【ISIS BOOK REVIEW】芥川賞『この世の喜びよ』書評 ~ジャズシンガーの場合

2023/02/15(水)08:30
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評者: 中原洋子
ジャズシンガー、イシス編集学校 [多読ジム]冊師

 

ジャズシンガーの仕事場は、飲食が伴う場であることがほとんどだ。仕事を終えて、いつもの役割を脱いだ人たちが夜を楽しむためにやってくる。そんなお客さんを歌でもてなし、非日常の世界を設えることが歌手の役目だ。スキャットやフェイク唱法など、ジャズシンガーにモード編集は欠かせない。著者のモードに注目しつつ、この本を書評してみたい。

 

 物語の舞台は、ショッピングセンターだ。主人公は喪服売り場に勤める、子育てを終えた中年女性である。劇的なことが起こるわけではない。ショッピングセンターという、小さな世界の中のありふれた日常と主人公の気持ちが淡々と、しかし丁寧に綴られている。 
 主人公には娘が二人いる。上は教員で、下は大学生だ。二人とももう自立した大人だとわかっていながら、ついつい余計なことを言って娘を怒らせている。「母親業」以外の自分がどんな自分だったかなんて、もうすっかり忘れてしまって思い出せない。

 

あなた*

 物語の中で主人公は「あなた」と二人称で語られる。「あなた」の発する言葉は「 」もなく地の文に組み込まれ、二人称なのに三人称的な視点の語りで物語が展開されていく。なんとも不思議な感覚だ。
 読み手は、境遇や年代が違っても「あなた」と語りかけられると、自分が主人公の物語のような気がして、誰かに「見守られて」いるような気持ちにも、自分が身近な誰かを「見守って」いるような気持ちにもさせられる。
 この二重性は『この世の喜びよ』という作品の特徴であり、最大の魅力である。育児はしんどい、と感じている子育て中の女性にとっては「自分も誰かに見守ってもらえている」ような読書体験となり、おおいに共感を呼びそうだ。

 センテンスを短く区切りながら、最低限の改行で、文章が連なる。句読点は論理的に打つのではなく、書き手の息づかいや呼吸を大事にしながら打っているので、なんだか詩を読んでいるようだ、と思ったら、作者は詩人でもあった。2019年に『する、されるユートピア』で中原中也賞を受けている。なるほど、納得。詩の表現が日常のささやかな営みを新鮮に見せている。詩人ならではの手法であり、真骨頂だ。

 

少女*

 ショッピングセンターにはフードコートがある。あなたはそこでひとりの少女と出会い、言葉を交わすようになった。少女の母は三人目を妊娠中で、少女は年の離れた一歳の弟の世話をしているらしい。少女の悩みや愚痴に付き合ううちに、あなたは次第に自分の娘時代や子育てのことを思い出していく。一歳、一歳はそうね、よく泣くんだっけ。公園行って遊ばせてるときとか、どうしてたんだっけ。おぼろげだった記憶に少しずつ輪郭が出来てくる。

 

仲違い*

 ある日、些細なことで言い争いが起こる。ピーリングのし過ぎで皮膚科に通う少女に、あなたはつい母親めいたことを口にしたのだ。少女は自分のしたことを否定されて気分を害し、あなたの娘は甘えすぎだと言い放ち、あなたは、甘えてもいいじゃないの、と言い返した。

 大事にしているものほど、程よい加減がわからない。上手に伝えられなかった言葉の数々、よかれと思ってしたことの無残な結果、読み手もまた、自らを振り返る。かつての残念や無念がよみがえり、あなたと少女、読み手の過去は混然一体となっていく。
 小さな勇み足、躊躇、後ずさり、負い目がどんどん降り積もり、私たちはいつしか言葉を差し引くようになっていったのではなかったか、籠もるばかりの贖罪感になってきたのではなかったか。過去と今のアイダに橋が架かる。

 

再会*

 少女があなたを避けるようになって、しばらく過ぎた頃、突然少女が家族と一緒に喪服売り場に現れた。あなたは、泳ぐように進み出て声をかける。お子さん可愛いですね、二人ともまだ小さなお子さんですね、と母親に向かって、あなたは少女を片手で示す。母親は不思議そうな顔で、どうも、と答えた。売り場を離れる一家を、礼とともに見送りながら、あなたは少女への思いを言葉に託す。またお越しください。

 

 次の日、少女がフードコートに現れる。あなたに気づき通路に近い席に座り、こちらを見つめている。あなたは遠慮がちに近づく。伝えることのある喜び。思い出すことは世界に出会い直すことなのだ。読み手もまた新たな再生を誓っていく。

 

 歌もまた聴く人に思い出を運んでくる。グラスを片手にしみじみと耳を傾ける人、思い出話に花が咲く人、いずれにしても、その場には今と昔がデュアルで存在することになる。彼方と此方のアイダに橋が架かるのだ。
 ラストソングが終わると、店内に「蛍の光」が流れ、人々は名残惜し気に日常へと帰っていく。歌手もまた、礼とともに人々を見送るのである。またお越しください、世界と出会い直すために。

 

読み解く際に使用した編集の型:
モード文体術 注意のカーソル アナロジー 要素・機能・属性 メタファ―

型の特徴: 

 モードとは「様子」「らしさ」のことである。 編集にとって真似ること、ミメーシスはとても大事だ。モードを真似るためには、情報の個々の要素的特徴にこだわるのではなく、その組み合わせによって全体的な「らしさ」をつかむ必要がある。文章の場合、たとえば段落のつけ方や空き行の入れ方、ひとつのセンテンスの長さ、句読点の打ち方、メタファーなどのレトリック、接続詞の使い方、文末のリズムなどだ。

 ある作家のモードを借りるということは、その作家の視点や思考法を借りることである、書く内容もその文体に合わせて整理したり、演出したりする必要が出てきて、思考やイメージの枠組みを変化させたり、動かしていったりすることになる。メッセージとメディアをつなぐ新たなメソッドを手に入れることができるといえよう。


この世の喜びよ
著者: 井戸川射子
出版社: 講談社
ISBN-10 : 4065296838
ISBN-13 : 978-4065296837
発売日: 2022/11/10
単行本: 144ページ
サイズ: 13.7 x 1.5 x 19.5 cm

  • 中原洋子

    編集的先達:ルイ・アームストロング。リアルでの編集ワークショップや企業研修もその美声で軽やかにこなす軽井沢在住のジャズシンガー。渋谷のビストロで週一で占星術師をやっていたという経歴をもつ。次なる野望は『声に出して歌いたい日本文学』のジャズ歌い。

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-22

 小学校に入ってすぐにレゴを買ってもらい、ハマった。手持ちのブロックを色や形ごとに袋分けすることから始まり、形をイメージしながら袋に手を入れ、ガラガラかき回しながらパーツを選んで組み立てる。完成したら夕方4時からNHKで放送される世界各国の風景映像の前にかざし、クルクル方向を変えて眺めてから壊す。バラバラになった部品をまた分ける。この繰り返しが楽しくてたまらなかった。
 ブロックはグリッドが決まっているので繊細な表現をするのは難しい。だからイメージしたモノをまず略図化する必要がある。近くから遠くから眺めてみて、作りたい形のアウトラインを決める。これが上手くいかないと、「らしさ」は浮かび上がってこない。

堀江純一

2025-06-20

石川淳といえば、同姓同名のマンガ家に、いしかわじゅん、という人がいますが、彼にはちょっとした笑い話があります。
ある時、いしかわ氏の口座に心当たりのない振り込みがあった。しばらくして出版社から連絡が…。
「文学者の石川淳先生の原稿料を、間違えて、いしかわ先生のところに振り込んでしまいました!!」
振り込み返してくれと言われてその通りにしたそうですが、「間違えた先がオレだったからよかったけど、反対だったらどうしてたんだろうね」と笑い話にされてました。(マンガ家いしかわじゅんについては「マンガのスコア」吾妻ひでお回、安彦良和回などをご参照のこと)

ところで石川淳と聞くと、本格的な大文豪といった感じで、なんとなく近寄りがたい気がしませんか。しかし意外に洒脱な文体はリーダビリティが高く、物語の運びもエンタメ心にあふれています。「山桜」は幕切れも鮮やかな幻想譚。「鷹」は愛煙家必読のマジックリアリズム。「前身」は石川淳に意外なギャグセンスがあることを知らしめる抱腹絶倒の爆笑譚。是非ご一読を。

川邊透

2025-06-17

私たちを取り巻く世界、私たちが感じる世界を相対化し、ふんわふわな気持ちにさせてくれるエピソード、楽しく拝聴しました。

虫に因むお話がたくさん出てきましたね。
イモムシが蛹~蝶に変態する瀬戸際の心象とはどういうものなのか、確かに、気になってしようがありません。
チョウや蚊のように、指先で味を感じられるようになったとしたら、私たちのグルメ生活はいったいどんな衣替えをするのでしょう。

虫たちの「カラダセンサー」のあれこれが少しでも気になった方には、ロンドン大学教授(感覚・行動生態学)ラース・チットカ著『ハチは心をもっている』がオススメです。
(カモノハシが圧力場、電場のようなものを感じているというお話がありましたが、)身近なハチたちが、あのコンパクトな体の中に隠し持っている、電場、地場、偏光等々を感じ取るしくみについて、科学的検証の苦労話などにもニンマリしつつ、遠く深く知ることができます。
で、タイトルが示すように、読み進むうちに、ハチにまつわるトンデモ話は感覚ワールド界隈に留まらず、私たちの「心」を相対化し、「意識」を優しく包み込んで無重力宇宙に置き去りにしてしまいます。
ぜひ、めくるめく昆虫沼の一端を覗き見してみてください。

おかわり旬感本
(6)『ハチは心をもっている』ラース・チットカ(著)今西康子(訳)みすず書房 2025