vol02.咀嚼【言語聴覚士ことばのさんぽ帖】

2022/05/30(月)08:15
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(記事写真:深谷もと佳花目付より頂戴し、竹岩が編集。)

 


 「話す」「聞く」「食べる」。

 私たちに綿々と受け継がれ、なんとはなしに行われてきた行為たち。

 あらためて注意のカーソルを向ければ、どんな景色が見えてくる?

 言語聴覚士の端くれである筆者が、もっとも身近な自然である「私」を寄り道たっぷりに散歩していきます。


 

 雨降りの道、一人の少女が斑点模様の壁を見つめている。それは、カタツムリが何十も張り付いたコンクリート塀。少女は木の枝で、一つ一つの模様を丁寧に剝がし始める。

 ぽとり、ぽとり、静かな落下は雨音へ溶けていく。
 しゃがみ込み透き通るツノに見惚れる彼女は、この小さな生き物に潜む壮大な秘密をまだ知らない。


 

  でんでんむしむし かたつむり
  おまえのあたまは どこにある


 童謡でも謎めく生体に注目の集まる彼ら。その小さな体に、実は世界最大の数が隠れていることを知っていただろうか。二回めとなる本日は、そんなお話からはじめよう。

 1万~2万。この数字は、なんとカタツムリの歯の本数だ。
 歯があることにも驚きだが、あらゆる生物のなかでも最も多く、しかも摩耗するたび生え変わるという。その機能や姿かたちも、私たちの想像するところとはおおきく異なるようだ。
 カタツムリの口には、小さな歯がびっしりと並ぶリボンのような器官(=歯舌)がある。この小さな歯は一つ一つがとても頑丈で、これを使って食べ物をおろし金のようにすりおろすことができるのだ。植物の茎や葉っぱ、時にコンクリートさえ削りとり食べてしまうという(!)
 都会の道や塀を這う彼らは、実はランチタイムの可能性があったのだ。

 


 私たちの場合は、どうだろう。
 口を開けば、前歯があり、奥歯があり、親知らずなんかが隠れている。
 カタツムリの歯が食べ物を削るのに対し、私たちの歯は食べ物をかむことで細かくくだいている。この、かみくだく行為を「咀嚼(ソシャク)」と呼ぶ。オノマトペに注目すれば、「ぱくっ」と口に入れてから、「ごくん」と飲み込むまでの、「もぐもぐもぐ」の工程といえるだろうか。
 普段の生活で、自身の咀嚼によくよく意識を配る人も少ないだろう。そこで、この「もぐもぐ」のプロフィールを、歯と舌の動きに注目しながら、ちょっと詳しく追ってみよう。

 

 

 

 


 まだまだ簡略的な説明だが、少しイメージが湧くだろうか。

 私たちの「もぐもぐタイム」には、こんなふうに歯や舌(その他、実は頬や口の天井なども)が協調し、食べ物を飲み込みやすくするための微調整が行われているのだ。
 また、さらなるイメージの助けとして、この一連の動きは「餅つき」に喩えることもできる。

 即ち、上の歯が杵、下の歯(あるいは、口なか全体)が臼。舌は、臼の横にしゃがんで餅米を返す「返し手さん」だ。返し手さんはただ餅をひっくり返すのではなく、手に水をつけ餅がまとまりやすくなるようサポートをしている。お察しの通り、この手の水が唾液となるわけだ。(と、なんとも言い得て妙な喩(ゆ)かげんなのだ。)

 

 今宵、みなさんの食卓にはどんな料理が並ぶだろうか。
 ハンバーグ、青菜のお浸し、炊きたてのご飯。それらを一口含んだら、食べ物が喉元へと消えてしまう前に、ぜひ歯や舌といった口なかの情報を追いかけてみてほしい。そこに、勤勉に働きつづける餅屋の職人たちの暮らしぶりを覗けるかもしれない。

 

 

 ところで、この「咀嚼」。広辞苑には、「かみくだいて味わうこと」から派生した、「物事や文章などの意味をよく考え味わうこと」の意味もある。
 食事場面を考えても、私たちはただ食べ物の成分を機械的に感知しているわけではないだろう。われわれは、咀嚼のあいだ、口に含むものの色艶を、香りを、かじる音を、舌触りに歯触りを、果ては体の奥から湧きあがる記憶を――ありとあらゆる情報の享受に愉しんでいる。そして、その道中のすべてを「味わい」へと含めているはずだ。そのため、もし誰かが噛み終えたものを取り込んだならば、その途次に広がる味わいの景色はまったくぼやけてしまうだろう。

 

 私たちはきっと、食事であれ思索であれ、豊かな五感の発見に歓びながら、ありのままを味わうことを求めている。

 だからこそ、好きな本は原著にあたり、自然の原風景に惹かれ、時代がどれだけ移ろうとも《原型》に遡っては、手付かずのそのままを頬張りたいと涎を垂らすのかもしれない。

 

 

 最後に白状すると、筆者はかつて冒頭の少女だった。

 雨の季節になると、この無垢な悪戯姿はよみがえる。「そんな一人遊びばかり、やめときなよ」。文章を書きながら、思わずかつての自身に声をかけたくなってくる。年を重ねた私の歯は、雨音のリズムにあわせ、いつまでも苦虫を噛みつづけている。

 

  • 竹岩直子

    編集的先達:中島敦。品がある。端正である。目がいい。耳がいい。構えも運びも筋もよい。絵本作家に憧れた少女は、ことばへの鋭敏な感性を活かし言語聴覚士となった。磨くほどに光る編集文章術の才能が眩しい。高校時代の恩師はイシスの至宝・川野。

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コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-22

 小学校に入ってすぐにレゴを買ってもらい、ハマった。手持ちのブロックを色や形ごとに袋分けすることから始まり、形をイメージしながら袋に手を入れ、ガラガラかき回しながらパーツを選んで組み立てる。完成したら夕方4時からNHKで放送される世界各国の風景映像の前にかざし、クルクル方向を変えて眺めてから壊す。バラバラになった部品をまた分ける。この繰り返しが楽しくてたまらなかった。
 ブロックはグリッドが決まっているので繊細な表現をするのは難しい。だからイメージしたモノをまず略図化する必要がある。近くから遠くから眺めてみて、作りたい形のアウトラインを決める。これが上手くいかないと、「らしさ」は浮かび上がってこない。

堀江純一

2025-06-20

石川淳といえば、同姓同名のマンガ家に、いしかわじゅん、という人がいますが、彼にはちょっとした笑い話があります。
ある時、いしかわ氏の口座に心当たりのない振り込みがあった。しばらくして出版社から連絡が…。
「文学者の石川淳先生の原稿料を、間違えて、いしかわ先生のところに振り込んでしまいました!!」
振り込み返してくれと言われてその通りにしたそうですが、「間違えた先がオレだったからよかったけど、反対だったらどうしてたんだろうね」と笑い話にされてました。(マンガ家いしかわじゅんについては「マンガのスコア」吾妻ひでお回、安彦良和回などをご参照のこと)

ところで石川淳と聞くと、本格的な大文豪といった感じで、なんとなく近寄りがたい気がしませんか。しかし意外に洒脱な文体はリーダビリティが高く、物語の運びもエンタメ心にあふれています。「山桜」は幕切れも鮮やかな幻想譚。「鷹」は愛煙家必読のマジックリアリズム。「前身」は石川淳に意外なギャグセンスがあることを知らしめる抱腹絶倒の爆笑譚。是非ご一読を。

川邊透

2025-06-17

私たちを取り巻く世界、私たちが感じる世界を相対化し、ふんわふわな気持ちにさせてくれるエピソード、楽しく拝聴しました。

虫に因むお話がたくさん出てきましたね。
イモムシが蛹~蝶に変態する瀬戸際の心象とはどういうものなのか、確かに、気になってしようがありません。
チョウや蚊のように、指先で味を感じられるようになったとしたら、私たちのグルメ生活はいったいどんな衣替えをするのでしょう。

虫たちの「カラダセンサー」のあれこれが少しでも気になった方には、ロンドン大学教授(感覚・行動生態学)ラース・チットカ著『ハチは心をもっている』がオススメです。
(カモノハシが圧力場、電場のようなものを感じているというお話がありましたが、)身近なハチたちが、あのコンパクトな体の中に隠し持っている、電場、地場、偏光等々を感じ取るしくみについて、科学的検証の苦労話などにもニンマリしつつ、遠く深く知ることができます。
で、タイトルが示すように、読み進むうちに、ハチにまつわるトンデモ話は感覚ワールド界隈に留まらず、私たちの「心」を相対化し、「意識」を優しく包み込んで無重力宇宙に置き去りにしてしまいます。
ぜひ、めくるめく昆虫沼の一端を覗き見してみてください。

おかわり旬感本
(6)『ハチは心をもっている』ラース・チットカ(著)今西康子(訳)みすず書房 2025