をぐら離 文巻第10-11週 ─「日本と宇宙と素粒子と」

2021/03/22(月)13:57
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 守・破・花・遊そして多読ジムの感門之盟でイシスが華やぐ中、14季[離]は、第10週「見方のサイエンス」から第11週「日本という方法」へ。一見遠いこのふたつのテーマは、実はとても近しい。今回の実験は、千離衆の米山拓矢さんの『うたかたの国』に、エディション『宇宙と素粒子』(と、わずかに『情報生命』)をかさねる方法です。意外にも日本という方法には、サイエンスのキモを掴む様々な見方が含まれていることを再認識しました。
 「をぐら離」では、析匠、小倉加奈子の日常を通した離の姿をお届けしていきます。門外不出の文巻テキストをもとに進められていく離の稽古の様子を少しでも想像いただければと思います。

 


一.音と線、物質と光の重なり具合


 文字とは、音と線の産物である。そこには音の交通があり、線の交換がある。それを交響曲というにはおおげさであるかもしれないが、なににもまして大胆なコズミック・ダンスであるとはいえるにちがいない。
──遊行の博物学『うたかたの国』p.25
              

 粒子が体系の中に入り込んでゐる時には観測することが出来ず、粒子を把握した時には体系が破壊してゐるといふやうな関係にある個別的単元及び体系の概念が、どういふ意味に於いて補足的であるかといふことがわかつて来る。
──物質と光『宇宙と素粒子』p.413


◆をぐら離的考察◆その1
 文字にも宇宙にも、物質と光が混ざり合う。そして音と線の重なり具合の状態により変化する。物質か光か、あるいは音か線か、そのどちらかにフォーカスするともう一方が見えなくなるゲシュタルト崩壊もある。両者を何とか同時に捉えながら、それらの混ざり具合、重なり具合の“ゆらぎ”をつぶさに記すことを、編集的先達は古今東西様々な方法で試みてきたのだろう。文字に宇宙を感じ、宇宙に文字を想う。ふと思い出すのは、空海の書。

 


二.「おとづれ」を待ちきれない


 私たちはこのような「おとづれ」を待つためにいろんなことをしてきました。けれども男たちは待っていられないので、たいてい自分のほうから出かけていく。これが「遊」という字のもともとの意味です。
──神仏たちの秘密『うたかたの国』p.43


 「人間原理の宇宙論」は、やはり神を人間におきかえたにすぎなかったのだと、今日の段階では言わざるをえない。まだ本来のフラジリティをめぐる考え方は宇宙にも生命にも、くみこまれてはいない。いささか残念なことである。
──物理学と神『宇宙と素粒子』p.210


◆をぐら離的考察◆その2
 宇宙からのおとづれをこちらから迎えに行った方が人間は傲慢にならないかもしれない。あまりにも今いる場所を「地」にしすぎているのかもしれない。神を何におきかえるかは、「地」を変えてみなければわからない。「地」がカワルから、「図」がワカル。宇宙と私の間のto/from編集。

 

 

三.「まにまに」の間に「まにまに」


 もともと「ま」という言葉には「真」という字があてられていた。「真」とい言葉は、真剣とか真理とか真相とか

というふうにつかわれるように、究極的な真なるものをさしていたのです。しかも、この「真」というコンセプトは、なんと「二」を意味していたのです。おまけにその二は、ここがまた重要なところなのですが、一の次の序数としての二ではなく、一と一とが両側から寄ってきてつくりあげる合一としての「二」を象徴していたのです。

(中略)

 それなら、その片方と片方を取り出してみたらとうなるか。その取り出した片方と片方を暫定的に置いておいた状態、それこそが「間」なのです。別々の二つの片方のもののあいだに生まれるなんともいえない隔たり、それが一と一とをふくんだ「間」というものです。
──花鳥風月の科学『うたかたの国』p.109


 なぜ届かないのでしょうか。ここであきらめてはいけません。もし何かの理由があってそこに届かないなら、その「届かなさ」というものを想定してみればよいわけです。それがさきほどのソフトな見方であって、「負」の考え方を持ち出してみるということにあります。わかりますね、この発想法。そこで、そのような「届かなさ」を仮に「ボイド」という性質をもつ状態だということにしてみましょう。届かないのなら、そこにボイドという隙間があるということです。
──宇宙創造とダークマター『宇宙と素粒子』p.286


◆をぐら離的考察◆その3
 隔たりこそが世界と思えば、孤独を感じることは仕方のないことだと思えるでしょう。なぜなら、自己は非自己があるからこそ存在しているのですから。一方で、その隔たりは、わたしと世界を含んでいる間柄であるのだと思えば、孤独を感じなくてもすむかもしれません。免疫的自己とともにボイド的自己と捉えればいい。

 

 

四.百月数首 月の美学と実学の狭間で

 

花鳥風月としての月

月の縁 桜に染まる 春の宵

 

衛星としての月

神様の 爪切りの跡 残されて

 

 

五.寸前と直後、この無常迅速

 

 良寛が、三千大千世界の一点が全点となり、全拠が一隅になるようなめくるめく関係を、それらの旋回曲折のうちに眺めているというのは、むろん雪の日だけのことではなかった。おそらく全生涯全日にわたって、日がな終日、そういう無常旋転を感じていた。

 しかし、その無常迅速、無常旋転を、どこで見るか。外ではない。中でもない。すれすれに無常の活動とともに、見る。そこが良寛だったのである。

──松岡正剛千夜千冊『うたかたの国』p.303

 

 もちろん物理現象にもさまざまな非線形システムが動いている。しかし、その現象の全体が最初から非線形であるということは、ほとんどない。システムが非線形になるのは、ダイナミック・システムの動向の途中からであって、

そこに「相転移」(phase transition)や「創発」(emergence)がおこってからなのである。「不変なもの」と「変わっていくこと」とのあいだにおこっているのは、この「相」を劇的に変える「相転移」や「創発」だった。
──非線形科学『情報生命』p.211

 

◆をぐら離的考察◆その4
 良寛の「無常の活動とともに、見る」という無常迅速を感じる方法こそ、宇宙物理学の根本にもなっている見方ではないか。なんといっても地球は自転しながら太陽の惑星として公転し、その太陽系だって銀河系の中で回転し、その銀河系は高速で互いに遠ざかっているのだ。地球人の私たちは生まれて死ぬまで動向の途中にある。

 

 

六.冷えさびる艶宇宙

 

 この「氷ばかり艶なるはなし」は日本の中世美学の行き着いた究極の言葉である。ここまで簡潔で、かつ最も面倒な深奥の美意識を表現しきれた例はない。あの冷たい水が一番に艶をもつ。心敬の艶は「冷え寂び」の出現の瞬間だった。

──面影日本『うたかたの国』p.281

 

 「呼吸は血液中の鉄原子が錆びることからはじまる」

 鉄が錆び、血液中のヘモグロビンに変化があるということは、宇宙のエントロピーとおおいに関係することなのである。

──エントロピーと秩序『宇宙と素粒子』p.119

 

◆をぐら離的考察◆その5

 校長が取り組もうとしていた「鉄学」というのは、宇宙と日本の方法をつなげるものであったのかと合点がいく。宇宙がビッグバン以降、急速に冷え寂びているように、人間は日々錆び続けているのだ。個体発生は系統発生を繰り返すという仮説も一緒に想起された。

 

 

七.「虚」から出て「虚」へ

 

 歌というものは「虚」から出ている言葉のつながりであり、そこにはなんらの実態がないものです。歌とは有為転変ということです。「実」は求めない。その有為転変にうたかたの表現を託していく。

──花鳥風月の科学『うたかたの国』p.223


 譬え話は、ふつう考えられている以上にたいへんに重要だ。なぜなら、ひとつには、その譬え話がその現象をわかりやすくさせるとともに、別の現象に新たな“比喩的先行性”を与えるからであり、もうひとつには、実はメタファーをはこぶ思考そのものの柔らかい構造が、新たな科学のための“アルス・コンビナトリア”(組み合わせ編集術)になっているからだった。
 譬え話が次の譬えを生むというのは、湯川さんの「時空の素領域」といった仮説を例にすればいいだろう。
 素領域というのは、そこに観測者が入っていけばそのシステムがひどく擾乱されるか、あるいはなくなってしまうような究極の領域のことだから、そこは不確定性原理がはたらいているとともに、その全体を理論にしようとすると発散してしまうところなのである。だから素領域は、指し示すことだけが可能な仮想物理時空なのである。こういうことが譬え話だけで見えてくる。
──宇宙の不思議『宇宙と素粒子』p.82

 

◆をぐら離的考察◆その6

 「虚」から「虚」への動向がアルス・コンビナトリアであり、モドキにこそ別様の可能性が込められているということである。ウソから出たマコトが宇宙物理学にも歌の世界にも起こりうる。

 

 

八.突ッ込み過ぎては科学馬鹿

 

 微細な眼の持ち主だった。しかし、その眼は、微細であるからこそそのまま自然認識の最下層に降りすぎてしまうことをおそれて途中でふみとどまり、一転、事象の観相学的統合へと光をむけるのである。それは三味線の一の糸が震えているあたりである。突ッ込み過ぎては科学馬鹿である。サワリはこわれてしまう。おそらくこのことを熟知していたのだ。

──法然の編集力『うたかたの国』p.360


 言語はそれ自体がきわめて不備なものでもある。言語の出来ぐあいに過度な期待をしてはいけない。科学の不備をそういう不出来な言語で補うにはそもそも限界がある。逆に、言語にはその成り立ちと機能性において、科学とは異なる有効なところもある。それは、「言語は言語で埋め尽くせないようになっている」ということだ。言語の本質には断片と全体に整合性をもたないという不思議が隠れているということなのだ。
──全体性と内蔵秩序『宇宙と素粒子』p.426

 

◆をぐら離的考察◆その7
 言語は言語で埋め尽くせないようになっている、というフレーズの「言語」を、「星」や「細胞」といった言葉に置き換えても良い。

 


九.近代のカラダ

 

 いまのわれわれのカラダは、声を封印してスタートを切ってしまった近代のカラダであり近代の知じゃないですか。だからその奥にある声の響きを取りだせたときには、近代を一気に越えられる可能性があるんじゃないか。だって、その声はどの時代からやってきたものかなんて誰にもわからないですから。
──意身伝心『うたかたの国』p.411

 

 必要な「借り」だと思って導入すれば、その「借り先」を考える気にもなってくる。ここが重要だ。概念の「借り」は「借り先」の相手や場を想起させるのだ。そしてそこに「あてがい」や「誂え」をおこしていくことにもなる。この作業仮説こそが、それまでの科学理論や既存の観念像にまったく新たなフィジカルイメージを躍如させるのだ。それは、誰も見たことがない洋服や大工道具や工業部品のようなものでもある。ぼくはこのような見方を援用して編集工学の基本を考えてきた。また、これを十年ほど前から「見方のサイエンス」と名付けてきた。そこには、ときに強烈な「ないものねだり」が必要になる。そこにはまた「欠如の実在」がリアリティ・ダンスを踊るときもある。今夜はその話をしてみたい。
──ヒッグス粒子の謎『宇宙と素粒子』p.430

 

◆をぐら離的考察◆その8
 強烈な「ないものねだり」に対する唯一の処方箋は、想像力なのだろう。


  • 小倉加奈子

    編集的先達:ナシーム・ニコラス・タレブ。病理医で、妻で、二児の母で、同居する親からみると娘、そして師範であり火元組。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。『おしゃべりな図鑑』シリーズの執筆から経産省STEAMライブラリー教材「おしゃべり病理医のMEdit Labo」開発へ。おしゃべり病理医の編集的冒険に注目!

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