をぐら離 文巻第9週 ─「合わせ読み千夜千冊」

2021/03/02(火)08:57
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 世界読書奥義伝 第14季[離]は、いよいよ全面改訂された第9週へ。まるごと千夜千冊エディションです。

 今回の「をぐら離」は、20冊のエディションからそれぞれ独断と偏見で、キーブックを選び、その中からセンテンスを抜き出し、[守]の稽古の“バナナと魯山人”のごとく、それらをつなぎあわせて創文してみました。文体もジャンルも異なるセンテンスを再接続し、20冊を高速で逍遥することで、校長の世界読書の骨子を掴むという試みです。

 完成したエディション創文から、20冊を通した校長のメッセージが見えてきました。それは、「この地球にいまだ潤沢に残っているはずの”想像力というリソース”を表象していく世界読書の方法」でした。センテンスはほとんど抜き出したままの状態でしたが、順番を入れ替えてつなげていき、小見出しをつけていくと、しだいに文脈が表れていくことが面白かった。校長になったつもりになれる編集稽古です。みなさんは、それぞれのエディションのどの千夜をキーブックとして選び、そこからどのセンテンスを抜き出すでしょうか。20冊のエディション全体から何を読み取るでしょうか。

 「をぐら離」では、析匠、小倉加奈子の日常を通した離の姿をお届けしていきます。門外不出の文巻テキストをもとに進められていく離の稽古の様子を少しでも想像いただければと思います。

 

Ⅰ.世界と自己のアイダ

 

 誰だって自分を知りたい。自分の「心」を覗きたい。しかし、自己への接近が他者とのあいだの無意識によって介在されているとなると、たんなる思考が自己に近づくなどということは、とうていムリだということになる。むしろ「他者の欲望」に接近することこそが自己に接近する近道だ。ー”心”

 

 雷鳴の一夜、ヴァレリーは「世界と自分のあいだに落ちているものがある」「それは方法だ」と見抜いた。そのうえで精神と言葉のあいだに蠢くものを描写した。イメージとマネージの隙間を走る道筋を辿ろうとした。その「蠢くもの」「隙間を走る道筋」が、方法だった。ー”件”

 

Ⅱ.構成編集という方法のはじまり

 

 もともと意味を分節化できるということは、アタマに意味が入ったり出たりするその作用に応じて、文章を書き、言葉を活用するということである。少なくとも中世では、意味と言葉と分節化と書物化とは一緒のことだった。ー”本”

 

 そうだとしたら、世界を〝書く〟こととその世界を〝読む〟ことのあいだには、それなりのエクリチュールの幅広い連環領域があるはずで、それをメタフォリカルな時空が埋めているのである。そうであるのなら、世界を〝読む〟ことは世界を新たに〝書く〟ことでもあったわけである。ー”相”

 

Ⅲ.イメージをマネージする

 

 いったい「肖る」とはどういうことなのか。それを画像や文章に定着したくなるとはどういうことなのか。
 知る人ぞ知るように、ぼくはオリジナリティという言葉を信用していない。ジャン・コクトー同様に、「ぼくはオリジナリティを誇ることが嫌い」なのだ。このことは「似ている」とか「似る」ということから、すなわち、われわれがわれわれ自身から逃れようとすることの愚の骨頂を暗示している。むろん何かに似さえすればいいということではない。そうではなくて、内なるレミニッセンスがはたらくところにこそ、イメージ人類学的なマザーが発効するのではないかということなのだ。ー”告”

 

 デザインは、デザインマザーにひそむタイプやコードをもとに、そこからスタイルやモードを誕生させていった。コードをモードに変えていった。「しるし」の束を「脱・しるし」の様式にしていった。そんなことはデザインと文様の歴史を見れば如実にあきらかだ。問題は、この母型が何をもたらしてきたかということである。そこを読み違えていくと、いつしかデザインは消費者の欲情すら刺激できないものになっていく。ー”図”

 

Ⅳ.固着するグローバル社会とコトバ

 

 世間から差別語が退治されるようになってから、世の中に「かわいい」が氾濫した。そういう符牒もある。その結果かどうかは知らないが、日本はそれをきっかけに物差しの目盛が粗い、棒読みの世の中になっていったのである。ー”萌”

 

 敗戦とともに何もかもが吹っ飛んだ。大アジア主義は忌み嫌われ、枠組としてのアジア主義も根拠を奪われた。それなら吹っ飛んだままでいいのか。かつてのアジアの自画像はすべて反故になったのかといえば、そんな軽々しく歴史観を放棄することはできない。また、その再生はまったく不可能なのか。もはやそれを描くことは許されないことなのか、それとも今日の歴史学にはそれを描く根拠が失われたのかといえば、仮にそうだったとしても、ハイ、その通りですと何もかもを棚上げしていいなどとは言えない。ー”亜”

 

 ブローデルの言う「資本主義はつねに資本主義自体よりも大きく、その固有の運動の上に資本主義を支え、資本主義を高く持ち上げている全体のなかに位置する」ような資本主義が、ここにもはや後ずさりすることなく定着していったのだ。ー”奥”

 

Ⅴ.再編集のカマエ

 

 目標をたてて行動計画を実行するのではない。「思い」をもつこと、その「思い」にひそむ言葉を紡ぎ、それを採り出していく。そこに「その思考を実現できる」ものが見えてくる。ルロワ=グーランはそのことを証すための研究にとりくんだ。ー”辞”


 モンテーニュはこのことをよく見抜いていて、どんなものにも自分を質に入れることを戒めた。そして、そこからずれる自分のほうを見つめることを勧めた。その「ずれ」をそのまま綴ることが、また、エセー(エッセイ)という新しい思索記述の方法を思いつかせたわけなのである。だからこそ、市長をつとめたモンテーニュは自分のことを、こう定義してはばかることがなかったのである。「自分は義務・勤勉・堅忍不抜の公然たる敵である」。ー”哲”

 

 幼児が子供となり、子供が少年や少女になるにしたがって、苦痛や苦悩から解放されることが社会の通念だということを教えられ、そのうち欲望による支配が意志の行方になっていく。そうだとすれば、世界は当初においてその意志を、原初の苦しみは何かということを表象しているのではないか。そうだとすれば、世界は当初において「共苦」なのではなかったか、というふうに。ー”知”

 

 はっきりした利他性というものではない。「思いやり」ともかぎらない。ふと、やむにやまれぬものが発動しているのだ。それが共感であり、コミットメントなのである。これは、センの乾坤一擲だった。ー”弗”

 

Ⅵ.意味の編集

 

 ──触れるなかれ、なお近寄れ。
 これが日本である。これが稜威の本来の意味である。限りなく近くに寄って、そこに限りの余勢を残していくこと、これが和歌から技芸文化におよび、造仏から作庭におよぶ日本の技芸というものなのだ。ー”面”

 

 「空」を感じるにはその「空」をめぐる言葉を捨てながら進むしかなく、そのときなお、仮の言葉の意味を捨てながらも辛うじて残響しあう互いの「縁起」だけに注目すれば、本来の「空」を感じる境地になるだろうと説いたのだ。”仏”

 

 一方、世阿弥は「型」と「稽古」を重んじた。二曲三体を指定して、我見と離見を組み合わせた。「時分の花」と「離見の見」によって芸能のあれこれを深々と指南した。そこに無文と有文とが区別され、一調・二機・三声が生じ、驚くべき「却来」という方法が萌芽した。ー”芸”

 

 今日ならば、「複数の私」や「複合的な私」を、多様性と複雑性をもつ情報的自己像というふうにとらえることができるであろう。ぼくならばまさに複合的で編集的な自己像として「たくさんの私」を持ち出したい。シュレーディンガーは、そのことを量子力学とインド哲学という両極をめぐる思索から導き出した。まことにもって驚くべき推察だった。ー”現”

 

Ⅶ.別様の可能性へ

 

 未知の世界とか未知の情報というものは、それを既知にするためにあるものではなかったのだ。それは観測するためにあるのではなく、そのような未知の情報によって宇宙がつくられているのかどうかを、われわれはどのように納得するか。そのことをもっと大事な問題にするとよいということだったのだ。ブラックホールの例でいえば、そこを「未知の情報があるということを本質としている実在」とみなせるかどうかが重要な見方なのであって、その未知の情報が辿れないからといって、そういうものは実在していないなどとは批評すべきではなかったのだ。ー”光”

 

 そんなことを考えながら、寅彦はしだいに個体のフラクチュエーション(ゆらぎ)の問題に翼をのばし、物理学がいまだに「一つの石によって落さるべき二つの鳥」を相手にしていないことに思い至る。さらに生命の有機的多様に対して物理学がまったく無力であることを慨嘆する。

 そうしてふと窓外に目をやると、そこには顔も服装もちがうたくさんの人々が往来している。寅彦はこの人々の内側に、いったいどのような分子的統計異同がおこったかと想う。そして物質も人間も、個性とはすべからくアナロジーに関係していることに思いを深めていく。ー”科”

 

 「ほんと」と「つもり」はトレード・オフの関係にはあてはまらないものなのだ。それよりも、すべてが「つもり」で出来ているのだと見たほうがうんといい。世界はたいてい「多様の可能性」のほうに向かって開いているのである。このことは、幼い少年と少女以外の誰もがわかっちゃいないことなのである。そう、かれらにとっては「つもり」こそが「ほんと」なのだから。ー”幼”

 

 

 

Vol.1『本から本へ』 ──1314夜『記憶術と書物』
Vol.2『デザイン知』 ──1520夜『デザインの小さな哲学』
Vol.3『文明の奥と底』──1363夜『物質文明・経済・資本主義』
Vol.4『情報生命』  ──1043夜『生命とは何か』
Vol.5『少年の憂鬱』 ──1503夜『ピーター・パンとウェンディ』
Vol.6『面影日本』  ──483夜『いのちとかたち』
Vol.7『理科の教室』 ──660夜『俳句と宇宙物理』
vol.8『感ビジネス』 ──1344夜『合理的な愚か者』
Vol.9『芸と道』   ──1508夜『世阿弥の稽古哲学』
Vol.10『ことば漬』  ──381夜『身ぶりと言葉』
Vol.11『神と理性』西の世界観Ⅰ ──866夜『エセ―』
Vol.12『観念と革命』西の世界観Ⅱ ──1164夜『意志と表象としての世界』
Vol.13『編集力』   ──1519夜『世界の読解可能性』
Vol.14『心とトラウマ』──911夜『テレヴィジオン』
Vol.15『大アジア』  ──1727夜『思想課題としてのアジア』
Vol.16『宇宙と素粒子』──760夜『もう一つの宇宙』
Vol.17『物語の函』世界名作選Ⅰ  ──1189夜『デカメロン』
Vol.18『方法文学』世界名作選Ⅱ  ──12夜『テスト氏』
Vol.19『サブカルズ』 ──1172夜『イメージ・ファクトリー』
Vol.20『仏教の源流』 ──846夜『空の思想史』


  • 小倉加奈子

    編集的先達:ナシーム・ニコラス・タレブ。病理医で、妻で、二児の母で、同居する親からみると娘、そして師範であり火元組。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。『おしゃべりな図鑑』シリーズの執筆から経産省STEAMライブラリー教材「おしゃべり病理医のMEdit Labo」開発へ。おしゃべり病理医の編集的冒険に注目!