庵主・田中優子が「アワセとムスビ」で歴史を展く【間庵/講1速報】

2022/07/28(木)13:32
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 2022年7月24日、「間庵」が開座した。庵主は、江戸文化研究家であり、松岡の盟友でもある田中優子さんだ。間庵は田中庵主が中心となり、リアル参加者の「間衆」とともに松岡正剛座長の「方法日本」を解読、継承、実践し、編集工学と接続して新たなJAPANウェア、JAPANネットワークを構想していく場である。今期のジャパンコンセプトは「アワセとムスビ」。講1では、田中庵主がアワセとムスビを軸として、『情報の歴史21』を活用しながら日本の歴史を紐解いた。この記事では、速報として講義のエッセンスをお送りする。

 

松岡座長の「方法日本」に関する本のパネルが本楼を囲んだ

 

 

<1>合わせ鏡としての日本と朝鮮/庵主レクチャー1

 

 間庵・講1は、田中庵主のレクチャーから始まった。冒頭、庵主は間衆に向けて「あなたの歴史観の出発点は?」という問いを投げた。この問いに答えると、自分と歴史のあいだの関係が見えてくるからだ。庵主の最初の歴史体験は、11歳のとき、親戚の家でたまたま見てしまったケネディ暗殺のテレビ映像だという。実はこれは、世界の放送史上の画期的な実験、太平洋を越えた初めてのテレビ宇宙中継の映像だった。こうやって自らの記憶を辿っていくと、時代の変化、価値観の変化を感じ取ることができる。

 

 田中庵主が今回のレクチャーで手すりにしたのは、松岡座長の著書『日本という方法』(角川ソフィア文庫)だった。『日本という方法』をヒントにしながら、田中庵主は日本列島と朝鮮半島を「アワセ」として扱った。日本海という大きな川を挟んだ列島と半島は、お互いを映す合わせ鏡となってきた、というのだ。

 

 日本「列島」は、常に朝鮮「半島」の諸国を必要としてきた。なぜなら、朝鮮半島の背後に「中国」があるからだ。漢字、仏教、馬、稲、機織り、暦、紙、墨、楽器…。中国から伝来したものはほぼすべて、実際には半島を介して伝わった。その原動力となったのは、半島から列島に移住した人々だ。彼らは日本の西から東へも移動し、日本全土に技術や言葉や思想や文化を伝えた。だからこそ、列島にとって半島は中国の象徴や比喩なのだ。

 

 列島はこれまでに三度、半島に戦いを挑んだ。いずれも、半島の先の世界を見据えた戦いだった。最初は「白村江の戦い(663年)」だ。田中庵主は、『日本という方法』の次の文章に注目する。「白村江で唐・新羅連合軍と激突します。しかし倭は打ち砕かれました。この敗戦は百済の滅亡とともに、倭をして完全に朝鮮半島から撤退することを決断させます。(中略)そしてこの瞬間に『倭』はついに『日本』になったのです。(中略)中国・半島・倭の関係は一蓮托生で、唐に敗北し、新羅が統一したことが日本を自立させたのです。(中略)日本は敗戦で立ち上がっていったのです」。

 

 この後、日本は豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年)、日清戦争・日露戦争の勝利を経た日韓併合(1910年)でも半島に進出する。しかし、朝鮮出兵はうまくいかずに撤兵し、日韓併合は1945年の敗戦によって終了する。ところが興味深いことに、日本はこの三度の敗戦後に、むしろ繰り返し自立してきた。列島は半島に接することで、自らの姿を明確に見て取ってきたのだ。

 

田中優子庵主

 


<2>治まる日本/庵主レクチャー2

 

 次は「ムスビの日本」だ。白村江の戦いに敗れた後、「自立をはかった日本がまずとりくまねばならなかったのは、法制度の確立と政治体制の確立と、そして歴史書の編纂」だった(『日本という方法』)。そのために、日本人は漢字(真名)から仮名を発明した。同時に、日本は「各地の神社地に神宮寺を建立し、神祇の力と仏教の力をほどいて結んでいった」(『日本という方法』)。朝鮮半島を経て中国から伝わった仏教と、日本土着の神道をムスび、日本を治める力としたのだ。

 

 その後、天皇を中心とした中国式の律令制から、公家・武家の二元支配システムを経て、江戸時代に幕藩体制の日本型統治モデルが完成した。江戸時代の日本には、「制度の村」と「生活の村」があった。制度の村とは、村長がおらず、村方三役が治めることを指す。つまり、トップは必ず三人体制だったのだ。村だけではない。江戸も奈良屋・樽屋・喜多村の町年寄の三人体制を取っていた。基本は村方三役が中心となってすべて話し合いで解決し、どうしようもないときだけ選挙を行った。生活の村とは、村内に多種多様な組・講・結の組織が存在したことを指す。こうした組織でもそれぞれに話し合いが行われた。

 

 江戸時代の日本は、そうやってさまざまな要素を絡み合わせ、ほうぼうで話し合いながら、キリシタン、乱、一揆などのアナーキーな集団とも共存し、「和する」ことによって「治まる」状態をつくり出した。なかには由井正雪の乱のように、乱が起こる前に治まったものも多い。治めるのではなく、「治まる日本」だったのだ。

 

 最後に、田中庵主は「あなたの歴史観の出発点と共鳴した歴史上の出来事は?」という問いを投げた。庵主は、この問いについて間衆全員に考えてもらいたいのだ。

 

 


<3>アワセの発生・変遷・展開/方法日本×編集工学レクチャー

 

 休憩後、橋本英人(編集工学研究所)と田中庵主による「方法日本×編集工学レクチャー」が行われた。テーマは「アワセの発生・変遷・展開」だ。

 

 松岡座長によれば、「すでに平安期、前栽合わせ、貝合わせ、香合わせなど、さまざまな合わせものが流行していたのだが、その根底にあるのは『歌合わせ』という手法だった」(百事百物百景コンセプトジャパンNo.025「あわせ」)。

 

 歌合わせのアワセの方法を育んだのは、宮廷サロンだ。長屋王のサロン、嵯峨天皇のサロン、惟喬親王のサロンなどが編集文化を培ってきた。特に寛平延喜時代の宇多天皇が宮廷行事に歌合わせを取り込んだ。以降、宮廷サロンといえば歌合わせになった。最も華やかだったと語り継がれるのが960年の「天徳内裏歌合」で、大トリの壬生忠見と平兼盛の一番が有名だ。

 

 宇多天皇のサロンから登場するのが、『古今和歌集』を編集した紀貫之だ。貫之たちは「部立」(目次)という画期的な編集方法を生み出した。見ゆ万葉集に対して、「思ほゆ古今和歌集」と言われ、春・旅・恋などのイメージカテゴリーを重視したことも大きな特徴だ。何よりも、貫之は真名序と仮名序のアワセをつくって、仮名文化の立ち上げを宣言した。

 

橋本英人

 

 その後、アワセの方法は『和漢朗詠集』、大極殿と清涼殿、てりむくり、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一、和洋折衷などに現れる。また、アワセの場は座、寄合、会所へと移り変わり、そこでは連歌や茶の湯が、あるいは勇ましい闘犬や闘鶏が盛んに行われた。また、過剰に外れているカブキ者が現れて、歌舞伎の芸能が生まれた。

 

 以上を受けて、橋本は最後に松岡座長の言葉を紹介した。「日本は、グローバリズムの中で最初から市場競争に打って出ようとしているが、それでは勝者は少数になりすぎる。それよりもラウンドやリングや座や場所を設け、そこで合わせることを仕掛けたほうがいい。キソイからアワセではなく、アワセからキソイへ、そしてソロエを提示するのがいい」(百事百物百景コンセプトジャパンNo.025「あわせ」)。

 

 


<4>歴史的現在といなりずし/座長へ質問セッション

 

 最後は松岡座長を囲んでのトークだ。田中庵主や間衆が、自分の話を持ち出しながら松岡座主に質問を重ねていった。

 

 トーク前半で松岡座長が強調したのは、「歴史的現在」の重要性だ。歴史的現在とは、歴史を現在の物語として見たり、現在を歴史として見たりすることを指す。古来、日本にはあらゆるものが中国と朝鮮を経て、遅れて入ってきた。そのため、歴史的な過程のすべてをまとめてフュージョンしながら取り入れたことが多い。たとえば仏教がそうで、禅は栄西と道元によって一挙に日本に導入された。中国禅には5~6世紀の達磨以来の歴史があるが、12~13世紀にまとめて日本に入ってきたのだ。そのとき、日本は歴史的現在としての禅に出会った。そこを見ることが大切だ、と座長は語る。

 

 また、座長は「あるものの変化をずっと観察して、ガラッと変わるときに注目する」という。たとえば、いなりずしがあるとき一斉に小さくなったら、それはどういうことなのかを考える。すると、そこに歴史観や歴史的現在が顔を出す。

 

 産物や文化の場合、技術が完成したところに注目すると、歴史を飛ばして一挙に掴むことができるという。『日本という方法』はずっと時系列で語られるのだが、最終章・第13章だけは、西行、金子光晴、野口雨情、西條八十、九鬼周造、司馬遼太郎がピックアップされている。彼らは各々が技術を完成させた存在だから、技を比較したり理解したりして、歴史とは別に語ることができるのだ。

 

田中庵主と松岡座長が語りあう

 

 トーク後半は、間衆が自分の歴史観の出発点を持ち出しながら、松岡座長・田中庵主と対話した。地元書店、差別、封印、建築構造、左翼・右翼、自己と非自己など、さまざまな話題が飛び交った。終わってみれば、あっというまの4時間だった。次回の講2のテーマは「文化と遊ぶ」。速報を待たれよ。

 

間衆とのトーク

 

 ▶︎次回の間庵は8月20日(土)開催。詳しくはこちらをご覧ください。

 


  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。