【AIDA】落語のくらしのアナキズム 松村圭一郎インタビュー全文掲載

2022/02/23(水)10:00
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好きな人に贈るバレンタインチョコはなぜ値札が剥がされ、きれいにラッピングされるのか。なぜチェーン店の店員はユニフォームを着ているのか。

Hyper-Editing Platform[AIDA]Season02「メディアと市場のAIDA」、第2講の講義では、経済人類学の視点から「編集的社会像」を探る。

松村圭一郎は、歴史と「くらし」に潜むちょっとした不思議を手がかりに、贈与と商品、メディアと市場、「市場(しじょう)」と「市場(いちば)」のあいだを踏み分けていく。その柔らかくしなやかな思考スタイルは課題本の『くらしのアナキズム』(ミシマ社)にも通底している。

本インタビューでは、「モラリティ」「落語」「バグ」など講義やセッションで話題に上がったキーワードを振り返りながら、企業やビジネスパーソンが「くらしのアナキズム」を”ほりおこす”可能性に着目した。

文字数上限の都合、AIDAサイトではやむなく割愛された部分も含めて、エディスト版では全文掲載する。

 

[interviewer:金 宗代 Eyechatch photo:後藤由加里]

 

 

■ふしぎなアフリカ的モラリティ

 究極の個人主義と利他主義が共存するのはなぜか?

 

ーーー「くらしのアナキズム」の方法は「個」の生き方として個人的にもとても腑に落ちるものがありました。一方、AIDAの座衆さんたちは多くの人が会社に所属していたり、経営者だったりします。「くらしのアナキズム」を組織論として考えることも可能なのでしょうか。

 今日のセッションでも組織のあり方について議論を交わしましたよね。「垂直的モデル」と「水平的モデル」があって、「水平的モデル」でもうまくいくのだろうかという問題提起でした。そこで考えたいのは「うまくいく」とは何か、ということです。

 まず、組織が「うまくいく」という場合を考えてみましょう。たとえば企業であれば「法人」ですね。法人というのは、本来は人格性を持たないものに法律上の人格を付与したもので、人間のように死ぬことはありません。つまり、「企業がうまくいく」とはどういうことかというと、永続するものとしての法人が「うまくいく」ことであり、その法人の中にいる「個人」にとって「うまくいく」ものになるのかどうかはまた別問題になります。

 『くらしのアナキズム』の中でパプア・ニューギニアなどメラネシア地方の「ビッグマン」と呼ばれる民族のリーダーやアフリカの首長たちについて書いたのですが、世界の諸民族の多くはあくまでも民の生活が保障されているかどうか、「くらし」が成り立つかどうかを重視します。民のくらしを成り立たせるために神聖な力を王に付与する。したがって、王が神聖な力を発揮できなかった時、当然、王の座から引き下ろされてしまいます。王のために社会があるのではないのです。そして、水平構造か垂直構造かの二者択一というより、その組織の中で生きている人が「うまくいく」ためにはどうすればいいかという問いが常にあります。

 組織がいくら「うまくいく」状態になっていたとしても、その中で働いている人が不幸だとしたら本末転倒です。そこで、主語を変えることが必要だと思うんです。「企業は」とか「国は」という主語で物事を考えてしまいがちですが、そこに具体的な生活者の顔が見えないと企業活動も政治もグロテスクなものになってしまうのではないでしょうか。

 

小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』(春秋社)

 

ーーー「チョンキンマンション」は会社や国家とはまったく異なる組織体になっていますよね。チョンキンマンション型の組織は「つくる」というより「つくられる」という感覚があります。

「一時的に集まる」という形をとっていますよね。そして、危なくなったら逃げる(笑)。なぜ逃げるかと言えば、個人の生活が大事だから。誰もチョンキンマンションのネットワークのために生きているわけではない。その本末転倒を起こさないために逃げる。戦って犬死するなんてまっぴらゴメンだ、と。

 彼らとしては、自分以外のまして抽象的なもののために個人の生活を犠牲にするわけにはいかない。だから、「究極の個人主義」でもあります。その個人主義を支えているのが「失敗しても助けてもらえるだろう」という根拠のない自信というか、なんとも言えない大きなモラリティがあって、そこが不思議なところです。

 

ーーー不思議ですよね。そのモラリティはどうして生まれるんでしょう。それは「アフリカ的」なるものなんでしょうか…。でも、江戸時代の生活、落語にも通じるというお話もありましたよね。

 世界中どこを探しても完全な人間なんていませんよね。人間は誰もが不完全であり、失敗する。そして、みんな必ず死ぬ。その不完全性を自覚できていると他人が失敗したとき、自分もそうなりかねないことが分かる。逆に「人が死ぬ」ことも含めて自分が不完全だとわかっていないと、失敗に寛容でなくなる。

 例えば、同僚に失敗ばかりするパフォーマンスの悪いAさんがいるとして、「あいつは使えない」とか言って、自分は絶対にAさんのようにはならないと思い込んでしまう。この「蹴落としモデル」は、自分の不完全性への自覚がないために生まれるわけです。

 これも『くらしのアナキズム』に書きましたが、アフリカの民衆のモラリティの根底には「人間は不完全できっちり分けられない存在である」という認識があると言われています。それは、個人が独りでは生きられないことを肯定する考えだと思います。だからこそ、他者に対しても、なんでそこまでやるのというくらいまで関与する。例えば、見知らぬ行き倒れの人に対して、惜しげもなくお金を出す。それは善意というより、自分もそうなりかねないと感じているからではないでしょうか。だけど、普段は互いに騙し合っている(笑)。この「だけど」というのが不思議ですね。

 そこが日本社会では転倒しているように思います。一見すると組織の中で信頼し合っているように見えるけれど、いざという危機の時は助け合うことができない。

 

松村圭一郎『くらしのアナキズム』(ミシマ社)

 

■まなびは「耕す」、くらしは「もれる」

 どうやってバグを表沙汰にするか

 

 かつては日本にも身近にたくさんの「学びのモデル」がありましたよね。今は学校や塾の先生だけが学びを担ってしまっている。それは「教える人」と「教えられる人」という硬直した関係です。一昔前までは、学校は数ある学びの場の一つだという意識があって、近所のおじちゃんやおばちゃん、おじいさんやおばあさんから学ぶということが当然にあった。

 本来、どんな状況でもその場で必要な知識を学べる状態にするのが「学びをつくる」ことだと思います。それは「種を蒔く」というより、「土を耕す」ことに近い。そうすれば、どんな種が来ても芽生える可能性がある。

 でも、今の教育は「英語の種」とか「プログラミングの種」というふうに特化した種を蒔く教育になっていますよね。将来もし、英語をすべて自動翻訳機が担い、プログラミングをAIが担うようになったらどうするのか。

 もちろん「土を耕す」って、知識を詰め込むことではないんですよ。そうではなくて、友達と遊ぶとか、いろいろな大人たちと交じって過ごす時間の中に「耕し」がある。こうした教育の話は『これからの大学』(春秋社)という本でも書いています。

松村圭一郎『これからの大学』(春秋社)

 

ーーー「耕す」といえば、『くらしのアナキズム』では農本思想家の安藤昌益の「もれる」という言葉についても述べられていましたよね。

 藤原辰史さんの『縁食論』(ミシマ社)から引用した言葉ですね。「もれる」という概念も自然の循環するイメージがもとになっています。人間は自己完結的では決してなく、人や自然からの「もれ」を受けとり、また「もれ」を外に出している。食べることもそうですよね。自然物を食べて排泄し、それを微生物が分解して、それが自然の草木を育てる。人が問題に直面するときも同じです。それぞれの事情がもれでて、表沙汰になっていくからこそ、そこに手を差し伸べる人があらわれる。

 タンザニアのコミュニティでは「あいつが困っている」とか「あそこで揉め事が起きている」と何もかも透けて見えている。そのとき助けるかどうかは別にして、みんなそのことを知っているわけです。そうすると、本当にヤバいときには手を差し伸べることができる。

 日本の社会では、ダメなこと、失敗していること、問題を抱えていることをみんなが内側に秘めてしまう。あるいは病院や家族の中などに閉じ込めてしまっている。そうすると、いざ問題が起きた時に、誰がどんな事情を抱えているのかがわからない。本当は困っている人がいるはずなのに、誰をどうやって助ければいいのかわからない。アナキズム的な助け合いができません。こんなふうに、お互いの事情を閉ざすような人間関係を生み出すシステムをつくってきたことに危うさを感じます。

 逆に、エチオピアで調査している村は揉め事だらけなんですよ。いつ行っても喧嘩ばっかりしているように見えて、最初はなんでみんな仲良くできないんだろうと思っていました(笑)。でも、それはきちんと互いの問題を表沙汰にしている証拠なんですね。日本では表向き仲良くすることが大事で、それぞれ抱えている問題を表に出さない。子どもたちにも「みんな仲良くやりなさい」と言いながら、その陰ではいじめられている子がいる。それが表沙汰にならないから、教師もまわりの大人たちも対処することができないわけです。

 だから、一見カオスで喧嘩ばかりしている状態のほうが実は健全な人間関係なのかもしれません。問題の所在がわかる状態になっているわけですからね。つねに誰もが何が問題なのかを把握できる状態にある。

 今日のセッションの最後には、バグやコピーエラーが生命の進化には不可欠だったという松岡座長の話もありましたよね。不調が起こっていることをどう掬い取るか。成功をアワードで表沙汰にするのもいいんですが、それとは別の視点で、どうバグを表沙汰にするか。そうすることで、問題の兆候とか、組織の歪みの兆候のようなものが見えてくるのかなと思います。

 教育モデルにしても組織管理にしても一つの正解のモデルがあるわけではない。エチオピアやタンザニアの例のように、日本とはだいぶ違う社会モデルで生きている人たちもいる。ただし、それを取り入れればうまくいくわけではなくて、別の視点もありうると提示するのが人類学の役目なのかなと思います。

 

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)

 

■「毎日食堂」と「スロウな本屋」

 地縁でも血縁でもない顔の見える《長屋的な関係》

 

ーーー「表沙汰にする」というのは、落語の話に出てくる長屋の暮らしでも起きていたし、江戸時代まで戻らなくても数十年前の日本にはまだそういうことって残っていたと思うんですよね。ただし、今はもうない。かといってそのかつての世界に戻れるのかと言ったら無理だろうから、また別の形でそういうものが現れてくると面白いですよね。

『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)を出したのが4年前のことなんですけど、この本は田舎の小さな本屋さんでも取り扱ってくれました。今回の『くらしのアナキズム』を出したあとは、そんな本屋さんがさらに増えていると実感しました。本屋さんなのか食堂なのかもわからない小さなお店が声をかけてくれて、ものすごく力を入れて売ってくれています。淡路島にある「毎日食堂」さんとか、出雲市の商店街にできた「句読点」さんとか。最近、そういう小さいけど個性的なお店がぽこぽこ地方でも出てきています。

 大きな書店は苦境で統廃合したり、閉店していっているけれど、大資本のシステムに乗らない小さな書店は「市場(いちば)を開く」ような感覚で地道に増えています。そういうお店には「なんかセンスが合う」とか「このお店の雰囲気が好き」という理由で人が集まってくる。そういう常連さんのあいだで地縁でも血縁でもない顔の見える「長屋的な関係」が育まれているようなんです。

 私がよく行く岡山市の「スロウな本屋」はまさに三軒長屋の一角にあります(笑)。そこは玄関で靴を脱いで上がるんです。靴を脱ぐとなると「何か買わなきゃいけないな」とか思ったりもするんですが、コミュニケーションすることが前提のお店のつくりになっています。ある時、一人で切り盛りしている女性の店主が、体調を崩してフェイスブックに「臨時で休業します」と投稿したところ、常連の女性のお客さんがすぐさまやってきたそうです。いつのまにかバックアップ体制をつくって、差し入れをしたり、掃除をしたり、本の発送を手伝ったりしたそうです。

 でもその常連さんたちは、別に店主を助けるためにもともと集っていたわけではない。その本屋が好きだから、本を買うためやイベントに参加するために店に来ていた。でも、その物やサービスを売り買いする「市場(いちば)」のつながりが危機の時に活かされた。それは一時的な関係かもしれないけれど、江戸の長屋のような状況が現代の都市部でも生まれているわけです。

 国家にはそんなふうにすぐに困っている人に手を差し伸べることはできないですよね。「手続きしてください」とか「救急車を呼んでください」とか「自宅療養していてください」とか、そんなことを言われても、手続きするにも起き上がれないことだってあるし、かといって救急車を呼ぶほどでもない場合だってある。安静にして寝ていたらお店はどうなっちゃうのという要望にはなかなか応じてもらえません。これはコロナ禍でも同じような状況だったと思います。だからこそ、そうした危機に手を差し伸べてくれる人が現れる関係をどうやって耕しておくのかを考えなくてはいけません。

 

ーーーセッションの中で会社の外部に長屋的なものを作る可能性を示唆する発言もありましたね。

 意識的に作りだすのって、むずかしいですよね。目的を持った組織は硬直的になって、柔軟性を失いやすいのかもしれませんね。「良いこと」を掲げることによって、なぜか逆に悪い方向に暗転してしまうことだってあります。さっきの「スロウな本屋」は、別に何かの目的のために人が集まってきたわけではありません。本屋が好きだからとか、いろんな理由でみんなバラバラに集まってきた。

 さきほどふれた藤原辰史さんも「弱目的性」の重要性を説いています。一つの目的を設定してその目的のために人が集まると均質化を招いてしまう。そしてその目的に沿うか、沿わないかの争いも起こる。優劣が生じて「あいつはパフォーマンスが悪い」「使えない」と蹴落としモデルに陥ってしまう。でも、「スロウな本屋」のようなモデルならそんな蹴落としは起きようがない。一つの目的の達成度合いを競っているわけではないので。自発的で強制性もないから嫌な人は抜ければいい。そんな組織を企業の外部につくれたらいいんでしょうけど。

 例えば、なるべく目的を持たないために「遊びの場」みたいなものをつくると仮定してみても、どうしても企業が主導するとなるとその「遊び」が目的化してしまう気がします。その目的のために一生懸命やってしまう。「弱目的」的な時間や場所をどう意図的に作っていけばいいのかって、すごく矛盾をはらんだ課題ですね。そのためにはまず人を信頼しなくてはならない。誰かが目的を設定たり、きちんと誘導しなくても、そこにいる人たちのなかから何かが生まれることを信頼して任せるって必要な態度だと思います。

 

藤原辰史『縁食論 ――孤食と共食のあいだ』(ミシマ社)

 

ーーー人を信頼しなくてはならないし、強いリーダーシップも持たない方がいいんですよね。

 水平的な社会にもリーダーがいないわけではない。ただし、一時的です。アメリカ先住民も戦さになれば「戦さ頭」という役割をつくります。でも戦さが終われば元の平民に戻る。それは海賊船も同じで、海賊の船長はある時には一時的に全権委任されるけれど、平和な時には元の一員に戻る。役割が固定化することを避けているんですね。

 とはいえ、彼らだってみんなバラバラなだけがいいと思っているわけではないから、コーディネーターやファシリテーターのような調整役の人はいます。ただそれも無理矢理やらされたり、固定したりしているのではなくて、そういう役割が好きな人、得意な人が自発的にやるといいのかもしれません。

 

■落語のアナキズムを「ほりおこす」

 みんなダメなやつだけど、なぜかうまくいく

 

ーーーかつて日本人も落語の長屋的な、つまり「くらしアナキズム」的な価値観を確かに持っていて、そういうモデルが今も消えずに残っていますよね。

 なぜいまだに落語が愛され、語り継がれているのか。なぜ日本人は年末になると「忠臣蔵」を見るのか。「仇討ち」なんて国民国家からしたら絶対に許されないものにもかかわらず、芸能やドラマやフィクションの中にそういうものは形を変えて残っています。見えにくくはなっていますが、日本人のメンタリティから落語的な価値観が完全に消え失せたわけではないのだろうと思います。

 だからあまり悲観的にならずに「ほりおこす」ことを提案しています。『くらしのアナキズム』の序文にも「自分たちの生活のなかの埋もれた潜在力をほりおこす」というふうに書きました。身近な生活を掘り起こしてみれば、ちょっと錆びているけど磨き直せば使えなくもない、いや、すっごい使えるじゃんみたいなものがきっとあるはずです。

 

ーーー「ほりおこす」ことを通して、タンザニア人やエチオピア人や落語の登場人物たちのような「くらしアナキズム」的なモラルを取り戻すことができるといいですよね。

「くらしアナキズム」は決してアフリカや特定の地域だけに見られることではありません。世界中で人類はそうやって社会を作り上げてきました。でも水平的になったり、垂直的になったりと地域や時代によって「ゆれ」はあります。その「ゆれ」の繰り返しが歴史であり、垂直方向に振り切った時に国家が誕生するようなことも起こります。

 つまり、国家的な垂直構造をつくることも人間の本来性の一部であり、それが不自然だとは言えません。その一方で垂直性とはまた別のモデルもあるわけです。人類学はそういう「人間の普遍」を追い求める学問でもあります。

『くらしのアナキズム』では、ホッブズの言うように権力がないと絶対に組織はうまくいかないというモデルに対して、いやいやみんな業を抱えた欲深い存在だからこそうまくいくというモデルをマルセル・モースやきだみのるが描いたことをもとに紹介しました。江戸の長屋もそうですね。酒飲みで、博打うちで、業も深く、欲も深いみんなダメなやつだけど、なぜかうまくいく。その人間像は今の日本人の中にもあるはずです。

 大学の学生たちを見ていると「マジメの病」にかかっているなと思うことがよくあります。その「マジメの病」を誰が作っているのかと言えば、彼らの親や社会がつくっている。問題を抱えている学生に聞くと、だいたいマジメなご両親がいる家庭みたいなんですね。「こうしなければいけない」「こうでなければいけない」という呪縛に囚われていて、そもそも人間なんて不完全だと認められない。そのマジメさが人を追い詰めることもあるんだと思います。

 みんなもうちょっとだけ不真面目になれないんですかね?


  • 金 宗 代 QUIM JONG DAE

    編集的先達:モーリス・メーテルリンク
    セイゴオ師匠の編集芸に憧れて、イシス編集学校、編集工学研究所の様々なメディエーション・プロジェクトに参画。ポップでパンクな「サブカルズ」の動向に目を光らせる。
    photo: yukari goto