編集用語辞典 06 [指南]

2022/07/22(金)08:29
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辺りを霧が立ち込めている。どちらへ進むべきかわからない。このとき古代中国の伝説上の人物である黄帝は、方向を指し示す車を作らせ、軍隊の難を救った。両輪に連動する歯車を入れた箱の上には、木製の人形を置いた。その手が南を指すように立たせておくと、車の方向が変わっても歯車の仕掛けによって、南を指し続ける。ここから「指南」という言葉が生まれたのだという。五里霧中の行き詰りへ、道を拓く指南。易経の説卦伝には、「聖人は南に面して天下に聴いて、明に向かって治める」ともある。

 

「指南」を辞書で引くと「武術・芸能などを教え示すこと」とある。年頭の千夜千冊第1791夜『弓と禅』では、ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルが禅に惹かれて来日し、とまどいながら弓道を学ぶようすが紹介されている。

 

わかりやすい指導が何もない。一応の技法は稽古しておぼえたものの、ほとんど褒めてくれない。・・・とくに矢を的に中(あ)て「やった」という顔をすると、必ず咎められる。指南はたいそう暗示的で、とりわけ的中するたびに「会」から「離」への心得がなっていないと叱られる。

 

師はなぜ、わかりやすい指導をしないのだろうか。

 

千夜千冊第1508夜『世阿弥の稽古哲学』(西平直著)の中で、松岡校長はこのように語っている。

 

編集学校での編集稽古はネット上の教室の中で師範代が対応する。師範代による指導でありコーチングなのだが、これをぼくは「指南」と名付けた。理解、暗示、示唆、誘導、提示を含めるためだ。

 

稽古における指南で「理解、暗示、示唆、誘導、提示」を含めた方法を学ぶのが、ISIS花伝所である。田中晶子所長は『インタースコア』(春秋社)の中で、指南は「浸透的で相補的な作用をもたらす」のだと語り、「指導」との違いをこんなふうに書いている。

 

AからBへ情報を正確に伝えることが目的ではなく、Aが届けたい情報が、Bを動かさなくてはならない。

 

指南は一様ではなく、一人ひとりの方法の道筋へ分け入り、相手によって変化し続ける。回答にも正解はない。教室の師範代と学衆とのあいだで交わされる「問・感・応・答・返」というプロフィールのさざ波が揺蕩い、エディティング・モデルの交換が生まれる秘密が、ここにある。師範代も学衆も、新たな仮説に向けて考え続け、揺らいでいる風流な存在なのである。その揺らぐ先にあるのは何だろうか。

 

千夜千冊第1252夜『守破離の思想』(藤原稜三著)では、中森晶三の『けいこと日本人』を紹介して稽古の醍醐味を語っている。

 

(この書は)なぜ稽古がおもしろいか、現代に必要かということを、端的に示していた。師弟相承のしくみのある稽古事は「夢の共有」をもたらすからだというのだ。

 

指南は、相手が私を変え、私も相手を変える相互編集を起こすが、そこには時と場にふさわしい絶妙な機がかかわっている。西平直は『稽古の思想』の中で、こうした極限を「啐啄同時」と呼んでいる。

 

親鳥は卵を温めながら機をうかがう。いよいよ近くなると、嘴で外側からコツコツと叩く。それを聴いた雛は、その音を頼りに、コツコツと返してくる。それを繰り返すなかで上手になってゆき、雛鳥は自分の力でカラを割って出てくる。親鳥の叩くのが強すぎれば殻を破ってしまう。逆に弱すぎれば雛を導くことができない。

 

この啐啄同時では、両者の関係のうちに場のポテンシャルエネルギーが顕れ出てくる。『弓と禅』によれば、ある日、ヘリゲルの射が放たれた瞬間に師が叫んだという。「それが現れました!お辞儀しなさい」

 

教室の師範代と学衆は、共にコツコツと卵の殻を破り、既存の言葉や概念を覆す。異質な重ね合わせやズレや偶然から、思わぬ発見も起こる。指さす先にある南には、新しい価値観が生まれてくる香り豊かな面影が、遥かな波路の果てから立ち上ってくる。

 

『守破離の思想』の一夜にも登場する幕末の剣客で北辰一刀流の祖、千葉周作が、海辺にある門人の家に逗留したときのことだ。ある晩、下男とともに魚獲りに出かけたが、潮が引いているあいだに岩場の水溜りに取り残された魚を拾うのに夢中になるあまり、沖へ沖へと足が向き、気がつくと岸の方向が分からなくなっていた。辺りは真っ暗で、潮が今にも満ちてくる。そのとき千葉周作は、千鳥の鳴き声を耳にし、「遠くなり近くなるみの浜千鳥啼く音に潮の満ち干をぞ知る」という古歌を想起する。そしてその声を頼りに下男とともに岸に辿り着いたという。だが海を知り尽くした老人は、これを聞くと案内の者たちを叱り、「なぜ松明を消さなかったのだ。どんな暗い夜であろうと、松明を消せばおのずと陸と海との違いが見えてくる」と諭した。千葉周作は、そんな方法もあったのかとたいそう感心したという。

行き詰りで蘇る内なるものを引き出す千鳥の声も、自然の理を説く老人の声も、別様の可能性の道を拓く指南を彷彿とさせる。自らを煌々と照らし出す松明を消せば、やがて視界が開けてくる。その先にはどんな景色が広がっているのだろう。

 

§編集用語辞典

 01[編集稽古]

 02[同朋衆]

 03[先達文庫]

 04[アリスとテレス大賞]

 05[別院]

 06[指南]


  • 丸洋子

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