の流れは、たゆみない河のように滔々と流れていく。それは栄光と幸福にみちた宮殿の脇も流れれば、光は当たらぬにせよ壁に囲まれた狭い牢獄の中も流れる。重要なのは、絶えることのない、すべての人に平等に流れるこの河の広さや深さや力ではなく、水を汲むためにそこに入れる器の美しさや、大きさなのだ。流れから汲み取られた水は必ず器の形になる。そしてその器は、われわれの思考と感情によって形成される。思考と感情こそ、古代の彫刻家が作った盃が女神の乳房(サン)の形をしていたように、内なる運命の母胎(サン)となる。

 「しかし、謎は多い」とメーテルリンクは書く。「問うても仕方のないような謎だ。人間はまだその答えを受けとるだけの器官をもっていないのだから」。謎の答えは「人間以外」から、しかも「微光」としてしか現われてこない。「そうした微光のいくつかは昆虫や花々によってもたらされる」。

 それなのに、それなのにである。「人間は、人間以外の世界をぜんぶ、敵にまわしているのよ」と《月夜の森》で”光”がかなしそうにそう言う。この”光”の声も私たち現代人にはまったく届きそうにない。微光を察知する目をもはや失明しているからである。昨今の超微細なウイルスへの宣戦布告がそのことを大きく象徴している。

 

 《幸福の館》で「人間はなすべきことがあるとき、なにかをがまんすることを学ばなくてはいけないわ。ていねいに、でもきっぱり、ことわりなさい」と教えてくれるのもやっぱり”光”である。では、「なすべきこと」とは何か、何を「がまんする」べきなのかといえば、これに回答するためにはまず「己れの幸福」をよく知らないといけない。

 メーテルリンクは言う。「己れの幸福」をいちばんよく知っている人とは、つまり、最も幸福な人のことである。

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一つ一つの行為は、すばらしい永遠の果実をもたらすものと信じて行為しよう。だがまた、宇宙を前にしたら人間の正しい行為など、どれほど取るに足らないかをもわきまえておこう。この引き裂かれた状態を魂で感じ取り、それでもそこに調和を見出そうとすることこそ、人間的であると深く信じて毎日を生きようでないか。

 

Info


⊕アイキャッチ画像⊕

『花の知恵』 高尾歩 訳 /工作舎

『青い鳥』江國香織 訳 高野文子 絵/青い鳥文庫

『限りなき幸福へ』山崎剛 訳/平河出版社

 

『ガラス蜘蛛』高尾歩 訳 /工作舎

『蟻の生活』田中義広 訳 /工作舎

『白蟻の生活』尾崎和郎 訳 /工作舎

『蜜蜂の生活』山下知夫・橋本綱 訳 /工作舎

『死後の存続』山崎剛 訳 /めるくまーる

『温室』杉本秀太郎 訳/雪華社

 

⊕多読ジム Season08・秋⊕
∈選本テーマ:ボタニカルな三冊
∈スタジオNOTE(中原洋子冊師)

∈3冊の関係性(編集思考素):三位一体型

 

『花の知恵

  ◉ 

 ・ ・

◉・・・◉『限りなき幸福へ』

『青い鳥』

 

⊕著者プロフィール⊕
∈モーリス・メーテルリンク(1862-1949)

1862年、ベルギーのガンで生まれる。ガンは、ローデンバッハの『死都ブリュージュ』で知られるブリュージュにほど近い、商工業が盛んな河港都市。ボッシュやブリューゲル、ルーベンスと『フランダースの犬』でおなじみのフランドル地方でもある。ネロとパトラッシュがふたりで体を寄せ合って死んだ日、クリスマス・イヴの日にチルチルとミチルは青い鳥の夢を見る。

幼なき日は、「ヌーボー・ボワ(新しい森)」というボタニカルな園名の幼稚園に通い、少年時代は博物誌好きの祖父と園芸好きの父の影響を強く受けて育った。ガン近郊の水辺の大きな別荘や祖父の家はミツバチや花でいっぱいで、そこで過ごした日々がのちに独自の神秘主義的世界観と融合し、博物文学の傑作シリーズに結実した。

27歳のとき、「温室」に閉じ込められた植物に仮託した処女詩集『温室』を発表する。出世作は最初の戯曲『マレーヌ姫』。これをマラルメ宛に一部送ると、マラルメはオクターブ・ミルボーに勧めた。するとミルボーは「ベルギーのシェイクスピア」と激賞する。さらに『闖入者』『群盲』を相次いで発表し、劇作家としての地位を確立していった。『闖入者』は独語訳をルドルフ・シュタイナーが演出している。そのほか、のちに象徴主義の詩人となるグレゴワール・ル・ロワとサント・バルブ中学で同級生だったこと、ヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』と、リラダンに勧められて読んだユイスマンス『さかしま』によって文学を決意したこと、怪盗ルパンの生みの親を兄にもつ才色兼備の女優ジョルジェット・ルブランとの恋仲(彼女はのちにグルジェフの弟子になっている)などなど、紆余曲折の人物相関図は千夜千冊でも案内されている。より詳しくは『白蟻の生活』収録の「メーテルリンク回想年譜」へ。


  • 金 宗 代 QUIM JONG DAE

    編集的先達:維摩居士(仏界を愛せず、魔界を怖れず)
    マイルス・デイビスと同じ誕生日。セイゴオ師匠の編集芸に憧れて、イシス編集学校、編集工学研究所の様々なメディエーション・プロジェクトに参画。ポップでパンクな「サブカルズ」の動向にも目を光らせる。