こんにちは。米川です。コロナ禍が始まってすぐの2020年4月から、コロナ禍が落ち着いてきた2022年2月まで[芝居と本と千夜にふれる]という連載を続けましたが、このタイミングで連載タイトルを[擬メタレプシス論]と変え、新たな彷徨へ出かけます。
「擬(モドキ)」は、エディスト読者の皆さんにはいわずもがな、松岡校長の『擬』(春秋社)です。「メタレプシス」という言葉は、はじめて出会う人が多いと思いますが、ジェラール・ジュネット(1302夜)の用語です。ズバリ『メタレプシス』(人文書院)という本があります。
これからしばらく[擬×メタレプシス]を方法の手すりとしながら、物語制作の実践的な方法について僕なりに探究していきます。ご心配なく。そんなに難しい話をするわけではありません。いまはとにかく、扉を開けて外に出ます。
源頼朝とも大泉洋ともつかない「頼朝モドキ」
いま、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を毎週見ています。実は、僕が最初から最後までちゃんと見た大河は、ずっと遡って小学生のときに見た「武田信玄」(1988年)か「独眼竜政宗」(1987年)以来です。かれこれ35年ほど、大河ドラマをまともに見てきませんでした。きっと大河マニアの方は、こんな僕が大河ドラマを語ることに言いたいことがたくさんあるでしょう。機会があればいろいろと教えてください。
『鎌倉殿の13人』は定説から逸脱した脚色も多いらしく賛否があるようですが、僕はいまのところ、これなら最後まで楽しく見られそうだなあ、と思っています。なぜなら、ちゃんとみんなが「モドキ」になっているからです。脚本家・三谷幸喜さんと制作陣の狙いが行き届いています。
たとえば、大泉洋さんが源頼朝を演じていますが、いつも何割か「大泉洋」を残しながら演技しています。だから、頼朝のシーンでごく簡単に笑いが取れるんですね。大事な場面では時代劇をやっていますが、大泉洋の要素を少し増やせばすぐにコメディになるわけです。彼は巧みに自らのキャラクターを活かしながら、頼朝とも大泉洋ともつかない「頼朝モドキ」を乗りこなしています。
何よりの証拠に、Twitterでは「#全部大泉のせい」というハッシュタグが飛び交っています。本当は「全部頼朝のせい」ですが、しっかりと頼朝モドキになっているから「大泉のせい」と言われるわけですね。これは役者としては大成功でしょう。大泉さんはきっと喜んでいます。最近は続いて、「#全部西田のせい」も出てきました。本当は「全部後白河法皇のせい」なんですけどねえ。いやはや、悪役って得ですね。もちろん、二人が上手だからこそ、そういうことが起きているわけですけど。
二人だけでなく、小池栄子さん演じる北条政子も、佐藤浩市さん演じる上総広常も、普段の本人のイメージを上手に重ねて利用しながら演じています。主要人物はだいたいみんな同様に、演技しすぎないようにしています。『鎌倉殿』を見ていると、どちらがほんとでどちらがつもりか、ときどきわからなくなることがあります。
「現代人」が現代と鎌倉時代をつなぐ
さらに僕の見方では、『鎌倉殿』には「現代人」が少なくとも二人混じっています。一人は小栗旬さん演じる北条義時、もう一人は宮澤エマさん演じる美衣です。この二人は、舞台が現代のオフィスでもそのまま馴染むようなお芝居をしています。間違いなくわざとです。
北条義時モドキの小栗旬さんは主役ですから、これから成長に従って変わっていく可能性が十分にあり、すでに変わってきたようにも見えます。ですが、少なくとも序盤は現代人の僕らとかなり近い目線に立っていました。三回目か四回目くらいの放送だったと思いますが、戦さにビビりまくっていた姿が特に印象的でした。僕がいきなり戦場に放り出されたときも同じようになるだろうな、と感じるリアクションを取っていました。
美衣は、北条政子の架空の妹という設定です。好き勝手やってよい役なのをいいことに、宮澤エマさんは、そのあたりを歩いているお姉さんとほぼ同じ雰囲気をまとっています。緊張感の高いときに彼女が出てくると、ちょっと息がつける。日常に少し戻れる感じがします。実にありがたい存在です。
二人の役割は、現代と鎌倉時代をつなげることです。ちょっとおおげさに言うと、この二人のおかげで『鎌倉殿』はしっかりと歴史的現在になっています。特に美衣がキーパーソンで、僕は彼女がいなくなったら見なくなるんじゃないか、と思うほどです。ストーリー上はいなくてもよい存在ですが、構成上はなくてはならない存在になっています。
付け加えると、いまや「オープニングクレジットに名前があるだけで嫌な気持ちになる」「予告映像に出てきてほしくない」と恐れられている三谷さんの盟友・梶原善さん演じる殺し屋の役名は「善児」です。実にふざけた名前ですが、ここにも現代と鎌倉時代をつなげる存在が一人いるわけです。
鎌倉といえば鶴岡八幡宮。頼朝の子・実朝はここで命を落とします
「ほんと」とは何かということ自体がたいへんにあやしい
これから僕が展開しようとしているのは、ごく簡単に言えば『鎌倉殿の13人』はモドキでありメタレプシスである、という話です。メタレプシスは次回以降に取っておくとして、ここではまず、松岡校長の『擬』の一節を紹介します。
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世間では「ほんと」は実際におこって現実化したことで、「つもり」はその逆に現実にはおきなかったことだと信じられているが、そんなばかなことはない。第一綴の冒頭に綴っておいたように、そもそも「ほんと」とは何かということ自体がたいへんにあやしい。
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時代劇や時代小説は、まさしく「ほんと」があやしい物語の代表格です。当然、歴史上わかっていることはあります。北条義時や北条政子や源頼朝や後白河法皇が存在したこと、彼らがおおまかにどういう人生を送り、どんな役目を担ったかは明らかになっています。ですが同時に、わかっていないこともたくさんある。定説はあるけれど確実ではない、というようなこともいくつもあります。事実、ある日突然、定説がひっくり返ることも少なくありません。皆さんご存知のとおり、僕は子どものとき、鎌倉幕府が始まったのは1192年と習いましたが、現在は1185年説や1183年説が有力になっています。こういうことはいくらでも起こりえます。だからこそ、時代劇や時代小説にはいろんな脚色の可能性があるわけです。
そのうえ現代人が現代語で演じたり書いたりするほかにないわけですから、時代劇や時代小説はそもそもが明らかにモドキです。『鎌倉殿の13人』はそうした前提を踏まえて、モドキであることを活かした演出や編集をしているなあ、と毎回感心するのです。
松岡正剛『擬 MODOKI:「世」あるいは別様の可能性』(春秋社)
※トップ画像は、本物の日本の500円白銅貨(左)と韓国の500ウォン硬貨(右)です。500円が出回り始めた1982年当時、両者は重さ以外が極めて似ていたため、170円くらいの価値だった500ウォン硬貨を少しだけ削って、日本の自動販売機で500円として使う輩がたくさんいたのだそうです。どっちも本物なんですけどね。
米川青馬
編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。
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