私は図書の目録を作っている。目録という言い方は古めかしいか。本を検索するときに使われているデータベースのことである。今回は、同業他社(会社じゃないけど)の国立国会図書館のデジタルコレクションを利用して、直木賞本を重ね読みした。国会図書館は貴重な資料をどしどしデジタル化して公開している。家にいながらにして戦前の写真や図版がいっぱいの本を開き、この小説の世界に近づくことができた。
■新天地であり、理想郷
都市が生まれ、都市がほろびる物語だ。 舞台は満洲。満洲国が存在したのは1932年~1945年のたった13年間だが、この小説は、1889年~1955年までの半世紀以上をかけて、満洲国・奉天近くにあった架空の都市を描く。「描く」という言葉どおり、地図に線を引き、紙の上で計画した町を実現していくのだ。満洲国そのものが、そのように白紙に地図を描くようにしてつくられたらしい。
国立国会図書館のデジタルコレクションで、満洲国の様子を見ることができた。「満洲国現勢 康徳5年版」「満洲国(朝日新聞社 昭和17年)」こういった本には写真がたくさん収録されていて、いかにも真新しい近代建築…というよりは未来的な建築物の数々に驚く。「大満洲国新地図」では、首都・新京(長春)の地図が見られる。碁盤の目の上に、放射線状の道路も走る整った都市だ。
「満洲国鉄道図」を見る。小説の舞台、李家鎮(リージャジエン)は、奉天ちかくの撫順という町をモデルにしたという。「最新満洲国案内」といった当時のガイドブック的なものもある、訪れてみての旅行記もある。満州国が日本人にとって、新天地であり、理想郷だったことがわかる気がする。
■まるごと年表な小説、歴象のなかに人々が
満洲の大平原のなかに人々が住んでいた小さな集落があった。この地に「燃える土」があると聞いた日本人は、それが石炭であると気づく。当時の日本は満洲の資源を利用しようとしており、開発事業が計画され、人が集められ、鉄道が敷かれ、町は大きくなってゆく。 地図が描かれ、理想の都市が構想され、近代的な建築物がどんどんつくられてゆく。が、 戦争と革命によってあっけなく滅びる。1955年のラストシーンは、満洲国の建築家としてこの町・李家鎮にかかわった日本人の明男が、廃墟となったこの地を再訪し、満洲国以前の小さな集落だった頃の地図を広げるというものだ。
序章「一八九九年、夏」、第一章「一九〇一年、冬」という調子で数年ごとに章だてされて、第十七章と終章まで、この本は年表のスタイルをとっている。日露戦争、満洲開拓、満洲事変、満洲国建国、日中戦争、太平洋戦争、日本の敗戦、引き揚げ。歴史の流れのなか、人々が行き交う。入れ替わり、立ち替わり主人公になり、その時その時を生き、そして死んでゆく。編集学校的に言えば、クロニクル編集術の歴象データのように、ある人が登場しある事件が起こる、その1回ずつがドラマティックな短い物語だ。
1回だけ登場する人もいれば、何度も何十年にもわたって登場する人もいる。その出自が明かされ、思いが綴られ、なぜ彼がそこに拳を打ち付けるのか、その信念が描かれる。満洲国をつくる日本人、それに抵抗する中国人。抑圧されている者、弱い者、残酷な者、暴力的な者、抜け目ない者、敬虔な者…どの人にも理屈があり、それには理由があることが描かれる。生まれ育ち、運・不運によって、そうなるようになったことが、しつこいほど書かれる(だから600ページにもなる)。残酷な憲兵の心には、つねに天皇陛下がいる。ダメな人間をつかまえて教化するのが使命だと心の底から信じている。 八路軍の指導者にとっては、生きることに精一杯で日和見主義な中国の民衆をまとめるために、洗脳のような方法をとるのは正義だ。五族協和という美しいスローガンを本気で描こうとして、中国人とともに生きる都市の建設を志した日本人もいた。
■満洲国こそが虚構であった
日本が満洲国という傀儡国家をつくったのは、日本の歴史の暗部である。学校で詳細に教わった記憶はないが、引き揚げの悲惨さはなんとなく聞き知った。その引き揚げの際に、かの地に残された子どもたちがのちに「中国残留日本人孤児」として来日し、肉親を探していたことはよく覚えている。来日した日本人孤児の顔写真がならんでいた新聞の紙面を、そのころ10代だった私はよく見ていた。吉林省や黒竜江省で親と別れたのだ。小さく添えられた手がかりの一つ一つを読んだ。
日本人が中国に、自分たちのもう一つの国をつくろうとした。もとからそこに住んでいた人の意向などおかまいなしに。いま考えればどうしてそんな図々しいことができたのかと思うが、当時の人々にはそうするべき理屈があり、それを信じられる理由があったのだ。とんでもない間違いでしたごめんなさい、と謝るだけではきっと足りない。そうせざるを得ないと信じ込んだのはなぜなのか、それを考えなければと思う。
満洲に渡った日本人は、一様ではない。日本人に抵抗した中国人も、日本人に加担した中国人も、もちろん一様ではない。その多様な人の多様な「こうするしかない」という思いと行動を、『地図と拳』は描いている。何十人にもおよぶキャラクターの人生と信念が同時に走り、ぶつかり合い、衝突して、崩壊する。複雑さこそが誠実さなのだ。
当時の日本人は、大陸に新しい美しい都市を建設することに燃えた。しかし、まっさらな土地があるなどということは、幻想だ。その土地はとっくに誰かに関係づけられている。そこに入りたかったら、その土地の霊に礼をつくさないといけないだろう。この本のワキとして全編に登場する細川は、満洲を五族協和ならぬ「七色の都市」と表現し、その土地の死者を一色に加えていた。そのような心持ちの日本人もきっといたと思いたい。が、その声はかき消された。日本人が、熱狂してつくった新しい国は、土地の霊に嫌われたがゆえに長く立っていられなかった。実のない虚構の国のために膨大な人命と資源、人々の悲しみが費やされたのだ。
読み解く際に使用した編集の型:
クロニクル編集術、IF-THEN、BPT(ベース・プロフィール・ターゲット)
型の特徴:
あることに関する年表をつくるということは、そのことを網羅すること。小さな出来事のパーツ(編集学校では歴象データという)を集めて並べるとそこに意味、流れが見えてくる。IF-THENという因果関係の網の存在が感じられてくる。そして出来事と出来事の間、年表の余白、記録のないところにプロフィールを描いてもゆける。
地図と拳
著者: 小川哲
出版社: 集英社
ISBN: 978-4-08-771801-0
発売日: 2022/6/24
単行本: 640ページ
サイズ: 13.4 x 4.6 x 19.4 cm
原田淳子
編集的先達:若桑みどり。姿勢が良すぎる、筋が通りすぎている破二代目学匠。優雅な音楽や舞台には恋慕を、高貴な文章や言葉に敬意を。かつて仕事で世にでる新刊すべてに目を通していた言語明晰な編集目利き。
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