【ISIS BOOK REVIEW】芥川賞『おいしいごはんが食べられますように』〜大学生の場合

2022/10/11(火)08:00
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評者: 
大学四年生(2022年秋、38期[ISIS花伝所] 受講予定)

 

 社会人として働く前の猶予期間。学生がモラトリアムと言われる所以である。僕も大学生として、終わりが近い引き伸ばし期間を惜しみながら、まだ知らない社会への期待を持っている。『おいしいごはんが食べられますように』では職場を中心にしてさまざまな問題が生じる。僕にとっては未知の世界の出来事だ。それにも関わらず、最初に読んだ時、なんだか腑に落ちるような妙な感覚を覚えた。なぜなのか。学生をしていて感じる違和感と本書に出てくる職場での不和をつなぐものの正体を探っていきたい。

 

「強い/弱い、正しい/正しくない」

 

 学祭の前日に捻挫して急遽発表の舞台に出られなくなったら、得意な裁縫を活かしてみんなにお守りを作ってくる。リーダーは参加できなかった芦川の分までなんとしても成功させようと鼓舞する。当日は日陰のテントから健気に声援を送っていて、実行委員の教授も「芦川さんは体が弱いので困っていたら助けてあげましょう」と言う。僕が思うに、芦川という女性はこういう学生生活を送ってきたのではないだろうか。

 

 我慢して頑張ってみようよ、とは誰も言わない。そんなことを言ったら、芦川は健気な笑顔で「わかった、やってみる」と返事をして、より大きな怪我をしでかす。傷ついたとしても芦川は、「あんたのせいだ」とは言わないし思ってもいない。ただ自分が悪かったと悲しそうな表情を浮かべる。だから、もうちょっと無理をしてみようよ、と提案することは悪者になるということであり、もう大丈夫、守ってあげる、と手を差し伸べることが正義なのである。

 

 芦川が出場できなくなった舞台を、お前ならできるという理由で押尾は任される。芦川ができなかったことは大抵自分に回ってきて、自分も解決へと努力してしまう。もちろん本当はやりたくない。でも断ったら、弱さがそのまま正義感とつながっている世界では悪者になってしまう。だから我慢してやるしかない。押尾だって別に元々なんでもできるわけではない。事前に準備をして、当日に無理をすることでなんとか上手くやってきた。結局、打ち上げの席では、逃げた芦川も逃げなかった押尾と同じように感謝される。かわいくてかわいそうという立場の芦川には羨望まじりの嫌悪を、しょうがないと認めている社会に対しては不快と憎悪を抱いている。

 

 押尾は二谷に好意を持っているが、芦川と二谷がいい関係性にあることも知っている。

 

 二谷は卒業文集の座右の銘には「触れぬ神に祟りなし」と書いていそうな男だ。いつも合理的に正しそうなことを選択し、面倒なことには首を突っ込まない。しかし、正しそうなことに対する真偽は保留している。弱さは保護しなさいという正解通り芦川に手を差し伸べはするものの、弱さと正義が固く結びついていることにやるせなさを感じている。押尾の「芦川さんにいじわるをしませんか」という誘いに乗ったのも、その苛立ちからであった。

 

 無駄な労力を極力省きたい二谷にとってわずらわしいものの代表格が、贅沢な食事をすることである。おいしい食事、健康的な食材、団欒の食卓は生きるための最低限の食事からすれば、到底いらないものなのである。二谷はただカップ麺のみを胃に入れる。手間ひまがかかっていない料理だけが彼を癒すことができる。二谷の合理性は正しさと気味悪く絡み合っているのであった。

 

 

「傷に対する態度」


 僕が小学生の頃に、徒競走に順位をつけるのをやめようという案が出た。中学校では、いじめが問題になって誰かをいじることはやめましょうということになった。高校では、無意識であっても誰かを傷つけてはいけないから、誰にも痛みが生じないディスカッションをしましょうと教えられた。大学では教授が、現代は色々な問題があるからしょうがないですねといって、角を立てないように当たり障りのないことを言っていた。学習の場から傷がつきそうな場所や傷が発生しそうな環境は、過剰なまでに排除されたのだ。「傷」は決してあってはいけないのである。

 

 この傾向は、おそらく社会に出たって変わらないのであろう。むしろ「傷」に対する監視がより厳しくなるのかもしれない。ハラスメントにビクビクし、ポリティカルコレクトに気をつけながら、コンプライアンスを遵守する。大衆や時代がつくりあげた正しそうな価値観が絶対的な力を持っていて、意見しようとすれば正論をよってたかって振りかざされて大炎上する。やがてすべてが「だってそういう時代じゃん」と言う二谷のような人間がうまれていくだろう。

 

 現代は弱い立場にある人をがんばって理解し最大限の配慮をしようとする時代である。障害や性別や国籍による差別がないようにさまざまな対策がとられていて、もちろん思いやることは必要だし大切に違いない。

 

 しかし、傷に対する価値観と傷に触れないようにするための対策が、普遍的で画一的になりすぎてはいないだろうか。均質になりすぎると、例外性や異質性や希少性が摘み取られ、凹凸のないツルツルな社会になってしまう。すべての組織が足並みをそろえることになって、「うちは独自のルールでやってますんで」などといえば、「けしからん、これがスタンダードなんだ」と一蹴されるだろう。決められたモデルが世界をまるごと覆うようになって、新たなゲームを作り出すことも禁じられる。

 

 かつて街や学校には全体のルールや校則からは逸脱した「悪所」のようなものがあった。コンビニ前やゲームセンター、学校裏や屋上などに暴走族や不良少年たちは溜まり場をつくり、社会の秩序や権力から外れて、仲間同士だけの価値観を交わし合った。世間から「負」を受けたものたちの避難所であるアジールとして機能していたのだ。しかし安心と安全のための監視カメラが覆った世界では、町の「傷」とみなされ、排除、封印の対象となったのである。

 

 世界は決して平均的には成り立たない。強いところ、弱いところ、多すぎるところ、少なすぎるところなどさまざまに出入りしている。そうやって葛藤や矛盾が輻輳しているところを単純な善悪の二項対立でクリーンにしてしまっては、つまらない。多様性社会とはばらつきやでこぼこを尊重するためのものであって、傷になりそうなものを触れないように遠ざけたり、弱さを基準値にのみこませ普遍化するということではないはずだ。フラットになっている傷の価値観を多様にしていくために、アジールを発見し、発育し、発展させていくことが、おいしいご飯が食べられるようになるために必要なのではないだろうか。

 


おいしいごはんが食べられますように

著者: 高瀬 隼子

出版社: 講談社

ISBN: 9784065274095

発売日: 2022/3/24 

単行本: 162ページ

サイズ: 13.5 x 1.6 x 19.5 cm

 


  • 山内貴暉

    編集的先達:佐藤信夫。2000年生まれ、立教大学在学中のヤドカリ軍団の末っ子。破では『フラジャイル』を知文し、物語ではアリストテレス大賞を受賞。校長・松岡正剛に憧れるあまり、最近は慣れない喫煙を始めた。感門団、輪読小僧でも活躍中。次代のイシスを背負って立つべく、編集道をまっしぐらに歩み続ける。

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