【春秋社×多読ジム】大衆よ、数寄に聴き世界と交われ(山口イズミ)

2023/02/05(日)12:00
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ベートーヴェン症候群、ピアノを弾く哲学者、音楽のエラボレーション

多読ジム出版社コラボ企画第三弾は春秋社! お題本の山本ひろ子『摩多羅神』、マーク・エヴァン・ボンズ『ベートーヴェン症候群』、恩田侑布子『渾沌の恋人(ラマン)』だ。惜しくも『渾沌の恋人』に挑戦した読衆はエントリーに至らなかったが、多読モンスターの畑本ヒロノブ、コラボ常連の大沼友紀、佐藤裕子が『摩多羅神』に、工作舎賞受賞者の佐藤健太郎、そして多読SP村田沙耶香篇でも大奮闘した山口イズミが『ベートーヴェン症候群』が三冊筋を書ききった。春秋社賞に輝くのは誰か。優秀賞の賞品『金と香辛料』(春秋社)は誰が手にするのか…。

 

SUMMARY


わたしたちは芸術表現に作り手の人生を読み取ろうとする。当たり前のように思われるこの「聴き方」が主流となったのはほんの200年前の19世紀初頭、主観と客観のパラダイムが逆転し、ベートーヴェンの楽曲に魂の発露を見出してからだ。彼のドラマチックな人生と時代がもたらした作品の持つファンタジア、哲学や思考と感情の関係、「大衆」向けの芸術の在り方などさまざまな要素が絡み合い、以後、音楽の聴き方はさらに変化していく。
「聴き方」の歴史を紐解いたボンズの作品に、サルトル、ニーチェ、ロラン・バルトという3人の哲学者とピアノの接点を描いたヌーデルマン、そして社会と音楽の相互作用について語ったサイードの書を交え、音楽を通して世界を読み編集するヒントを模索してみた。


 

◯音楽と大衆の相互作用

アンディ・ウォーホルが描いた「ベートーヴェン」は、多くの人に愛されたベートーヴェン神話が、マリリン・モンローのごとく大衆化していたことを物語っていた。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770〜1827)は、音楽家としては致命的な、聴力の喪失で自死を仄めかした告白文書(いわゆる「ハイリゲンシュタットの遺書」)を綴り、しかしそれでも深淵で崇高な音楽を創造し続け、輝かしい功績を遺したが故に、その人生は英雄神話化した。

ベートーヴェンの交響曲にみられるソナタ形式は従前のものと異なり、提示部からエネルギッシュな展開を経て、再現部において元には回帰せず、異次元へ向かっていく。それがセパレーションからイニシエーションと闘争を経て、より高次へのリターンを果たす物語構造にも似て人々の心を捉え、必然的に作曲家自身の人生が投影された。

「第九交響曲」の讃歌的性質は、200年間にわたって人々を統べる国民国家の欲望と結びつき、さまざまに利用され、大衆に浸透していった。そこには、エドワード・サイードが唱えた「エラボレーション」(作曲家や演奏家によって生み出された音楽が社会と歴史のなかで練り上げられていくこと)が起こっていたはずだ。音楽はもともと言語的なものではないから、模倣的で、陶酔的な認識や寓意をもたらしながら、社会とのあいだに相互作用を起こしていく。作曲家の私的なパースペクティブや連想をとおして逸脱したり反復されたりしながら、時間のなかで同時に存在するそれ以外のものたちと一緒に経験されていくのだ。

 

◯ベートーヴェンは霊媒だった

かつて音楽は神のことばを伝える道具であった。バロック時代を経て教会音楽から離れた娯楽と化しても、作曲家たちは意図的に聴き手になんらかの感情を起こさせようとした。修辞学の方法を駆使し、演出家のように客観的に構築していた。

しかし18世紀後半、カントの「コペルニクス的転回」を機に、主観が対象に従うのではなく対象こそが主観によって構成されるとの認識が進むと、音楽の聴取習慣も変わる。聴く側の主観によって「いかに聴くか」「どう解釈するか」が問われるようになる。それは創作をも変えた。そのような時代に生まれたのがベートーヴェンであった。

古典派・ロマン派の音楽史と思想の研究者であるマーク・エヴァン・ボンズは、ベトーヴェン没後にその人生が脚光を浴び、音楽が「自伝」として聴かれ始めた1830年ごろを境に、表現と聴取のパラダイムが客観から主観へとシフトしていったこと考証した。ベートーヴェンの曲の聴き方に現れた思考の軌跡を丹念に分析し、人々が芸術表現に期待してきたものを明らかにする。

興味深いのは、1920年代以降に客観性への回帰が起こったことである。「大衆」について興味深い言説を遺したスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットを引き、主観性が捨て去られ「私的な情感」から音楽が再び解放されたことを説明する。この時代には、個を超えて普遍的な人間の経験までも調律して表現し、神と大衆の間を媒介して世界の内奥までも深く表現する芸術家が評価されるようになった。実はベートーヴェンは、こうしたアプローチにも読み替えられる。彼は霊媒(メディア)であった。

 

◯身体感覚を研ぎ澄ませて

音楽と思考の連関について、全く異なる方法で綴ったのが、フランソワ・ヌーデルマンの『ピアノを弾く哲学者』である。彼はサルトル、ニーチェ、ロラン・バルトという19世紀後半から20世紀の3人の哲学者とその音楽体験、特にピアノとの関係を紐解いた。

決して上手いとはいえないサルトルの朴訥とした演奏は、リズムの乱れも間合いも含めて、その独特のテンポが彼の存在主義や世界との闘い方に結びつく。プロ並みの技巧を誇ったニーチェは、力強く繊細に、そして正確にピアノを操るが、そこにはメッセージを託さず、さまざまな世界、存在価値、生命力を内包させた。

バルトは、最も身体的にピアノとの関係に興じている。鍵盤との接触は、心臓の鼓動も、呼吸も、性的感覚までも動員して、想像と思考を動かした。ピアノに触れると同時に触れられているという身体性について述べた「アクセントとは、たたくことによって演奏者の身体の有機的な生を明示する一撃のことである」というこの一節は、音楽に見い出し得る最大の悦楽を呼び覚ます。

現代、私たちはごく当たり前に、主観も客観も織り交ぜて、その背後にいる創造的個人の人生や修羅を覗き見ながら聴く。

「芸術家はHEROではなくZEROなのだ」とウォーホルは言った。ベートーヴェンに耳を傾けるとき、彼の人生やその時代に思考を赴かせても良いが、自らの感情を委ね、音と邂逅するその一瞬に身体の有機的反応として迸るものを、ただそっと受け止めても良いだろう。ナイーブでフラジャイルな音楽体験は、自由に世界と交わるということにもなる。それこそがオルテガのいう「大衆の特権」に違いない。

 

Info


⊕アイキャッチ画像⊕

∈『ベートーヴェン症候群』マーク・エヴァン・ボンズ/春秋社
∈『ピアノを弾く哲学者 サルトル、ニーチェ、バルト』フランソワ・ヌーデルマン/太田出版
∈『音楽のエラボレーション』エドワード・W・サイード/みすず書房

 

⊕多読ジムSeason12・秋⊕

∈選本テーマ:春秋社コラボエディストチャレンジ
∈スタジオみみっく(畑本浩伸冊師)

 

⊕他の参考文献⊕

∈『読書の裏側』松岡正剛
∈『世界史の哲学〈近代篇I〉』大澤真幸
∈『ベートーヴェンの『第九交響曲』』エステヴァン・ブッフ(鳥影社)


千夜千冊199夜『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット
千夜千冊1122夜『ぼくの哲学』アンディ・ウォーホル
千夜千冊1579夜『ピアノを弾く哲学者』 フランソワ・ヌーデルマン


  • 山口イズミ

    編集的先達:イタロ・カルヴィーノ。冬のカミーノ・デ・サンティアゴ900kmを独歩した経験を持ち、「上から目線」と言われようが、feel溢れる我が道を行き、言うべきことははっきり言うのがイズミ流。14[離]でも稽古に爆進。典離を受賞。

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