マンガのスコア LEGEND19赤塚不二夫②ニャロメ繁昌記

2020/12/12(土)10:40
img

 ★バックナンバー:

LEGEND19赤塚不二夫①

 

■長い雌伏の時代

 

 戦後の日本マンガを今日の地位にまで高めた立役者は、間違いなく手塚とそのフォロワーであるトキワ荘グループ、および貸本劇画の人たちです。彼らは世代でいうと昭和ヒトケタ生まれ。戦地にこそ赴かなかったものの、幼い頃に空襲や疎開を経験しており、戦後の混乱期の貧しい日本を知っています。彼らの周辺には戦災孤児達がうごめいていました。まさに「火垂るの墓」の世代ですね。

 赤塚不二夫も満州からの引き上げ家族の子どもで、貧困のどん底のような暮らしを経験しています。「おそ松くん」に登場するチビ太のモデルは、赤塚が子どもの頃、実際に身近に目にしていた浮浪児たちでした。片手に持ってるおでんは、なけなしの靴磨きでためたお金で買い求めたか、かっぱらったかしたものでしょう。

 

 ちょっと意外かもしれませんが、実は赤塚不二夫とつげ義春は、お互いに無名の新人だった頃からの親友でした。つげは、赤塚目当てで何度もトキワ荘を訪れています。二人とも極貧家庭に育ち、若い工員として暮らしを立てながら、深夜にせっせとマンガを描いていたという境遇が共通していて、お互いに親しみを持つにいたったようです。赤塚のデビューは貸本マンガで、つげの口添えによるものでした。赤塚不二夫はトキワ荘グループでありながら、実は貸本作家でもあったのです。

 

■少女マンガ家・赤塚不二夫

 

 デビュー当初の赤塚は、もっぱら少女マンガを描いていました。なにも好き好んでそうしていたわけではなく、かろうじてもらえる注文がいつも少女ものばかりだったからです。当時、少女マンガは一段低い存在で、比較的無名な新人でも入り込む余地がありました。一方、ユーモアマンガは戦前からの重鎮ががっちり固めていて、新人の入り込む余地はなかったのです。

(水野英子・丸山昭監修『トキワ荘パワー!』祥伝社)

トキワ荘系作家の少女マンガばかり集めたもの

U・マイア(石森・赤塚・水野の合作)作品などが読める。

 

 赤塚不二夫は、なかなか芽が出ない不遇時代が、とりわけ長い作家でした。「トキワ荘時代は、みんな貧乏だった」とはよく言われますが、それでも石森章太郎や藤子不二雄は、それなりに売れっ子でした。藤子不二雄の「ゲンコウオクルニオヨバズ」事件<1>は有名ですが、そのとき、彼らが落とした原稿の数は、連載5本のうち3本、読み切り4本のうち3本だったと言われています。つまり、それだけの注文を常時抱えた売れっ子だったわけです。

 一方、赤塚は、正真正銘の貧乏作家でした。出版社には前借に継ぐ前借の繰り返しで、原稿を仕上げても、借金との棒引きで、原稿料は貰えず、また前借するという有様でした。売れっ子の石森のお手伝いをするついでにご相伴にあずかることで、かろうじて食いつないでいたと言います。

 そんな状態がいつまでも続き、先の見込みも全くなく、さすがの赤塚も、この仕事に見切りをつける決心をし、喫茶店のボーイに転職するため視察に行ったりしています。

 ある時、マンガ家を辞めることをトキワ荘の兄貴分である寺田ヒロオに報告しに行ったところ、当座のお金を工面してくれた上に、具体的なアドバイスをいろいろしてもらったというエピソードが残っています。

 このときのテラさんの温かい一言がなければ、赤塚不二夫のマンガ家人生はここで終わっていたでしょう。そうなれば戦後マンガ史は大きく書き換えられることになります<2>。

 逆に言えば、この時代に消えていった無数のマンガ家予備軍の中には、歴史に名を残すほどの金の卵がいたかもしれないことを意味します。ほんのちょっとしたことで幸運をつかめたかどうかの違いはまさに紙一重。これが人の世の残酷な真相です。

 

■ついに人気爆発

 

 そんなあるとき、赤塚の元に今までとはちょっと違った内容の注文が舞い込みます。依頼の主は秋田書店の壁村耐三。そう、『ブラック・ジャック創作秘話』(秋田書店)を呼んだ方ならご存知でしょう。70年代初頭、ほとんど死に体だった手塚治虫を救いだし、起死回生のヒットを飛ばさせた伝説の名編集者です。

 壁村の依頼は「ユーモアマンガを」というものでした。

 実は最初に壁村が依頼した相手は石森でした。仕事が手一杯だった石森は隣室の赤塚を呼び出します。お笑いマンガならこいつの方が適任だという石森の太鼓判を信用した壁村は、あらためて赤塚に依頼することにしました。突然、雑誌に穴が開いてしまった代原の依頼だったため、時間はありません。いつも筆が遅い赤塚でしたが、このときばかりは二つ返事で引き受け、電光石火の早業で原稿を仕上げてしまいます。それがあの「ナマちゃん」(1958年)でした。

(赤塚不二夫『ナマちゃん』②曙出版)

 

 この作品で赤塚不二夫は、初めてと言っていいぐらいの大反響を得ます。こうして赤塚は遅まきながら、自分の中に眠っていた大鉱脈を発掘することになるのです。

 その後は一気呵成でした。「ナマちゃん」の反響はすこぶるよく、ただちに連載が決定します。

 こうしてギャグマンガ家として再スタートした赤塚は、1962年、ついに少年週刊誌に進出。それがあの「おそ松くん」でした。

 掲載誌の「少年サンデー」は、前年に連載が始まった横山光輝「伊賀の影丸」に加え、「おそ松くん」の大ヒットにより飛躍的に部数を伸ばします。1959年の創刊以来、熾烈な戦いを繰り広げていたライバル誌「少年マガジン」に大きく水をあけることになるのです(劇画導入路線が功を奏し、「少年マガジン」黄金期が始まるのは、もう少し先の話です)。

 

■プロダクション方式の導入

 

 こうして、売れっ子になった赤塚は、仕事をじゃんじゃん入れていくようになります。個人で制作するキャパをはるかに越えてしまった赤塚は、集団制作方式を導入。

 マンガ好きの人なら、集団制作と聞くと真っ先に思い浮かぶのは、さいとう・たかをの名前ではないでしょうか。しかし実は、さいとう先生に負けず劣らず、最も早い時期に、徹底した分業システムを構築したのが、誰あろう赤塚不二夫なのです。

 ギャグマンガという、最も個人的な資質とセンスが問われるジャンルにおいて分業制を導入し、それでいて極めて高い水準の作品を仕上げていった赤塚先生の腕前は驚嘆すべきものです。

 赤塚マンガの高いクオリティーを保証していたのは、長谷邦夫<3>と古谷三敏(のち「ダメおやじ」「寄席芸人伝」「減点パパ」で売れっ子に)という、凄腕のブレーンの存在でした。作品構想は、赤塚を含めた三人のアイディア会議で作りあげていったといいます。のちには、北見けんいち(のち「釣りバカ日誌」でブレイク)なども、有能なブレーンとして頭角を現してきました。キャラ造形は高井研一郎(のちに「総務部総務課山口六平太」)が得意としていました。

 とりわけ、大きかったのは長谷邦夫という、きわめて有能なブレーンが存在していたことです。赤塚と長谷は、お互いのデビュー前からの盟友でしたが、やがて赤塚が人気作家となると、フジオプロのスタッフとして、アイディア会議に関わることになります。

 長谷は、彼の著した単独名義の作品からもわかるように、非常にアヴァンギャルドなスタイルの作家で、また、筒井康隆の大ファンでもあることから、赤塚の数々の実験的ギャグのいくつかは、長谷の発案ではないかと推測されます。彼は夏目房之介や田中圭一を、はるかに遡る模写マンガの先駆者でもありました。

 ちなみに、すでに当欄でご紹介した山本直樹先生は、子どもの頃、赤塚不二夫を読んでいて、長谷邦夫が代筆した回はわかったといいます。さすがですね。

(長谷邦夫『漫画に愛を叫んだ男たち』清流出版)

裏トキワ荘史とも言われる長谷の名著

 

■やりきってしまった赤塚

 

「バカボン」後期の、振り切った実験ギャグの数々は前回紹介した通りですが<4>、赤塚不二夫のこうした実験精神は、後年になるにつれ、どんどんエスカレートしていくことになります。「レッツラゴン」(1971~74)の頃になると、さすがに読者もついていけなくなり、人気も落ちていきました。

 1980年の作品「キャスター」では人肉食をギャグにしたため、掲載誌の回収騒ぎを起こしています。なにしろ、人肉サシ、お尻ランチ、ヘソの緒ヌードル、脳ミソどんぶり、胎児ピザ、赤ちゃんの丸焼きの実演に心臓の踊り食いまで出てくるのですから、さすがに笑えません(坂茂樹『封印漫画大全』鉄人社)。

 ギャグマンガの世界では、すでに山上たつひこ旋風が吹き荒れている頃でした(山上たつひこもLEGEND50の一人。いずれ取り上げます)。赤塚の実験的ギャグの作風は、時代の趨勢から微妙な齟齬を見せるようになっていたのです。

 しだいに赤塚は過酷な制作現場から逃げるようにアルコールにおぼれるようになっていきます。70年代の後半ごろから酒量がかなり増えていたようですが、80年代に入ると、ほぼアル中状態だったようです。仕事への情熱も失っていき、作品も次第に精彩を欠いていくようになりました。そんな中でも、「ゴドーを待ちながら」にインスパイアされた「松尾馬蕉」(1981年)など異色作を残しています。

 

 ひと頃は、マスコミにも頻繁に顔を出し、作品のみならず、ご本人自らがパフォーマーとなってファンを喜ばせていた赤塚先生も、次第にメディアから姿を消し、最後の十数年は、ほとんど病院暮らしだったようです。そして2008年8月、ひっそりと息を引き取りました。葬儀の際の、タモリによる勧進帳パフォーマンスが、ちょっとした話題になっていましたね。

 

 没後も赤塚マンガの人気は根強く、最近では大胆なリメイク作「おそ松さん」が話題になりました。赤塚キャラが、いかに略図的原型としての普遍的な力を持っているかを証明するものです。

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●

 

<1>「ゲンコウオクルニオヨバズ」事件

『まんが道』にも出てくる有名なエピソード。1955年の正月休みに帰省した二人は、デビュー以来の緊張の糸がぷっつり途切れてしまい、仕事が全く手につかなくなってしまいます。その結果、9本の依頼原稿のうち6本を落としてしまうという大失態を演じてしまったのです。以後、二人は一年以上、仕事を干されてしまい、さらに数年間は短編や企画ものの仕事しか来なくなります。普通なら作家生命を絶たれてもおかしくない状況でしたが、ここから藤子不二雄は不死鳥のようによみがえるのです。それには、二人であったことが大きな要因であったと言います。一人だったら、とっくに諦めて郷里に帰っていたとはA先生の述懐です。藤子不二雄と言えば締め切りを厳格に守ることで有名でしたが、若き日のこの苦い体験がよほどこたえたのでしょう。

 

<2>テラさんの温かい一言

この辺りのエピソードを描いた美しい物語「トキワ荘物語」(赤塚不二夫)は、『COM傑作選 下1970~1971』(ちくま文庫)で読むことができます。

 

<3>長谷邦夫は、多彩な趣味人で、いろいろな顔を持っています。もともと石森章太郎「墨汁一滴」の同人であった関係で、石森・赤塚とはデビュー前から交友がありました。また日本にほとんどSFがなかった頃からのSFマニアであったことから「宇宙塵」草創期からのメンバーでもあります。さらに現代詩にも通じていて、白石かずこなどの所属していた現代詩サークルにも出入りしていました。またジャズマニアでもあった長谷は、新進気鋭のジャズピアニストだった山下洋輔とも、はやくから親交があり、彼のつてで、赤塚は山下と親しくなり、タモリのデビューへとつながっていくのです。

 

<4>実験ギャグの数々

その一部は『赤塚不二夫実験マンガ集』(Pヴァイン)で読むことができます。また、「赤塚漫画のウルトラレアトラックス集!ミュージシャンで言うところのレアシングル、Bサイド、セッションテープ、はたまたデモ音源」(by石野卓球)という『赤塚不二夫のだめマンガ』(ちくま文庫)というのもあります。

 

LEGEND19赤塚不二夫①

LEGEND19赤塚不二夫②

 

アイキャッチ画像:赤塚不二夫監修『まんが入門』小学館


  • 堀江純一

    編集的先達:永井均。十離で典離を受賞。近大DONDENでは、徹底した網羅力を活かし、Legendトピアを担当した。かつてマンガ家を目指していたこともある経歴の持主。画力を活かした輪読座の図象では周囲を瞠目させている。

  • マンガのスコア LEGEND33山岸凉子 “こわい”マンガの方程式

    LEGEND50にリストアップされた「24年組」は四人。すでに萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子はご紹介したところです。  トリを飾るのは山岸凉子。前三者に勝るとも劣らない、少女マンガの重要な一角を占める作家の一人です。 & […]

  • マンガのスコア LEGEND32平田弘史 「残酷」という真実

    手元に1991年頃とおぼしき雑誌の切り抜きがあります(掲載誌は「SPA!」だと思われますが、掲載号は不明)。そこには「ニッポン最後のビンボー劇画作家」として、あの平田弘史が紹介されていました。   「はっきり […]

  • マンガのスコア LEGEND31 杉浦茂 超現実の童子

    LEGEND50のリストの中で、杉浦茂が、とりわけ特異な位置を占める一人であることは一目瞭然でしょう。  まず50人の中では、飛び抜けて年長です。手塚治虫より6歳年上の水木しげる(1922年生)よりも、さらに14歳も年 […]

  • マンガのスコア LEGEND30吾妻ひでお 何度でも新しく生まれる

    今を去ること28年前のことです。  本屋でふと見かけた吾妻ひでおのマンガをパラパラ見ていたら、 「最近私はガテンな仕事をしている。(なぜかは聞かないでほしい…)」  という記述とともに、シャベルとつるはしで地面を掘って […]

  • マンガのスコア LEGEND29水木しげる 妖怪マンガ家でもある

    いつの間にか連載も後半戦に突入しております。  そろそろアノ人が出てきてもいいんじゃないか、コノ人がまだ取り上げられていないのはおかしい、と思われる方もおられるでしょう。  レジェンドの中でも、特に横綱クラスと思われる […]