第一回(2)ほんとうの時間【境踏シアター】

2022/05/11(水)08:00
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二、ベルクソンの予言

 

 カフカやドストエフスキー、さらには荘子にまで影響をうけたというエンデの魅力は、とうてい児童文学の域に収まるものではない。すくなくとも、これだけたくさんの人に読まれてきたのに、そのほとんどが気づかないできたことがひとつある。それは、エンデが『モモ』で提出する時間についての考え方は、フランスの哲学者ベルクソンが『時間と自由』(*)で展開した時間論と非常によく似ている、ということだ。

 

 この関係を逆から見ると、ベルクソンの『時間と自由』は、『モモ』における「時間どろぼう」を予告し、それに警鐘をならす哲学書なのだということになる。<贋の時間>はいつどうやって<ほんとうの時間>にすり替わったのか。「時間どろぼう」とは、いったい何なのか、そもそも<ほんとうの時間>とはいったいどういうものなのか。このことを、エンデより先にとことん考えぬいた人間、それがベルクソンという思想家なのである。

 

 ベルクソンはほんとうの時間を「持続」と呼び、そこには創造性と多様性そして予見不可能性といったものが溶け込んでいると考えた。ここで予見不可能というのは、時間とは本来、コンティンジェントなもので、それ自体が別様可能性に開かれたものだということだ。しかもほんとうの時間とは、単一の直線であるどころか、多様きわまりない糸によって織られつづける、果てしない織物(テキスト)、つまり物語のようなものである。しかもそれは、一瞬ごとに新しく、たえず自己を更新しつづけるものなのである。当然それは切れ目をもたず、けっして静止することがない。ベルクソンがほんとうの時間を「持続」と呼んだのは、こうした意味においてである。

 

 これに対し、近代の科学や社会制度が押しつけてくる<贋の時間>を、ベルクソンは「空間化された時間」と呼んだ。実はベルクソン哲学には「空間」に関する驚くべき思索が含まれているのだが、とりあえずそれは置いておく。空間化された時間は、固定されたものとなり、定量的なものとなり、さらには分割可能なものとなってしまう。つまり内的関係によって持続していたものが、単なる「数値」に変えられ、切り分けられてしまうのである。そうした時間は、いくらでも取り替えることのできるものとなる。特別な時間というものはなくなり、単一的で均質的な時間が世界を支配する。それが科学文明や機械文明を肥大させ、人間は数値化された時間に追い立てられるようになっていく。

 

 そんな時間が支配する世界に真の自由はない、といち早く警鐘を鳴らしたのがベルクソンだった。それは19世紀も終わりに近づいた1889年のこと、一方では重化学工業が発達し、その一方で電灯や電話、自動車や飛行機、鉄とコンクリートの建造物が世に出回っていく、現代社会の鳥羽口にあたる時代でもあった。

 

 ベルクソンは『時間と自由』のなかで、「質的多様性」と「数的多数性」がまったく別のものであるということもさかんに強調している。「質的多様性」とは、たくさんの異質なものがつながりあったままひとつの有機的統一体を形成している状態である。これに対し「数的多数性」とは、一見連綿と空間を埋め尽くしているようだが、実は切断され互いに孤立したものが並置されているだけの状態である。ベルクソンは質的多様性を精神や生命の本質ととらえ、数的多数性を物質の特性だと考えた。

 

 1907年に刊行された『創造的進化』は、こうした時間についての見方をいっそうダイナミックに発展させたものである。この中でベルクソンは、「意識をもつ存在者にとり存在するとは変化すること、変化するとは成熟すること、成熟するとはどこまでも自分を創造することなのである」と書いているが、それはとりもなおさず、ベルクソンの「持続」とは、ただ続いていくだけのものではなく、たえず変化し、成熟し、自己を創造していくものだということを意味してもいる。そうした持続を表現するには、言語もふくめおおかたの記号は役に立たない。記号はかえって、持続するものを固定し、分割し、定量化し、持続とは正反対のものにしてしまう。それは時間どろぼうがしかける、最初の罠でさえあるのである。

 

 そこでベルクソンが考えだしたのが、「直観」という方法である。それは記号という媒介によることなく、動くもの、変化するもの、生成してやまないものに、一挙に没入するための至高の方法である。しかし、不立文字の禅ならいざ知らず、「直観」だけでは早晩行き詰まってしまうことがやがて明らかになってくる。近代の思想家のなかで、おそらくベルクソンほど鮮やかに精神と物質を切り分けたものはいないだろうが、しかしそれによって彼は、精神と物質のいくらでも別様になりうる関係への道を、自ら塞いでしまうことにもなったのである。このことは、ミハイル・バフチンのカーニバル的な笑いとベルクソンの矯正的な笑いを比べてみれば、すぐに分かることだろう。

 

  • * 正式なタイトルは『意識に直接与えられているものについての試論』

 

 

【出典】

アンリ・ベルクソン『時間と自由』、平井啓之訳、白水社、1997年。

『新訳ベルクソン全集1』、竹内信夫訳、白水社、2010年。

アンリ・ベルクソン『創造的進化』、真方敬道訳、岩波文庫、1996年。

アンリ・ベルクソン『笑い』、林達夫訳、岩波文庫、1976年。

ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』。

 

【トップ画像】

ルイージ・ルッソロ『ダイナミスム・オブ・ア・カー』1913。「イタリア未来派は、ベルクソン哲学の影響を受けながら、機械文明がもたらす新しい時間と新しい美の表象を描いていった。」(境)

 

【境踏シアター バックナンバー】

■ごあいさつ

■第一回(1)ほんとうの時間

■第一回(2)ほんとうの時間


  • 田母神顯二郎

    編集的先達:ヴァルター・ベンヤミン。アンリ・ミショー研究を専門とする仏文学の大学教授にして、[離]の境踏方師。ふくしまでのメディア制作やイベント、世界読書奥義伝の火元組方師として、編集的世界観の奥の道を照らし続けている。

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