マンガのスコア LEGEND32平田弘史 「残酷」という真実

2021/07/17(土)09:04
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 手元に1991年頃とおぼしき雑誌の切り抜きがあります(掲載誌は「SPA!」だと思われますが、掲載号は不明)。そこには「ニッポン最後のビンボー劇画作家」として、あの平田弘史が紹介されていました。

 

「はっきり言って貧乏だ。一家5人の収入は、印税、出版社からの前借り、次女のアルバイト代だけ。税金が払えず、2年間滞納中。先月はついに電話を止められた。もらい物の車は車検料が払えていない。食料は自給自足。」

 

 そこには鉢巻きを締めて畑仕事をしている御年54歳の平田弘史先生のお写真も。そろそろバブルがはじけたのではないかと言われはじめていた当時、平田先生は、かれこれ8年近く、ほとんど新作を描いていない状態<1>でした。

 収入の中に「印税」とあるのは、おそらく1987年に刊行された『平田弘史選集』(日本文芸社)のことでしょう。その頃の平田先生は、ほぼ忘れられた作家でしたが、熱心なファンであった大友克洋の肝いりで刊行された、この作品集のおかげで、一部のマンガファンの間では、ひそかな注目を集めていました。

 この記事からほどなくして、平田弘史は「ミスターマガジン」誌上に『異色列伝 無名の人々』(青林工藝舎)という連載を始めています。高価な函入り上製本だった『平田弘史選集』に手が出なかった私は、この連載で初めて平田弘史の作品に触れました。

 しかし、この連載を読んだときの私の感想は「なんか、違う」でした。

 

 実は私と平田弘史との出会いは、もう少し前にさかのぼります。呉智英の『現代マンガの全体像』(史輝出版)という本の中に、平田弘史について触れられた箇所があったのですが、その傍らに小さなカットが載っていました。それは『血だるま剣法』と『つんではくずし』という作品の、それぞれ一頁を縮小印刷したものだったのですが、その異様なオーラを放った二つのカットは、強烈な印象を与えるものだったのです。

 私は、このマンガをどうにかして読みたいと思ったのですが、当時の状況では、それはほぼ不可能なことでした。なぜなら、この二作品は、どちらも昭和三十年代に禁書扱いになっていたからです。

 

「ミスターマガジン」で、初めて見た平田弘史のマンガは、上記のカットとは、ずいぶん違い、より緻密でリアルな絵になっていました(白土三平でいえば『忍者武芸帳』と『カムイ外伝・第二部』ぐらい違います)。

 リアルな平田弘史の絵は、初期のそれとは別種の迫力があるのですが、やはり呉氏の著書で見た、あの野蛮で禍々しい衝撃力はありません。とにかく、あの絵には、なにか見てはいけないものを見てしまったようなヤバい香りがあったのです。

 さて、今回の模写では、そのあまりの禍々しさに、私の脳裏に二度と消せないトラウマを刻みつけてしまった、まさにそのページを描いてみることにします。

 

平田弘史「血だるま剣法」模写

(出典:平田弘史『血だるま剣法・おのれらに告ぐ』青林工藝舎)

 

 うまく再現できているかどうかわかりませんが、ぞっとするような迫力がありますね。平田弘史には【手塚治虫の影響】が、ほとんど感じられません。絵のルーツははっきりしませんが、あえていえば講談絵物語などの絵から来ているのでしょう。作画は【カブラペン】だそうです。

【筆を使った描き文字】にも独特の迫力があります。平田先生は、書道は全くの自己流とのことですが、なめらかさとワイルドさを兼ね備えたダイナミックな描き文字には定評があり、題字などを依頼されることもよくあります。

 二コマ目の「ヴヴーーッ」に注目してください。今でも、マンガなどで「あ゛あ゛あ゛」などの表現を目にすることがありますが、このような、本来濁点を打つべきでないカナに【濁点を打つ手法】を、初めてやったのが平田弘史でした。これも、何か新手法を開発したというより、むしろ過剰な情念をなんとか表現しようと思うあまり、つい勢いでやってしまったような感じですね。

 

(『AKIRA』東宝出版事業室(映画パンフレット)表紙より部分)

平田弘史の揮毫による大友克洋「アキラ」題字

 

■二度の筆禍事件

 

 平田弘史のデビューは貸本劇画でした。毎度おなじみ日の丸文庫(山上たつひこの回・ホリエの蛇足<2>参照)から刊行されていた「魔像」という雑誌でデビューしています。日の丸文庫といえば、劇画工房の牙城となった「影」が有名ですが、この時代劇専門誌「魔像」も、日の丸文庫の売れ筋商品でした。というより、この雑誌を日の丸のドル箱雑誌にした立役者こそが平田弘史なのです。残酷武士道ものを描かせれば彼の右に出る者はなく、とにかく圧倒的な存在感を放っていました。

 平田は貸本劇画時代に二度の筆禍事件を起こしています。一度目が1961年の『つんではくずし』。シジフォス神話に着想を得たこの作品は、その残虐表現がヒドすぎるということで良識家の糾弾を浴びることになりました。そして、その翌62年に発表された『血だるま剣法』では、被差別部落民の復讐劇を描いたことで、部落解放同盟の抗議を受け、回収騒ぎを起こしています。この二作品、平田の貸本期の作品中でも最上級の傑作とされながらも、そうした経緯から一般読者がその作品に触れることは極めて困難な状況となっていました。

 

 貸本業界では人気をほしいままにしていた平田弘史ですが、そもそもこの業界自体が、世間から全く相手にされない日陰者の存在でした。その上、良識家の指弾を浴びる形で、全くの不遇をかこっていた平田弘史ですが、そんな平田を早くから評価していたのが三島由紀夫です。

 三島という人は文学の目利きとしても極めて優れた人で、一部では、三島の小説は好きじゃないが文学論は評価するという人もいるぐらいですが、あの当時、平田弘史を評価するというのは、そうとうな眼力であったと言わざるを得ません(とはいえ、あのギンギンに描かれた武士道の世界は、単に三島好みの、どストライクだけだったのかもしれませんが)。

 平田弘史が貸本劇画の世界で活躍していた昭和30年代といえば、南條範夫の残酷武士道ものがブームを呼んでいた頃で、宮本常一らの監修による『日本残酷物語』(平凡社)が話題になり、大島渚の映画「青春残酷物語」のヒット、さらにモンド映画の元祖、ヤコペッティの「犬の世界」が、なぜか「世界残酷物語」の邦題で公開され大ヒットしていた頃です。今井正による映画「武士道残酷物語」が作られたのもこの頃でした。世は時ならぬ「残酷」ブームだったのです<2>。

 昭和30年代という時代は、戦後の混乱期を終え、日本が少しずつ豊かになっていった時代でした。しかしその一方で、まだまだ戦争の傷跡や貧困の現実は日常のすぐそばにありました。当時の日本人たちの多くは、今の私たち以上に「残酷という真実」に敏感だったのではないでしょうか<3>。

 

(『本当は怖い昭和30年代』鉄人社)

昭和30年代ブームのさなかに出された

真実暴露本の一つ。なかなかディープです。

 

■復活の日

 

 さて、貸本誌を舞台に活躍していた平田弘史ですが、この業界の終焉と同時に、やがて活動の舞台を中央の出版社に移すことになります。

 昭和40年(1965年)に上京。ぼつぼつ創刊が始まっていた青年誌を中心に執筆するようになりました。雄渾な筆致にはさらに磨きがかかり、緻密なタッチで描き込まれた武士道ものは、ここでも人気を呼びます。『弓道士魂』や『薩摩義士伝』などの長期連載作も生まれました。

 しかし、やがてオシャレでバブルな80年代がやって来ると、平田の作風は、徐々に時流と合わなくなっていきます。

 冒頭にご紹介した記事にもあるように、90年代初頭には、ほとんど仕事がなくなり、伊豆東海岸に転居した平田は、晴耕雨読の日々を送るようになっていました。

 私が平田弘史という作家を知ったのは、まさにそんなエアポケットのような時期だったのですが、90年代末からゼロ年代に入る頃からまたしても再評価の兆しがやってきます。「斬鬼」(少年画報社)、「コミック乱」(リイド社)、「時代歴史コミック」(小学館)など、時代劇に特化した名作リバイバル雑誌が次々と創刊され、平田の過去作が、しばしば収録され人気を呼ぶようになったのです。平田作品は、雑誌の人気を牽引する主戦力として、各誌で奪い合いだったと言います。

 また、単行本企画も続々と実現していくことになりました。

『平田弘史選集』の刊行元であった日本文芸社からは、一種の廉価版として、ソフトカバーの『平田弘史傑作集』全6巻が95年から96年にかけて刊行されています。私自身は、これによって初めて、平田の過去作品をまとまった形で読むことができたのですが、やはりいっきに読むと胃もたれしそうな熱量でした。

 

(平田弘史『平田弘史傑作集』全五巻・日本文芸社)

 

 1998年には、サリュート出版局から『平田弘史劇画創世記傑作選』が刊行されています。ネット通販のみのオンライン販売でしたが、函入りの五巻セットで、貸本時代の選りすぐりの五作品が、当時の装丁のまま完全復刻されました。その中に、なんとあの『つんではくずし』が入っていたのです。

果たして読んでみたところ、これがまた想像を裏切らない残虐さで、圧倒されました。タイトルそのままに、石垣を積んでは崩す刑罰を科せられた男の話で、まさに人間の閾値を超えた惨劇と復讐の物語でした。

 

(平田弘史『平田弘史劇画創世記傑作選』サリュート出版局)

 

 そしてついに2004年、青林工藝舎の浅川満寛氏と、上記『現代マンガの全体像』の著者でもある呉智英氏の尽力により、あの最大の問題作『血だるま剣法』が42年ぶりに復刊されることになります<4>。部落解放同盟の問題もクリアにした上で、当時の経緯なども改めて再調査した上での出版でした。

 

■禁断の書の真相

 

 さて、この作品、解放同盟の抗議を受け、焼却処分となったとされているのですが、果たしてそこまでの措置があったのかどうかは今となってははっきりしません。当時、解放同盟が問題にしたのは、①部落起源についての認識が誤っている。②部落民を残虐な人と描くことで解放運動像を歪めた。③主人公を死なせて、皆がそれを喜び、部落民がみんな死に絶えればいいと思わせる。という三点でした。

 このうち①については同盟側の主張にも一理あり、その点を顧慮して、2004年の復刻版では、一部伏せ字化が行われています。しかし、②、③について言えば、同盟側の勇み足と言えるもので、この作品を素直に読めば、なんら差別的な意図などないことは一目瞭然です。むしろ、貸本劇画家として、食うや食わずのどん底生活を余儀なくされていた平田自身の、世間の理不尽な偏見に対する怒りや被差別者への共感が窺えこそすれ、差別を助長する意図など、一切なかったことは誰の眼にもあきらかでしょう。

 当時は部落に対する差別や偏見は、現代と比べても、はるかに激しく、その分、運動も先鋭化し戦闘的にならざるを得ませんでした。解放同盟の日の丸文庫への抗議の際も、棍棒を持った屈強な男たちがトラックで乗り込んできたというのだから怖いですね。

 一方、日の丸本社に呼び出された平田の方は、奈良の自宅から大阪に行く電車賃すら工面できずに苦労したと言います。お互い、どん底同士で争う不幸な事件でした。

 

 さて、そんな『血だるま剣法』という作品、どんな物語かというと、とある若者が自らの出自による理不尽な差別に憤り、社会変革の夢を抱いて剣術道場に通い始めるところから始まります。ところが、そこでもまた、激しい差別に遭ううちに、若者はついに復讐の鬼と化し、次々と同門の門人たちを殺し始めるのです。その過程で自らも手傷を負い(上記の模写もその一つ)、ついには四肢の欠損したダルマのような姿になってしまうのですが、その状態からどうやって復讐を続行したかというと、山に籠って修行の末、見るもおぞましい新剣法を生み出してしまうのです(それがどのようなものであるかは是非、直接作品に当たってみてください)。

 

(平田弘史『血だるま剣法・おのれらに告ぐ』青林工藝舎)

 

 とにかくこの作品、一読するや凄まじいインパクトを与えてしまうもので、多くの読者たちの脳裏に深くこびりついていたようです。

 特に、日の丸文庫とも縁の深かった山上たつひこは、この作品にそうとうな愛着があったらしく、『鬼刃流転』(マガジンハウス)という作品の中で『血だるま剣法』のパロディをやっています。この作品を山上が発表した1989年頃といえば、『血だるま剣法』など、知る人ぞ知るどころか、ほとんど知る人などいない状況だったはずで、連載を読んでいた読者の大半は元ネタがあることなど、わからなかったでしょう。

 また同じく日の丸文庫の出身である山松ゆうきちも、この作品の愛好者で、彼は日本のマンガが、まだあまり浸透していないインドで一発当ててやろうと、単身インドに渡り、ヒンディー語版『血だるま剣法』出版を画策します。その顛末を描いたのが『インドへ馬鹿がやって来た』(日本文芸社)でした。よりによって、なぜ『血だるま剣法』だったのかは謎ですが、山松先生なりの嗅覚で、この作品の面白さは文化や民族を越えた普遍性があると踏んだのでしょう。

 

(山上たつひこ『鬼刃流転』マガジンハウス/山松ゆうきち『インドへ馬鹿がやって来た』日本文芸社)

 

 このように多くの人たちの記憶に強い印象を与え、しばしば熱く語られることもあった作品が、42年もの長きにわたって封印され続けていたのは、あまりにも不幸なことでした。

 しかし、これらの作品は、今や誰でもその気になりさえすれば読めるようになったのです。このあとを引き継ぐのは私たちの役割なのでしょう。

 

 さて、異端の作家であった平田弘史も、とうとう2013年には日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞。

 右手を故障中の平田先生は現在作画困難な状態のようですが、たまに入ってくる揮毫の仕事をこなしたりしつつ、伊豆の自邸でのスローライフを楽しまれておられるようです。

 

 

◆◇◆平田弘史のhoriスコア◆◇◆

 

【手塚治虫の影響】69hori

念のために言い添えておきますと、貸本劇画系の多くは手塚チルドレンです。つげ義春も、白土三平も、さいとう・たかをも、初期の頃は丸っこい描線で手塚風のストーリーマンガを描いていました。最初から手塚っぽくなかったのは水木しげるでした。

 

【カブラペン】74hori

実を言うと、当連載を始めるまで、カブラペンは、あまりタッチが出せないペンだと思い込んでいたのですが、全然そんなことはないのが、この一年のうちに分かってきました。

 

【筆を使った描き文字】84hori

模写にあたっては、ちょっとインチキですが、筆ペンで枠取りしてから塗りつぶしてみました。

 

【濁点を打つ手法】85hori

ほかにも巨大な「!」マークに「ばーん」というフリガナをふる、というのもあります。これは今見るとちょっとヘンな感じがしますが。

 

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●

 

<1>記事には「この8年間、彼は新作をほとんど描いていない」とありますが、実は1990年「ヤングマガジン」誌上に『平田弘史のお父さん物語』を連載しています。ご本人も「アルバイトとして描いた」と言っていますし、取材時にも勘定に入れなかったのでしょう。のちに青林工藝舎から単行本化されていますが、とても奇妙な味わいのエッセイマンガで、いつもの時代劇とは、また違った平田弘史の一側面が窺われます。

 

<2>「残酷」というキーワードは90年代末以降、再び浮上することになります。萩尾望都『残酷な神が支配する』にヒントを得たという「新世紀エヴァンゲリオン」のテーマソング「残酷な天使のテーゼ」や、『進撃の巨人』(講談社)に出てくる「この残酷な世界」など、最近のマンガやアニメには「残酷」という表現がしばしば出現するようになりました。この半世紀を隔てた「残酷」ブームの、違いと共通点を探ってみるのも面白いでしょう。

 

<3>当時、簇出した「残酷」ものの中でも、とりわけ注目すべき作品が、1962年に公開された映画「切腹」です。名匠橋本忍の脚本、小林正樹の監督によるこの作品は、その完成度の高さによりカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞しました。西部劇のような豪快さのある黒澤時代劇とは異なり、この作品は、まさに武士道に生きる者たちの理不尽で残酷な世界を冷徹に描き切った傑作でした。この作品には平田弘史も、いたく感銘を受けたらしく、のちに自己流にアレンジして『刀匠』という作品にしています。

 

<4>のちに2012年、くだんの問題作、二作品をカップリングした『血だるま剣法・復讐つんではくずし』がラピュータから出版されました。なんだかズルい気もしますが、今から読むなら、この版を入手するのがお得ですね。

 

「マンガのスコア」バックナンバー

 

(出典:平田弘史『血だるま剣法・復讐つんではくずし』ラピュータ)


  • 堀江純一

    編集的先達:永井均。十離で典離を受賞。近大DONDENでは、徹底した網羅力を活かし、Legendトピアを担当した。かつてマンガ家を目指していたこともある経歴の持主。画力を活かした輪読座の図象では周囲を瞠目させている。

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