この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

「話す」「聞く」「食べる」。
私たちに綿々と受け継がれ、なんとはなしに行われてきた行為たち。
あらためて注意のカーソルを向ければ、どんな景色が見えてくる?
言語聴覚士の端くれである筆者が、もっとも身近な自然である「私」を寄り道たっぷりに散歩します。
夕食後、切り分けたメロンにも手を付けず一心に見つめていた。
メロンと同じ緑いろの柔らかい肉は、ゆっくりと固い殻へ変質をはじめていた。
先日、従姉から青虫の動画が送られてきた。この春、庭先にいたものを子供たちと育てていたという。画面のなか、青虫は飼育箱の蓋裏にとどまっていた。よく見れば、天井から細い糸で釣り下がり、もぞもぞとうごめく体が脱皮を始めている。
聞けば、これは前蛹というらしい。文字通り蛹(さなぎ)の手前の姿であり、ここから皮を脱ぎ捨て私たちの知る蛹へと着替えるのだ。
衣替えの彼は身をよじり、くねらせ、仕事を進める。しばらくかかって、皮は丸まったストッキングのようになって体から剥がれ落ちた。子らの歓声があがる。彼は一人、しずやかな世界に包まれていた。
もぞもぞとした虫のような蠕(うごめ)き。それは飼育箱を眺める私たちの内にも営まれていた。本日は、これまで見てきた〈噛む〉や〈飲み込む〉の先へと「虫の目」を這わせてみよう。
飲み込んだ食事はどこへ運ばれるか。答えは、もちろん胃だ。そして胃に至る通り道が、食道である。
取り込んだ食物は上から下へと落ちていく。では、逆立ちをすれば食べ物は戻ってくるか。幼少の筆者は、考える。逆立ちに食事はできない。なぜなら地球の重力がそれを許さないからだ。確信を胸に、果たして親の留守中、兄との検証会は開かれた。
結果、無垢な期待は破られる。即ち、逆さまに飲み込んだプリンもチョコレートも、一切は重力に構わず胃袋を目指していったのだ。
実は、私たちは寝転んでも、逆さまになっても食事ができる。
その理由は、食物が重力だけでなく食道の筋肉の運動によっても胃へ運ばれているからだ。この食道の送り込む動きを「蠕動(ゼンドウ)」と呼ぶ。
蠕動とは、筋肉の収縮波が徐々に進んでいく動きを指す。小難しい説明だが、ちょうど歯磨きチューブや生クリームを上から下へ絞り出す様子をイメージすると、わかりよいだろう。蠕動運動は、食道以降の胃や腸といった消化器官でも行われる。
『嚥下障害ポケットマニュアル第4版』より抜粋
上の図を見てほしい。細かいことはさておき、図の右上辺りを見ると〈食道通過〉が嚥下の括りに含まれていることが分かる。
実際の嚥下評価でも、やはり食道(特に上部)への目配りは必要となる。外から見えず、無意識下に動くこの厄介な器官は、嚥下造影(X線透視下で動きを見る)検査で直接的に、あるいは「胸のつかえがあるか」や「酸っぱい液が喉に戻ってくるか」といった質問で間接的に観察が行われる。そうして、逆流や通過障害の有無を確認するのだ。
喉元過ぎればなんとやら。けれど、嚥下に限ってはその先まで油断ならない。喉奥を貫く肉色の虫の蠕きを注意深く見つめなくてはならない。
ここで、「蠕動」を改めて辞書で引いておこう。
【蠕動】
①虫の動くこと。うごめくこと。かすかに動くこと。
②筋肉の収縮波が徐々に移行する型の運動。
ミミズなどの移動、また高等動物が腸の内容物を
送るのもこの運動による。蠕動運動。
『広辞苑 第七版』
【蠕】の漢字も、まさに虫がうごく様からきている。
改めて索引で部首が虫の漢字を眺めると、虫の動きを表すものは多い。蠕(蠢)く、蝕む、蟠る。言外に含みをもつ不穏な述語も見えてくる。さらに、と慣用句の虫たちにも手を伸ばす。虫が好かない、虫唾が走る、虫の知らせ…。
小さな彼らが、心の奥底やものの本質を嗅ぎつける。目には見えなかった、意識しなかった、いまだ知り得ないものたちを炙り出す。それはまるで、X線にも似た精細で危ういフィルターのようだ。
動画を見終え、ようやくテーブルのメロンに手を伸ばす。
濡れた果肉が喉を通る。この肉も、やがて胃の果てでどろどろと溶けるのだ。
そういえば静かな蛹のなか、青虫も溶けていく。体の大半の細胞死を経て、見違える姿へ組み替わり、ふたたび世界に現れる。その大胆な過程にかかわらず、空を舞う蝶は、葉肌を這う青虫であった頃の記憶を残しているという。
青虫の行方に、食道から続く一本の管の蠕きを、それから溶けゆく食事たちを思った。この《もぞもぞ》も《どろどろ》も、「私」の一部であった。食べるごと、私は私を孕み、私を孵す。自身でも気づかぬほど微かに、しかし確かに、私は日々存在を更新させる。そして、どれだけ生きようと、私は私の面影を連れていく。その景色は、きっと羽化する蝶にも等しい。
ぼんやりと耽るからだの内、まもなくメロンだったものが腹の底へと辿り着く。
冒頭写真:従姉のKちゃん提供。左上より時計回りに、
①前蛹②脱皮開始。青虫柄の皮が脱げていく。③脱皮終盤。腹部の先に丸まった皮が見える。④蛹の完成
※逆立ちでの食事は大変危険です。くれぐれも検証はやめておきましょう。
竹岩直子
編集的先達:中島敦。品がある。端正である。目がいい。耳がいい。構えも運びも筋もよい。絵本作家に憧れた少女は、ことばへの鋭敏な感性を活かし言語聴覚士となった。磨くほどに光る編集文章術の才能が眩しい。高校時代の恩師はイシスの至宝・川野。
コメント
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2025-06-10
この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。
2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。