僕らの現実はメタレプシスだ[擬メタレプシス論:3]

2022/06/18(土)08:02
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 今回で理論篇は終わります。難しそうに見えるかもしれませんが、実際は僕たちの日常に根づいた話ですので気楽にお読みください。

 

 

ジュネットはなぜメタレプシスを特別視したのか?

 

 メタレプシスの生みの親、ジェラール・ジュネットの最も有名な著作は、1972年に書かれた『物語のディスクール』(水声社)です。ジュネットは本書で、主にマルセル・プルースト『失われた時を求めて』から、「物語の方法」を取り出して網羅的に列挙しました。このモーラをきっかけとして、物語論研究が盛んになったのです。物語論はこの一冊から始まりました。

 

ジェラール・ジュネット『物語のディスクール』(水声社)

 

 ジュネットが『物語のディスクール』で取り上げた方法をごくおおざっぱに列挙します(詳細は本書に当たってください)。

 

 Ⅰ順序:錯時法(先説法・後説法・再説・空時法)
 Ⅱ持続:不等時法(省略法・描写的休止法・情景法・要約法)
 Ⅲ頻度:単起法・括復法(境界限定・周期特定・延長・交替)
 Ⅳ叙法:言説(再現された言説・物語化された言説・
        転記された言説・対話・文体化された言説)
     パースペクティブ(非焦点化・内的焦点化・外的焦点化)
     変調(黙説法・冗説法)
     多調性
 Ⅴ態 :語りの時間(後置的・前置的・同時的・挿入的)
     語りの水準(物語世界外の水準・物語世界内の水準・

           メタ物語世界の水準)
     転説法
     人称、主人公、語り手の機能、聴き手

 

 このなかの「転説法」が、メタレプシスです。つまり、ジュネットは『物語のディスクール』を書いた時点では、メタレプシスを単に物語の方法の一つとして扱っていたわけです。ところが、およそ30年後の2004年、いくつもの方法のなかからメタレプシスだけをつまみ上げて『メタレプシス』(人文書院)を書きました。

 

 ということは、ジュネットはメタレプシスを特別視したんですね。それはなぜか、というのが今日の話です。

 

[橋本陽介]の物語論 基礎と応用 (講談社選書メチエ)

物語論を知りたい方は橋本陽介『物語論 基礎と応用』(講談社選書メチエ)がオススメ

 

 

メタレプシスとは物語世界外・物語世界内・メタ物語世界の

三層のいずれかの敷居をまたぐ方法だ

 

 メタレプシスを説明する前に、上の列挙で転説法の前にあった「語りの水準」を前提として説明します。少しややこしいかもしれませんが、特に難しい話ではありません。

 

 ジュネットは、語りの水準には「物語世界外」「物語世界内」「メタ物語世界」の三層があって、入れ子の関係になっているよ、と言いました。物語の語り手/書き手が存在するのは、当然ですが、物語世界の外=現実です。対して、語り手/書き手が生み出した物語世界の内側には登場人物がいて、ものや場所があります。さらに、物語の登場人物が語ったり書いたりした出来事、あるいは物語に登場する本の内容などは、物語世界のもう一層内側の「メタ物語世界」のなかにあります。現実(物語世界外)のなかに物語世界があり、物語世界のなかにメタ物語がある、という入れ子になっているわけです。(※もちろん、メタメタ物語世界、メタメタメタ物語世界…もありますが、面倒なので省略します。)

 

 メタ物語(メタフィクション)は、決して珍しくも新しくもありません。『物語のディスクール』には、メタ物語は「叙事詩の語りの起源そのものにまで遡る形式だ」とあります。ジュネットによれば、そもそも世界最古の物語のひとつ、ホメロス『オデュッセイア』の第九歌から第十二歌がメタ物語なのです。もう少しわかりやすい例を挙げれば、アラブの古典『千夜一夜物語』は全般にわたってメタ物語構造をとっています。ペルシアの王に、その妻が話して聞かせる一つひとつのお話がメタ物語なんですね。メタ物語は古代から数えきれないほど存在します。

 

ホメロス『オデュッセイア』(岩波文庫)

 

 メタレプシス(転説法)とは、なんらかの狙いをもって、この三層のいずれかの敷居をまたぐ方法です。ジュネットは「入れ子の敷居の意図的な侵犯」と言っています。

 

 概念的な説明だけではわかりにくいでしょうから、最もささやかでよく見かけるメタレプシスの例をひとつ挙げます。ドラマや映画などで、実在のアナウンサーが実名でニュースを読むシーンがあります。ドラマや映画をある程度見ていれば、どこかで一度は見かけたことがあるのではないでしょうか。テレビドラマだったら、各テレビ局の局アナが出演しますよね。

 

 こうしたシーンでは、物語世界外=現実にいるはずのアナウンサーが、物語世界に実名で入り込んで、「昨夜、殺人事件がありました」といった物語世界内の架空のニュースを読み上げます。アナウンサーが、物語世界の内外の敷居を意図的にまたいでいますよね。こういう表現方法をメタレプシスと呼ぶのです。

 

 アナウンサーのメタレプシスは、ドラマ・映画のワールドモデルを物語世界外=現実っぽく見せることを狙っています。別の言い方をすると、メタレプシスには現実と物語世界の境界をぼかして曖昧にする効果があります。この方法、実はそれなりに利いているんですよ。見たことのあるアナウンサーがドラマに実名で出てくると、フィクションだとわかっていながらも、不思議なことに多少の現実っぽさを感じてしまいます。僕らは無意識に、「この物語は現実の片隅で起こったことなのかな」と少し思うのです。現実なのかフィクションなのか、ちょっとわからなくなるのです。

 

千夜千冊のタイトルのルーツでもある『千夜一夜物語』(ちくま文庫)もメタ物語構造

 

 

フィクションはすべて
メタレプシスで織り上げられている

 

 これはほんの一例で、世の中にはさまざまな形をしたメタレプシスが存在します。もっと大胆なメタレプシス、興味をそそられるメタレプシスがいくつもあります。『メタレプシス』(人文書院)には、特殊事例の「アンチメタレプシス」や映画独特のメタレプシス「音響的ディゾルブ」まで紹介してあります。次回以降、実例を詳しく見ていきます。

 

 その前に、なぜジュネットがメタレプシスを特別視したのかを少し掘り下げてみます。ジュネットは明確な理由を明かしていませんが、『メタレプシス』の結末にこんなことが書いてあります。

 

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 現実的物語世界から虚構的物語世界への、そしてあるフィクションから別のフィクションへのこうした絶えざる移入と融合は、まさしくフィクション一般の、そして特にフィクションというものの真髄である。フィクションはすべて、メタレプシスで織り上げられているのである。このことは、現実のすべてについてもあてはまる。現実は、フィクションの中に自らを認め、また自らに固有の世界にフィクションを認めるのだから――「この男はまぎれもないドンファンだ」というように。

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 僕なりに分解して説明すると、こうなります。

 

①現実的物語世界から虚構的物語世界への、そしてあるフィクションから別のフィクションへのこうした絶えざる移入と融合は、まさしくフィクション一般の、そして特にフィクションというものの真髄である。

 

 移入と融合とは、敷居をまたぐこと、メタレプシスのことです。世のフィクションにはメタレプシスがたくさんあって、メタレプシスこそがフィクションの真髄だ、という意味です。実例をたくさん見ればわかりますが、本当に「フィクションはすべて、メタレプシスで織り上げられている」のです。

 

現実は、フィクションの中に自らを認め、また自らに固有の世界にフィクションを認める

 

 この一文が核心です。つまり、ジュネットは「そもそも僕らの現実がメタレプシスだ」と言っているのです。これこそ、ジュネットがメタレプシスを特別視した第一の理由でしょう。だからこそ、物語作者は自分の創作したフィクションを現実に近づけたいときに、メタレプシスを活用するのです。

 

擬メタレプシス論のキーブック、ジェラール・ジュネット『メタレプシス』(人文書院)

 

 

「世」という本質の大半が
首尾一貫しなくともかまわない「擬」でできている

 

 「僕らの現実はメタレプシスだ」という意味を、僕なりにもう少し掴みやすく説明してみます。ただし、これから述べるのは物語論的な世界の見方であって、これが唯一の真実だ、などというつもりはありません。むしろけっこうラディカルな見方だと思っています。

 

 物語論的に見れば、僕らの住む社会には大小無数のフィクションがあります。文学や映画やドラマなどのフィクションと区別するために、ここでは「現実的フィクション」や「現実的物語」と呼ぶことにしましょう最小単位の現実的物語は、前回紹介した「一杯飲む」や「お前は私の犬だ」や「彼の批判は正しく的を射ていた」のようなフィギュール=文彩=プロフィール=アヤの詞です。

 

 では、現代最大の現実的フィクションは何か。おそらく資本主義です。松岡校長は、千夜千冊エディション『資本主義問題』の追伸の結末にこう書いています。「資本主義は化け物ではあるが、われわれの知覚と認識と生活形態がことごとく投影されたまま、あらゆる場面に酸性雨のように降り注いでいる。濡れすぎないようにしたくとも、傘がない」。

 

 たとえば、僕らはよくショッピングを楽しみます。100円ショップであれ高級ブランドであれ、数ある商品のなかから一つを選んで買うのは楽しいものです。自分で商品を選んで買う「ショッピングの楽しみの物語」は、資本主義特有の現実的フィクションに違いありません。角幡唯介さんは『空白の五マイル』(集英社文庫)で、チベットの秘境中の秘境・ツアンポー峡谷に携帯電話が広く普及した様子を描いています。世界最後の秘境といわれるようなところですら、みんなケータイを持っているんですね。いまや買い物を楽しんでいない民族など、ほぼ見つけられないはずです。資本主義の物語は、校長のおっしゃるとおり、あらゆる場面、あらゆる地域に酸性雨のように降り注いでいます。

 

[角幡唯介]の空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む (集英社文庫)

冒険ノンフィクションの快著・角幡唯介『空白の五マイル』(集英社文庫)

 

 国家や宗教や民主主義やSDGsなど、大きな現実的物語はほかにいくつも存在します。グレート・ナラティブという巨大フィクションを新しく描く人たちまで現れました。

 

 これらの大きな現実的物語と最小のフィギュールのあいだには、とんでもない数の現実的フィクションが存在します。試しに「あるお父さんの一日」を想像してみましょう。朝起きたら、レシピという物語に沿って朝ごはんをつくって食べます。交通ルールという物語にしたがって通勤し、会社組織特有のフィクションのなかで働きます。仕事が終わったら仲間たちと一杯飲んで(!)、夜の居酒屋での語らいという物語世界に浸って癒やされます。帰ったら妻と子どもがいて、今度は家族というフィクションの世界を生きるのです。以上はおおざっぱな説明で、細かく見ていけば、このお父さんが星の数ほどの現実的フィクションをたえず出入りしていることが見えてくるはずです。皆さんも、自分の生活をちょっと思い巡らせてみてください。

 

 現実的物語の境目はぼんやりとしていてわかりにくく、会社世界に家族世界が移入したり(家族が急病になって早退するとか)、現実世界と物語世界が融合したり(居酒屋で憧れの俳優に出会って一緒に飲むとか)する事件がときに起こります。現実的物語が入り乱れて、二重、三重になることも珍しくありません。テレワークはまさに会社世界と家族世界の二重化でしょう。それから、現実的物語は生き物のように刻々と変わっていきます。社会や会社のルールが書き換えられていくのはご存知のとおりです。

 

 こうした日常生活のなかで、資本主義や国家のような大きな物語が意識に上ることはほとんどありません。最小のフィギュールも同様に無意識下に沈んでいます。しかし、最大も最小も中間もたしかに存在し、僕たちはそれらを次々に出入りしているのです。どうでしょう。このように見ていけば、僕らの現実はメタレプシスではないでしょうか。

 

 以上のことは、松岡校長の『擬』(春秋社)の結末の一文と呼応しています。「『世』という本質の大半が首尾一貫しなくともかまわない『擬』でできていることを、そろそろ歴史の大前提だと言いきってしまうことである」。僕らの現実がメタレプシスであるなら、世の中が首尾一貫などしているわけがありません。僕らは、自分たちの日常がフィクションなのか現実なのかすら、実は曖昧なままに生きているのです。

 

[松岡 正剛]の資本主義問題 千夜千冊エディション (角川ソフィア文庫)

松岡正剛『資本主義問題』(角川ソフィア文庫)

 

※トップ画像の絵は、ベラスケス『ラス・メニーナス』。僕はあまり触れないつもりですが、実は絵画にはメタレプシス的な傑作がいくつもあります。『ラス・メニーナス』もその一つで、絵画世界外にいるはずのベラスケス本人が絵の中に描かれており、現実とフィクションの境目がぼやけています。


  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。