誰もコップやグラスを溶かして飲まない[擬メタレプシス論:2]

2022/06/07(火)10:26
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 これから数回にわたって、キーワードとなる「メタレプシス」とはなにかを説明しますが、今回はその前置きとして、ちょっと変わった「ことばの話」をします。イシス編集学校の皆さんにはおなじみ、[守]【001番:コップは何に使える?】 にも関わる話です。

 

 

「一杯飲む」はなぜ「お酒を飲む」ことなのか?

 

 「一杯飲む」とよく言いますね。もちろん、お酒を飲むことです。「一杯飲む」は、レトリック(修辞学)では換喩(メトニミー)と言います。比喩の一種です。換喩とは、ある事物を、隣接・近接する事物や関係の深い何かに置き換えて例えることです。「一杯飲む」は、お酒を注ぐグラスやコップの一杯に置き換えて、お酒を飲むことを表現しています。このとき、一杯のグラスやコップ、という元の意味はかなり消えます。その証拠に、「一杯飲もうよ」は、厳密に一杯だけ飲もうという誘いではありませんよね。お酒をほどほどに楽しむことでしょう。人によっては、ぐでんぐでんになるまで酔っ払うことかもしれません。

 

 もし仮に、日本語の語句の意味はわかるけれど、比喩が一切わからない宇宙人がやってきたとしましょう。この宇宙人は、「一杯飲む」はお酒を飲むことだと理解できません。そうではなくて、グラスやコップをひとつ溶かして、ドロドロになったガラスやプラスチックを飲むことだと考えるでしょう。「一杯飲む」を本当に字義どおりに捉えれば、グラスやコップを溶かして飲むという意味になるからです。

 

 でも日本人なら、「一杯飲む」をグラスやコップを溶かして飲むことだと考える人はまずいませんよね。編集学校の[守]【001番:コップは何に使える?】 で、「コップを溶かして飲む(そして死ぬ)」と答えた学衆は、さすがに過去いなかったのではないかと思います。比喩や換喩や暗喩というと、小説家や詩人やライターが特別にこしらえる表現のように感じるかもしれませんが、決してそんなことはないんですね。僕たちは日々、あまり深く考えずに比喩を使いこなしています。

 

 『レトリックと人生』(ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン/大修館書店)には、日常的な比喩の例が多様に紹介されています。いくつか紹介します。

 

●彼の批判は正しく的を射ていた(戦争メタファー)

●君はぼくの時間を浪費している(お金メタファー)

●景気は上向きつつある(方向づけメタファー)

 

 暗喩(メタファー)とは、類似性にもとづいた見立てのことです。実際に矢が的を射たわけでも、お金を浪費したわけでも、景気という物質が上を向きつつあるわけでもありませんが、僕たちはこれらのメタファーの意味を的確に理解できます。いまどきの例をあげると、気分が「アガる」も写真が「盛れた」も立派な比喩です。毎日はこうした比喩に満ちあふれています。

 

『レトリックと人生』(ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン/大修館書店)

 


フィギュール=文彩=プロフィール=アヤの詞

 

 物語学者のジェラール・ジュネットは、こうしたレトリックのすべてをフィギュール(文彩)と呼びます。少々長いですが、千夜千冊1302夜(ジェラール・ジュネット『フィギュール』)の説明を読みましょう。

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 フランス語のフィギュール(figure)というのは姿のことである。英語でいえばフィギュア(figure)だ。フィギュアというとコスメティックなおたく人形のようなことを思うかもしれないが、むろんそれも入る。ぼくは「書」を遊ぶことが多く、文字の形や意味から何かが浮かび上がってくるのを待って筆を一気に動かすのであるけれど、とくに漢字を書くときはそのたびにフィギュール(フィギュア)を想う。

 

 書はフィギュア・スケートなのである。だからこれをプロフィールと言ってもいいだろう。姿や形を意図してあらわれてきたもの、そのすべてがフィギュアであり、フィギュールで、プロフィールなのだ。

 

 ジュネットの言うフィギュールは、一途に言葉とその作用に深くかかわっている。たとえば「船」という言葉が示すものを、「紀伊國屋文左衛門の帆が上がる」というように「帆」という言葉によってあらわしているとき、その「帆」は「船」のフィギュールを代表したのである。こういうぐあいに、ジュネットは言葉・言語・語・文章・意味・文体などに出入りするフィギュールのすべてを問題にする。

 

 ジュネットにとっては、レトリックのすべてがフィギュールで、レトリックそのものがフィギュールの体系である。ということは、あとでもふれるけれど、フィギュールの日本語に最も近い和語の概念は何かというに、おそらく「あや」(文・彩・綾)なのだ。以下、アヤというふうに綴るけれど、アヤはぼくが最も好きな和語のひとつである。日本には古来アヤの一族というべきものたちこそが何かを仕組んできた歴史があるとさえ思っている。本居宣長は事実を知るには「タダの詞」でよいが、歴史の心や文化の魂に接するには「アヤの詞」によるしかないと断言した。

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 [守]を受講した方は、プロフィールということばにきっと反応したはずです。そう、「BPT(ベース・プロフィール・ターゲット)」ですね。フィギュール=文彩とは、[守]で学んだプロフィールであり、アヤの詞のことです。「フィギュール=文彩=プロフィール=アヤの詞」は、ことばを使うときに働く作用のすべてを指します。

 

ジェラール・ジュネット『フィギュール』(書肆風の薔薇)

 


文彩は小さなフィクションだ

 

 ジェラール・ジュネットは著書『メタレプシス』(人文書院)のなかで、「フィクションと呼ぶべきものは、文彩の拡大された様態である」とか、「文彩とはフィクションの萌芽、もしくはこう言ったほうが良ければ、フィクションの素描(エスキース)なのである」とか、もっとシンプルに「文彩は(すでにして)小さなフィクションだ」と書いています。

 

 つまり、ジュネットは「一杯飲む」というのはフィクションだ、と言っているのです。あなたたちは一杯飲むと言いながら、グラスやコップを溶かして飲まずに、お酒を飲むという小さなフィクションをやっているじゃないか、というのです。

 

 ただ、この例はちょっと理解しにくいでしょう。なぜなら、「一杯飲む」が比喩と思えないほど当たり前の表現になっているからです。だから別の例を挙げましょう。「お前は、私の犬だ」。人は誰も本当の犬ではありませんから、これはメタファーです。誰が誰に言っているかは自由に想像してください。SMプレイの真っ最中かもしれませんし、悪徳金融業者が借金を返せない相手に吐いたセリフかもしれませんし、夫婦の会話かもしれません(だとしたら問題がありますが)。30年前のバブルの頃には「アッシーくん」や「メッシーくん」が何人もいたそうですが、いま思えば犬みたいな扱いでしたよね。

 

 「お前は私の犬だ」が小さなフィクションだ、というのは理解しやすいのではないでしょうか。犬と飼い主のような関係になるだけで、二人のあいだには小さな物語が生まれます。SMプレイなら、実際に犬と飼い主の小芝居が始まるのでしょう(知りませんけど)。同様に、「彼の批判は正しく的を射ていた」も「君はぼくの時間を浪費している」も「景気は上向きつつある」も、そのほかのフィギュールも、すべて小さなフィクションです。

 

Wikipedia イヌより(CC BY 2.5)

 


僕らは無数のフィクションを出入りしながら生活している

 

 日本の僕らは、「文彩は小さなフィクションだ」という意味を比較的理解しやすい民族ではないか、と思います。なぜなら、俳句や短歌が身近にあるからです。「古池や 蛙飛びこむ 水の音」の十七音のフィギュールは、素描(エスキース)どころか、フィクションの情景をしっかり描いています。日本の僕らはうたをとおして、フィギュールが小さなフィクションであることを体感的に知っています。

 

 いざフィクションと聞くと、僕らはどうしても、漱石だシェイクスピアだ、『鬼滅の刃』だ濱口竜介だ、とみがまえてしまいます。でも実際は、僕らはレトリックを無意識に操って、無数のフィギュール、無数の小さなフィクションを出入りしながら生活しています。僕らは全員、日常的に言葉を使うことでたくさんのフィクションに慣れ親しんでいるのです。

 

 ちなみに、以上のことを「心」とつなげて考えることもできます。千夜千冊エディション『心とトラウマ』(角川ソフィア文庫)の第三章・第四章と重ねて読むと面白いのです。たとえば、0911夜:ジャック・ラカン『テレヴィジオン』には、ジャック・ラカンの「意味というものは多義か、隠喩か、あるいは換喩なのです」という一節が紹介されていますが、僕には「文彩は(すでにして)小さなフィクションだ」とかなり近い意味に思えます。松岡校長は、「ラカンは『言い換え』こそが意識と無意識の橋掛かりであることが十分にわかっていた」とも書いています。どうやら、フィクションは心ともおおいに関係がありそうです。

 

 実は第2回にして核心のひとつに到達してしまったのですが、でもまだまだ続きます。

 

松岡正剛『心とトラウマ』(角川ソフィア文庫)

 

※トップ画像の絵は、ペーダー・セヴェリン・クロイヤー作。Wikipedia乾杯より。


  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。