【輪読座】能は「悪」だった? バジラ高橋が説く日本の「善悪観」

2020/07/27(月)11:20
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世阿弥の世界観に則ると、能は善悪でいえば「悪」といえる。

 

こう聞いてもし違和感を覚えたならば、もしかしたら西洋の「善悪観」にとらわれているのかもしれない。

 

 

|ヨーロッパは単一的・日本は包括的

 

7月26日の輪読座。

バジラ高橋は「ヨーロッパは単一的、日本は包括的」と両者の善悪観を対比する。

 

「日本では、悪はその周りに善を包括しているとみる。
 善とは生きられるということ。逸脱したり、度が過ぎること。それを悪とみた。」

 

やりすぎ、いきすぎ、珍しいことが好き。これはどれも「悪」に属することだという。

善と悪が対置させない見方が日本にはあり、世阿弥もそのような世界観にいた。

 

 

|未知に向かうことは「悪」だった

 

「美男がスキ。クラスターが発生してもあの人へ会いにいきたい。それが悪。ただ、やりすぎると亡びるわけです。だから善をもってなさいという。全部捨てちゃだめよと。

 対して善人は外出を控えて安全に生きようとする。それが善なんです」

 

生きるだけなら善だけでいい。だがそれだけでいいのか。

対比的にとらえられがちな「勧善懲悪」も、「善をもってなさい。全部悪にすると生命としての根拠がなくなってしまう」という生き方の指南のように思えてくる。

 

 

|悪にも芸にも「魅力」がある

 

生きることと関係ないのになぜ「悪」に向かうのか。

 

「悪には魅力があるんです。実は芸は悪の道なんです。善悪でいえばね。常識を破っていくものなんですよ。」

 

新規事業をする人、新しいファッションをする人はみな、型破りな「悪」。

世阿弥の生きた室町時代でいえば、金箔で塗りたくった金閣寺などは悪事の極みといえるだろう。

 

 

|善だけではやってられない

 

「こうした構造の中で日本は善悪をとらえている。だから『善が悪を滅ぼす』という理論はあり得ないわけ。光と影は対置するものではない。光があって影がある。影は周りのことであって。ヨーロッパとはまるっきし違います。」

 

こうした善悪観(世阿弥の見方でもある)を通すと、たとえば鎌倉時代を生きた親鸞の「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の受け取り方も変わってきそうだ。

 

「善だけだと縮こまってしまう。それだけじゃやってられないよね。統制社会みたいになっちゃう。」

 

バジラはそう笑いつつ、世阿弥と観世元能の芸談『申楽談儀』の図像解説をはじめた。

  • 上杉公志

    編集的先達:パウル・ヒンデミット。前衛音楽の作編曲家で、感門のBGMも手がける。誠実が服をきたような人柄でMr.Honestyと呼ばれる。イシスを代表する細マッチョでトライアスロン出場を目指す。エディスト編集部メンバー。

コメント

1~3件/3件

川邊透

2025-07-01

発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。

川邊透

2025-06-30

エディストの検索窓に「イモムシ」と打ってみたら、サムネイルにイモムシが登場しているこちらの記事に行き当たりました。
家庭菜園の野菜に引き寄せられてやって来る「マレビト」害虫たちとの攻防を、確かな観察眼で描いておられます。
せっかくなので登場しているイモムシたちの素性をご紹介しますと、アイキャッチ画像のサトイモにとまる「夜行列車」はセスジスズメ(スズメガ科)中齢幼虫、「少し枯れたナガイモの葉にそっくり」なのは、きっと、キイロスズメ(同科)の褐色型終齢幼虫です。
 
添付写真は、文中で目の敵にされているヨトウムシ(種名ヨトウガ(ヤガ科)の幼虫の俗称)ですが、エンドウ、ネギどころか、有毒のクンシラン(キョウチクトウ科)の分厚い葉をもりもり食べていて驚きました。なんと逞しいことでしょう。そして・・・ 何と可愛らしいことでしょう!
イモムシでもゴキブリでもヌスビトハギでもパンにはえた青カビでも何でもいいのですが、ヴィランなものたちのどれかに、一度、スマホレンズを向けてみてください。「この癪に触る生き物をなるべく魅力的に撮ってやろう」と企みながら。すると、不思議なことに、たちまち心の軸が傾き始めて、スキもキライも混沌としてしまいますよ。
 
エディスト・アーカイブは、未知のお宝が無限に眠る別銀河。ワードさばきひとつでお宝候補をプレゼンしてくれる検索窓は、エディスト界の「どこでもドア」的存在ですね。

堀江純一

2025-06-28

ものづくりにからめて、最近刊行されたマンガ作品を一つご紹介。
山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(秋田書店)
この作品の中で語られるのは眼鏡職人と音楽家。ともに制作(ボイエーシス)にかかわる人々だ。制作には技術(テクネ―)が伴う。それは自分との対話であると同時に、外部との対話でもある。
お客様はわがままだ。どんな矢が飛んでくるかわからない。ほんの小さな一言が大きな打撃になることもある。
深く傷ついた人の心を結果的に救ったのは、同じく技術に裏打ちされた信念を持つ者のみが発せられる言葉だった。たとえ分野は違えども、テクネ―に信を置く者だけが通じ合える世界があるのだ。