発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。

二、ベルクソンの予言
カフカやドストエフスキー、さらには荘子にまで影響をうけたというエンデの魅力は、とうてい児童文学の域に収まるものではない。すくなくとも、これだけたくさんの人に読まれてきたのに、そのほとんどが気づかないできたことがひとつある。それは、エンデが『モモ』で提出する時間についての考え方は、フランスの哲学者ベルクソンが『時間と自由』(*)で展開した時間論と非常によく似ている、ということだ。
この関係を逆から見ると、ベルクソンの『時間と自由』は、『モモ』における「時間どろぼう」を予告し、それに警鐘をならす哲学書なのだということになる。<贋の時間>はいつどうやって<ほんとうの時間>にすり替わったのか。「時間どろぼう」とは、いったい何なのか、そもそも<ほんとうの時間>とはいったいどういうものなのか。このことを、エンデより先にとことん考えぬいた人間、それがベルクソンという思想家なのである。
ベルクソンはほんとうの時間を「持続」と呼び、そこには創造性と多様性そして予見不可能性といったものが溶け込んでいると考えた。ここで予見不可能というのは、時間とは本来、コンティンジェントなもので、それ自体が別様可能性に開かれたものだということだ。しかもほんとうの時間とは、単一の直線であるどころか、多様きわまりない糸によって織られつづける、果てしない織物(テキスト)、つまり物語のようなものである。しかもそれは、一瞬ごとに新しく、たえず自己を更新しつづけるものなのである。当然それは切れ目をもたず、けっして静止することがない。ベルクソンがほんとうの時間を「持続」と呼んだのは、こうした意味においてである。
これに対し、近代の科学や社会制度が押しつけてくる<贋の時間>を、ベルクソンは「空間化された時間」と呼んだ。実はベルクソン哲学には「空間」に関する驚くべき思索が含まれているのだが、とりあえずそれは置いておく。空間化された時間は、固定されたものとなり、定量的なものとなり、さらには分割可能なものとなってしまう。つまり内的関係によって持続していたものが、単なる「数値」に変えられ、切り分けられてしまうのである。そうした時間は、いくらでも取り替えることのできるものとなる。特別な時間というものはなくなり、単一的で均質的な時間が世界を支配する。それが科学文明や機械文明を肥大させ、人間は数値化された時間に追い立てられるようになっていく。
そんな時間が支配する世界に真の自由はない、といち早く警鐘を鳴らしたのがベルクソンだった。それは19世紀も終わりに近づいた1889年のこと、一方では重化学工業が発達し、その一方で電灯や電話、自動車や飛行機、鉄とコンクリートの建造物が世に出回っていく、現代社会の鳥羽口にあたる時代でもあった。
ベルクソンは『時間と自由』のなかで、「質的多様性」と「数的多数性」がまったく別のものであるということもさかんに強調している。「質的多様性」とは、たくさんの異質なものがつながりあったままひとつの有機的統一体を形成している状態である。これに対し「数的多数性」とは、一見連綿と空間を埋め尽くしているようだが、実は切断され互いに孤立したものが並置されているだけの状態である。ベルクソンは質的多様性を精神や生命の本質ととらえ、数的多数性を物質の特性だと考えた。
1907年に刊行された『創造的進化』は、こうした時間についての見方をいっそうダイナミックに発展させたものである。この中でベルクソンは、「意識をもつ存在者にとり存在するとは変化すること、変化するとは成熟すること、成熟するとはどこまでも自分を創造することなのである」と書いているが、それはとりもなおさず、ベルクソンの「持続」とは、ただ続いていくだけのものではなく、たえず変化し、成熟し、自己を創造していくものだということを意味してもいる。そうした持続を表現するには、言語もふくめおおかたの記号は役に立たない。記号はかえって、持続するものを固定し、分割し、定量化し、持続とは正反対のものにしてしまう。それは時間どろぼうがしかける、最初の罠でさえあるのである。
そこでベルクソンが考えだしたのが、「直観」という方法である。それは記号という媒介によることなく、動くもの、変化するもの、生成してやまないものに、一挙に没入するための至高の方法である。しかし、不立文字の禅ならいざ知らず、「直観」だけでは早晩行き詰まってしまうことがやがて明らかになってくる。近代の思想家のなかで、おそらくベルクソンほど鮮やかに精神と物質を切り分けたものはいないだろうが、しかしそれによって彼は、精神と物質のいくらでも別様になりうる関係への道を、自ら塞いでしまうことにもなったのである。このことは、ミハイル・バフチンのカーニバル的な笑いとベルクソンの矯正的な笑いを比べてみれば、すぐに分かることだろう。
【出典】
アンリ・ベルクソン『時間と自由』、平井啓之訳、白水社、1997年。
『新訳ベルクソン全集1』、竹内信夫訳、白水社、2010年。
アンリ・ベルクソン『創造的進化』、真方敬道訳、岩波文庫、1996年。
アンリ・ベルクソン『笑い』、林達夫訳、岩波文庫、1976年。
ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』。
【トップ画像】
ルイージ・ルッソロ『ダイナミスム・オブ・ア・カー』1913。「イタリア未来派は、ベルクソン哲学の影響を受けながら、機械文明がもたらす新しい時間と新しい美の表象を描いていった。」(境)
【境踏シアター バックナンバー】
■第一回(2)ほんとうの時間
田母神顯二郎
編集的先達:ヴァルター・ベンヤミン。アンリ・ミショー研究を専門とする仏文学の大学教授にして、[離]の境踏方師。ふくしまでのメディア制作やイベント、世界読書奥義伝の火元組方師として、編集的世界観の奥の道を照らし続けている。
三、『ペスト』と時間 IT革命が加速し、AI(人工知能)が人の仕事をどんどん奪うようになっている時代、金さえあれば、民間人でも宇宙飛行が経験できるようになった一方、スマホが生活の主要なアイテムとなり、心や […]
一、モモと「時間どろぼう」 とてもとてもふしぎな、それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。すべての人間はそれにかかわりあい、それをよく知っていますが、そのことを考えてみる人はほとんどいません。た […]
このたび「遊刊エディスト」にデビューすることになった境踏方師の田母神です。年甲斐もなく、すこし興奮ぎみです。編集の新たなサンクチュアリともいえるこの「エディスト」に来ただけで、自分のなかのピーターパンが、うずうずしてく […]
コメント
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2025-07-01
発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。
2025-06-30
エディストの検索窓に「イモムシ」と打ってみたら、サムネイルにイモムシが登場しているこちらの記事に行き当たりました。
家庭菜園の野菜に引き寄せられてやって来る「マレビト」害虫たちとの攻防を、確かな観察眼で描いておられます。
せっかくなので登場しているイモムシたちの素性をご紹介しますと、アイキャッチ画像のサトイモにとまる「夜行列車」はセスジスズメ(スズメガ科)中齢幼虫、「少し枯れたナガイモの葉にそっくり」なのは、きっと、キイロスズメ(同科)の褐色型終齢幼虫です。
添付写真は、文中で目の敵にされているヨトウムシ(種名ヨトウガ(ヤガ科)の幼虫の俗称)ですが、エンドウ、ネギどころか、有毒のクンシラン(キョウチクトウ科)の分厚い葉をもりもり食べていて驚きました。なんと逞しいことでしょう。そして・・・ 何と可愛らしいことでしょう!
イモムシでもゴキブリでもヌスビトハギでもパンにはえた青カビでも何でもいいのですが、ヴィランなものたちのどれかに、一度、スマホレンズを向けてみてください。「この癪に触る生き物をなるべく魅力的に撮ってやろう」と企みながら。すると、不思議なことに、たちまち心の軸が傾き始めて、スキもキライも混沌としてしまいますよ。
エディスト・アーカイブは、未知のお宝が無限に眠る別銀河。ワードさばきひとつでお宝候補をプレゼンしてくれる検索窓は、エディスト界の「どこでもドア」的存在ですね。
2025-06-28
ものづくりにからめて、最近刊行されたマンガ作品を一つご紹介。
山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(秋田書店)
この作品の中で語られるのは眼鏡職人と音楽家。ともに制作(ボイエーシス)にかかわる人々だ。制作には技術(テクネ―)が伴う。それは自分との対話であると同時に、外部との対話でもある。
お客様はわがままだ。どんな矢が飛んでくるかわからない。ほんの小さな一言が大きな打撃になることもある。
深く傷ついた人の心を結果的に救ったのは、同じく技術に裏打ちされた信念を持つ者のみが発せられる言葉だった。たとえ分野は違えども、テクネ―に信を置く者だけが通じ合える世界があるのだ。