杉浦茂 超現実の童子【マンガのスコア LEGEND31】

2021/07/02(金)08:54
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 LEGEND50のリストの中で、杉浦茂が、とりわけ特異な位置を占める一人であることは一目瞭然でしょう。

 まず50人の中では、飛び抜けて年長です。手塚治虫より6歳年上の水木しげる(1922年生)よりも、さらに14歳も年上の1908年生まれ。明治生まれの人です。マンガ家としても一世代も二世代も前の人で、戦前からの活動歴があります。この世代の作家が、戦後マンガに大きな足跡を残すのは極めて異例なことです。

 

 杉浦茂は、赤塚不二夫の登場にはるかに先がけてナンセンスな笑いを描いていたことでも特異なのですが、その笑いは赤塚的な「ギャグ」とも違い、なんともいえぬ奇想とユーモアに満ちていました。

 杉浦マンガは、とにかく逸脱・脱線のオンパレード。チャンバラ時代劇の最中にいきなり異空間に飛んでしまったり、突然、アパッチ族が攻めて来たり、何の脈絡もなく超現実的な怪物が現れたり、絵のリアリティラインもバラバラで支離滅裂です。こんなシュールでアバンギャルドなマンガは空前絶後でした。当時も全く隔絶していましたし、今見てもやはり斬新です。いつの時代も、杉浦マンガは「最先端」であり続けました。古びないのは、実は、どの時代でも新しくなかったからでしょう。全くもって杉浦茂はワンアンドオンリーの作家だったのです。

 といって、後進に全く影響を与えなかったわけではありません。むしろ多大な影響を及ぼしたと言えます。赤塚不二夫のレレレのおじさんや目玉のつながった警官などは、杉浦マンガをモチーフにしていることが明らかですし、以前、当欄でも取り上げた林静一や佐々木マキなど60年代末から台頭してきた前衛マンガ、タイガー立石などのカトゥーン系のアーティストにも影響を及ぼしています。また、70年代以降、カウンターカルチャーの文脈で評価されるようになると、スージー甘金、上野よしみなど、その影響を受けた数多くのイラストレーターを輩出することになりました。

 

 さて、今回は、そんな彼の代表作の一つである『猿飛佐助』からの一ページを模写してみようと思います。

 

杉浦茂「猿飛佐助」模写

(出典:杉浦茂『杉浦茂マンガ館』④筑摩書房)

 

 このページを見ているだけでは何が起こっているのかさっぱりわからないかと思いますが、要するに忍術合戦をしているわけです。しかし【脈絡】と言えるものはほとんどありません。

 一見して分かるように【リアリティライン】がメチャクチャですね。シンプルなタッチの子供マンガのはずなのに、真ん中の怪物の絵など異様に描き込みが密です。こうしたシュールな絵の挿入は69年の改稿版で増えたものではあるのですが、初出の頃から、こういった出鱈目なノリは一貫していました。こんなシュールで前衛的なマンガが昭和30年前後の子どもたちに広く支持されていたというのは驚くべきことです。

 最後のコマの怪物のように、異物同士がくっついて【溶解】したような絵もよく出てきます。こうした境界の曖昧性は絵のタッチ全体にもわたっていて、人物と背景のあいだも、どこかシームレスです。

 また、今回の模写ではご紹介できませんでしたが、杉浦茂といえば、その独特のセリフ回しとネーミングセンスの秀逸さにも特徴があります。このあたりについては「千夜千冊」882夜で松岡校長も縦横無尽に論じているところですので、ぜひご一読を。

 

■主客未分の世界

 

 杉浦茂の描く世界とは、精神年齢で言えば学童期よりもさらに前、幼児の段階に近いように思います。子どもが外の世界に出て荒波にもまれ、なにほどか処世の感覚を身につけるようになる以前の全能感に満ちた世界です。

 杉浦マンガには「友情・努力・勝利」のうち、友情と努力の成分がほとんど見受けられません。とりわけ「努力」は全くないといっていいでしょう。主人公の猿飛佐助やドロンちび丸たちは初めから天賦の特殊能力を身につけていて、とにかく滅多やたらと強い。そして友情と努力がない代わり、勝利だけはふんだんにあります。

 とにかく無根拠・無前提な勝利につぐ勝利。どんなことが起こっても柳のように受け流し、一瞬たりとも悩むことがない。動物が本能的に最適解を出すように、躊躇なくどんどん突き進んでいきます。そして百戦百勝。そこには物語を盛り上げるためのピンチの引き伸ばしすらなく、敵の攻撃を受けるや否や、間髪入れず勝利します。

 次々と襲い来る敵たちを主人公がチョンチョンとサバいていく様は、まるで武道の達人が無我の境地で舞を舞っているようにも見えます。合気道の内田樹氏の言われる「複素的身体」とでもいうのでしょうか、敵対的に対峙するというよりも、相手と一緒に共同作業をしているような感じです。

 そういえば合気道では、相手と目を合わせないとも聞きますが、技をかけている時の猿飛佐助や孫悟空たちの視線は、いつもあさっての方向を向いています。我と汝が無媒介的につながってしまっているのですね。

 そして、あの手この手で応酬を繰り返していくうちに、いつしか物語は収拾がつかないほどシュールな様相を呈していくのですが、そんなことは主人公も作者も全く無頓着。無茶苦茶になったらなったで、さっと緞帳を引いてしまい、たちまち、もとの日常に戻ってしまいます。全く変幻自在という他ありません。

 

 杉浦マンガはどこから読んでもよく、どこで読み終わってもかまいません。ナイトキャップ代わりに枕元に置いている、という人がいるのもうなずけます。

 これはちょうど夢と同じ構造をしています。全体の構成なんてものはなくて、ただあるのは直前と直後の脈絡のつながりだけ。時間は円環的に閉じられていて、空間も三次元的な法則から全く自由です。

 無限に広がる幸福な世界。そこには「自我の拡張」なんてものすらなく、私と世界が未分離なまま果てしなく広がっているのです。

 

■のらくろの弟子

 

 このへんで杉浦茂の経歴にも触れておきましょう。

 もともと杉浦茂は洋画家志望でした。帝展で入選した経歴もあり、本格的な画業の訓練を積んだ人です。

 しかし、絵だけでは、どうにも食っていけそうにないと判断した杉浦は、悩んだ末に知人の伝手を頼って田河水泡の門下に入ります。だいたいマンガが好きでマンガ家になる人なんて手塚治虫以降の戦後世代に特徴的なことで、戦前には画家からマンガ家に転向するケースはよくあることでした。

 そもそも師匠の田河水泡にしてからが洋画家出身で、村山知義のMAVOにも参加していたバリバリの前衛画家です。モダンでグラフィカルな図案を取り入れた「のらくろ」の装丁の斬新さは、今見てもほれぼれするほどです。

 

『のらくろ上等兵』『のらくろ小隊長』表紙と箱

(田河水泡「復刻版のらくろ」講談社)

 

 手塚以降の戦後マンガの世界では、謝礼を払って手伝ってもらう「アシスタント」というシステムが確立されるようになりますが、それ以前は徒弟制度のようなものがマンガ業界にも存在していました。杉浦茂は、徒弟制が生き残っていた最後の世代に当たります<1>。

 田河の門下に入った杉浦は、ベタ塗りの手伝い程度はしていたようですが、のらくろを描いたりすることはなかったようです。技術的な指導もいっさいなく、丁稚奉公のように師匠の背中を見て、目で盗むというスタイルです。

 技術指導だとか、謝礼などはないかわり、師匠の口利きで、仕事の周旋を受けることはありました。若き杉浦茂は順調に仕事をこなし、戦前だけでも「延べ百三十冊以上の雑誌に描き、百二十回以上の新聞連載をこなし、十冊の単行本を出版した」<2>と言われています。

 

■「奇跡の五年間」

 

 杉浦の同世代にも多くの作家が戦前から活躍していました。しかし戦後のドラスティックな変化の波を潜り抜けて生き残った人はごくわずかです。とりわけ少年マンガにおける手塚の影響が顕著になってきた昭和30年代以降、戦前からの作家の多くは淘汰されてしまいました。

 一方、戦前には、端正なタッチで教育的、啓蒙的な児童マンガを描いていた杉浦茂は、戦後の自由な気風の中、徐々にその特異な才能を開花させていきます<3>。

 最初は「弾丸トミー」などの西部劇でした。その後、「冒険ベンちゃん」「怪魔島探検」などの秘境探検ものを経て、徐々にそのナンセンスな作風に磨きをかけていくことになります。そして1953年に「おもしろ漫画文庫」の一冊として刊行された『猿飛佐助』から、いよいよ杉浦茂の時代が始まるのです。このあたりから、ぐにゃぐにゃしたアモルファスな杉浦タッチも確立されていきました。

 杉浦茂が少年誌を中心に活躍していたのは、実は非常に短く、いわゆる「奇跡の五年間」と呼ばれている1954年から58年にかけての一時期です。この時期に、今でも彼の代表作とされる「猿飛佐助」「少年西遊記」「ドロンちび丸」「少年児雷也」のような作品が描かれました。このころの杉浦茂は年齢にして46歳から50歳。四十代後半に至って、ようやく全盛期がやって来るとは、かなりの遅咲きです。

 とにかく、この「五年間」の仕事は質量ともに常人のレベルをはるかに越えています。

 戦前気質の杉浦は、本格的なアシスタント制を導入することもなく、ほとんど一人で描いていたようですが(弟子の斉藤あきらや洋画家時代からの画友に多少のお手伝いをしてもらうことはあったようです)、あの物量をどのようにこなしていたのかは謎です。とにかく杉浦茂は、その作風から窺えるイメージとは違って、いたって真面目で勤勉な性格だったとか。朝早く起きると、さっと部屋にこもり、静かに正座して黙々と作画作業を続けていたそうです。

 しかし時代の変化の波は、さらに急速度で進展していきます。60年代に入ると、少年マンガは月刊誌から週刊誌の時代に変わっていきました。週刊誌のスタイルがなんとしても肌に合わなかった杉浦は、徐々にやせ細っていく月刊誌に時おり執筆する以外、ほとんど作品を発表しなくなってしまいます。

 しかし杉浦茂は、決して「消えたマンガ家」になることはありませんでした。

 

■再評価の嵐

 

 杉浦茂は、これまで何度もリバイバルブームを起こしています。

 最初の波が70年代に入る頃。一部でマンガの前衛化が始まり(「林静一」の回参照)それと相前後して杉浦茂の再評価が起こりました。そのきっかけの一つとなったのが、1969年、虫コミックスから刊行された『猿飛佐助』です。この作品の刊行に際して、杉浦茂は、かつての旧作の全ページ描き直しを行なっています。ここで杉浦は、より前衛的な表現にチャレンジし、ダリやエルンストを思わせるような超現実的な映像をふんだんに挿入してみせました。

 少年誌で杉浦マンガをリアルタイムで読んでいる世代といえば、今ではもう七十歳以上になっているわけですが、彼等に言わせると、虫コミックス版『猿飛佐助』は、「ちょっと違う」んだそうです。シュール度が五割増しぐらいになっていて、これはこれで面白いんですが、当初の素朴な味わいが削がれてしまい、印象がだいぶ変わってしまっています。

 その後、『猿飛佐助』は何種類かのバージョンが刊行されました。その中には「おもしろ漫画文庫」の単行本を底本としたものもあります。これは旧来からのファンたちに歓迎されたのですが、実はこれも雑誌掲載版とは微妙に違うのですね。生粋の杉浦ファンである、みなもと太郎氏などは、子ども時代に強い印象を残したいくつかのシーンが現行の単行本では確認することができず、いつの日かこれらが復刻されることはないのだろうか、と嘆いています(『杉浦茂の摩訶不思議世界』p60)。

 しかし2012年、ついに青林工藝舎から『おもしろブック版猿飛佐助』が刊行され、オールドファンたちの溜飲を下げることになります。雑誌からの翻刻というのは、ほんとうに手間暇のかかるもので、これは偉業だと思います。

 しかし私などは、かつて筑摩書房版『杉浦茂マンガ館』(第四巻)で読んだ「猿飛佐助」(虫コミックス版を底本にしたもの)の印象が鮮烈すぎて、シュール度五割増しの方が好みなんですよね。このへんは世代によって受け取り方はまちまちだと思います。是非とも、両方入手して読み比べていただきたいものです。

 

「猿飛佐助」「少年西遊記」「聊斎志異」が収録されたお値打ちもの

(杉浦茂『杉浦茂マンガ館』④筑摩書房)

 

■晩年の杉浦茂

 

 杉浦茂は、とにかく描き続ける人でした。

 これまで周期的に「再発見」されては小さなブームを起こしてきた杉浦ですが、そのたびに旺盛な執筆意欲をもって斬新極まる新作を発表し続けてもいたのです。

 1980年から81年にかけて「月刊太陽」に連載された「杉浦茂名作劇場」は熟年期を迎えた杉浦の傑作の一つに数えられていますが、「雪国」「雨月物語」「たけくらべ」などの名作にお題を借りたパロディマンガでありながら、そうした枠組みさえ突き破ったブッ飛んだ展開には唸らされます。

 

『杉浦茂マンガ館』の別巻として刊行された

(杉浦茂『ちょっとタリない名作劇場』筑摩書房)

 

 また、89年から92年にかけて、描き下ろしで「聊斎志異」も執筆しています。これは発行元の都合で上巻・中巻が刊行されたまま中絶されてしまいましたが、杉浦氏自身は、かまうことなく執筆を続け、筑摩書房から全五巻の作品集『杉浦茂マンガ館』が刊行された際に、未刊行部分が収録されています。

 またこの作品集の最終巻には、描き下ろし作品「2901年宇宙の旅」も掲載されました。この作品の執筆時期は1996年で、なんと御年八十八歳の作品です。2000年に92歳で亡くなった杉浦茂にとって、これが最後の作品となりました。

 この作品、さすがに線がヨレヨレになっていて、まるで幼児返りしたような絵になっていますが、奔放不羈な筆致はそのままに、もはや羽化登仙の境地に達したかのようです。マンガ家のいしかわじゅん氏は、とある作品展でこの作品の原画を目にしたとき、鳥肌が立ったといいます。

 

線は震え、円は閉じず、フォルムは歪んでいる。消しゴムをかける力がなかったのか、鉛筆の線がそのまま残っている。

それはもう、絵ではない。描いた杉浦自身が、一番よくわかっているだろう。自分はもう、絵を描く力がなくなってしまった。

しかし、それでも杉浦茂は描いたのだ。ペンを握り、インクをつけ、がりがりと紙に生を残そうとしたのだ。その、本能と呼んでもいい執念に、ぼくは感動したのだ。杉浦茂の、表現に対する欲求に、肌に粟を立てたのだ。」(いしかわじゅん「もうひとりの天才」(『秘密の本棚』所収))

 

 いしかわ先生を戦慄させたという、その絵を、みなさんにも是非一度目にしていただきたいと思います。この作品の収録された『杉浦茂マンガ館』第五巻は、古書価も高騰しているようですが、2009年にエンターブレインから発行された『イエローマン』でも読むことができます。

杉浦茂は、ほんとうにマンガを愛し、マンガから愛されていた人だったのだと思います。

 

後半期のシュール度多めの作品を集めた傑作選

(杉浦茂『イエローマン』エンターブレイン)

 

 

◆◇◆杉浦茂のhoriスコア◆◇◆

 

【脈絡】70hori

こうした脈絡のなさは、やはり夢を見ている時の感じに近いものがあります。

 

【リアリティライン】67hori

ダダやシュールの描法や、絵物語のタッチなども取り入れていますね。

 

【溶解】75hori

諸星大二郎の「生物都市」みたいですね。

 

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●

 

<1>戦後マンガ家の中にも徒弟経験者はいないでもありません。『恐怖新聞』『空手バカ一代』で知られるつのだじろうは、トキワ荘グループに属する戦後世代のマンガ家ですが、戦前の大御所マンガ家・島田啓三に師事していました。

 

<2>井上晴樹「杉浦茂は生きている!」(『杉浦茂 自伝と回想』所収)より

 

<3>満州の引き上げ家族の出身であった、ちばてつやは、小学校の二、三年生頃まで、世の中に「漫画」なるものがあることを知らなかったそうです。

あるとき、道端に落ちていたマンガを拾ったちば少年は、その内容に衝撃を受けたとか。

「こんな凄いものを見つけた」と言って家に持って帰ると、真っ青になった母親が、いきなりそれをひったくるなり七輪で焼いてしまう話が『ひねもすのたり日記』②(小学館)に出てきます。

ちば少年は、そのマンガの内容を鮮明に覚えており、のちにその内容から、それが杉浦茂の『アラビアンナイト』という今では一冊も現存していない豆本であることが判明しました。

マンガ嫌いの母親による鉄壁のガードによって、マンガから遠ざけられていたちばてつや少年に、マンガの扉を開かせたのが、実は杉浦茂だったのです。

 

「マンガのスコア」バックナンバー

 

アイキャッチ画像:杉浦茂『おもしろブック版猿飛佐助』青林工藝舎


  • 堀江純一

    編集的先達:永井均。十離で典離を受賞。近大DONDENでは、徹底した網羅力を活かし、Legendトピアを担当した。かつてマンガ家を目指していたこともある経歴の持主。画力を活かした輪読座の図象では周囲を瞠目させている。