おしゃべり病理医 編集ノート - コロナウイルスに「日本という方法」を!

03/28(土)09:11
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 コロナウイルスが流行してから、病院に訪れる外来患者さんの数が一時期減った。病院に不用意に出かけたら、コロナウイルスに感染するかもしれない、ということを心配する患者さんが増えていたようだ。
 
 国民皆保険に支えられた医療制度により、日本の各病院で提供される医療の質は、世界一の水準を誇る。「病気になると困るから病院に行くのはよそう」と思えるくらい気軽に病院を受診できるというのも日本くらいである。そんな日本の医療の現状は、諸外国からみても、そして歴史を振り返ってみても極めて例外的である。
 
 病院の歴史を調べてみようと思うと、意外に良書が少ない。医学の歴史については、アレクサンドリア図書館蒐集のヒポクラテス全集をはじめとした様々な文献や解剖学図譜など、豊富な史実に裏打ちされた本が多い。医学は、解剖学を軸として学問としての体系を整え、その後、中世の顕微鏡の発明を機に、細胞レベルで病態を観察できるようになり、病理学が発展した。さらに、ワトソンとクリックによる遺伝子の二重螺旋構造の発見は、分子生物学を一気に加速させ医学を様変わりさせた。マクロから超ミクロに舵を切った医学の変遷が、図説付きでわかりやすく紹介されている。
 
 わたしの手元にあるのは、もともと解剖学教授で医史学にも詳しい坂井建雄先生がおひとりでまとめた大著『図説 医学の歴史』(医学書院)や原書房からシリーズもので出ている『50の事物で知る図説医学の歴史』ほか、漫画を含めた数冊の医学の歴史本である。もちろんそれらには、病院の歴史も記載はされているのだが、病院は、つねにその時代の宗教や国家を含めた社会背景を「地」としているために、その通史を語るのはかなりの編集力がいるように思う。病院の歴史のみを取り上げた本がほとんどないのはそのためかもしれない。
 

図1:坂井建雄『図説 医学の歴史』医学書院、ギル・ポール『50の事物で知る図説医学の歴史』原書房
 
 
 「病院」という言葉は、戊辰戦争の前戦で初めて使われたらしい。それがしだいに英語のhospitalの訳語となる。hosipitalのhospitaという語幹は、客という意味があるため、hospitalは、本来、外来者用の宿泊施設を意味する。西洋のhosipitalは、中世においては教会に隣接する巡礼宿や、生活困窮者の収容施設として用いられることが多かった。
 
 病に苦しむ人が診断と治療を受けるための施設として、記録に残る最古のものは、紀元前420年ごろに建設されたといわれるギリシアの「アスクレピオン」で、医神アスクレピオスを祀るために建てられた施設である。古代ギリシアの港湾都市であるエピダウロスのアスクレピオンには、外科的な治療を受けた70人の患者の症例が記されているという。当時の外科的治療っていったいどんなことをやるんだろうと想像するとちょっとコワイ。
 
 325年の第一ニカイア公会議で、大聖堂のあるすべての都市に病院を建設することが定められた。651年には、パリの司教、聖ランドリーが、シテ島にパリ最初の病院「オテル・デュー」を創設した。オテル・デューは、「神の家」の意で、現在も開院している世界最古の病院といわれている。ただ、初期のオテル・デューは、貧困者や病人に食事と寝る場所を与えるのみであり、治療し、社会復帰させることは期待されていなかったようである。
 

図2:「オテル・デュー」shiroyuki.doorblog.jp
 
 日本でも仏教伝来以降、貧困者や病人のための救済施設がつくられた。奈良・平安時代に光明皇后の発願によって悲田院と施薬院が設立されている。イスラム世界においてもやはり8世紀ごろに「ビマリスタン」という施設が誕生し、様々な内科的、外科的治療が行われ、キリスト教の病院よりもはるかに多様な患者を受け入れていたという。弱者を救済するという重要な美徳として、キリスト教に限らず、イスラムも仏教も、ほぼ同時代に病院の母型となるものを運営していたことに驚く。
 
 再びヨーロッパに話を戻すと、さらに医療的なものが行われるようになったのは、中世以降になってからであり、1580年、医師が患者を週2回訪問することが義務付けられるようになった。しかし、病院の中は患者に溢れかえり、ひとつのベッドを何人もの患者が共有するありさまだったという。このころは、まだ貧困者と精神病者や感染症患者がともに収容されていたようである。
 
 病院がしだいに貧困者ではなく病気を治療するための場所となるのは、19世紀に入ってからで、1859年に、フローレンス・ナイチンゲールが看護師を養成する専門訓練施設の設立に貢献し、このことが病院としての基本的な在り方に大きな変化をもたらすことになる。しかし、当時は、病院はなおも感染症の巣窟のような危険なイメージがつきまとい、富裕層の人々は自宅で治療を受けることを望んだ。最新の治療を受けるために病院を訪れるようになったのは20世紀になってからのことである。「あら、あの人今日はいないわね、病気かしら?」と病院の待合室で和気あいあいと語れるような明るい病院のイメージは、ここ数十年の日本の病院に限ってのことかもしれない。そして、コロナウイルスパンデミックが生じている今はそんな日本の病院の日常も様変わりしてしまっている。
 

図3:「日本赤十字秋田看護大学の所蔵絵画」rcakita.ac.jp 左が光明皇后、右はナイチンゲール
 
 日本に西洋式の病院施設が誕生するのも明治時代になってからのことである。ちょうど、冒頭でご紹介した病院という言葉が使われ出したころと一致する。戊辰戦争で使われた病院旗は、順天堂大学に保存されているが、第3代当主の佐藤進が奥州追討陸軍病院の頭取に任命された際に用いたからである。ちなみにお茶の水にある順天堂大学附属の本院は、「順天堂醫院」という。病院という言葉は、病人を泊めておく場所を意味するが、治療の意味が本来ない。外科、内科、薬の意味を含む「醫」院にするべきだという第2代当主の佐藤尚中の提言による。
 

図4:「病院旗」順天堂大学所蔵
https://www.juntendo.ac.jp/corp/history/time/story1.html
 
 
 たしかに「病院」は歴史を振り返るとその大半は、治療施設というより、感染症患者の隔離が目的とされてきた側面が大きい。特に、病院とハンセン病の歴史はかなり重なるところがあるが、ハンセン病自体は、紀元前4000年ごろのエジプトのパピルスに記述があり、前320年代にアレクサンドロス大王の軍隊が東方から帰還したのちにヨーロッパにひろまったという。
 
 ハンセン病は、皮下の神経周囲に病巣ができることによって、顔貌や身体の形が崩れる症状が認められ、運動障害ももたらすことから、一般に神の呪いや罰によるものだと考えられ、患者は忌避されていた。それは日本でも同様であり、ハンセン病患者の隔離地区や隔離施設が人里離れた場所や島に設けられ、差別の対象となった。そのスティグマの歴史は、太田香保総匠も尽力されたLeprosy.jpのホームページに詳しいし、そこに良書もたくさん紹介されている。
 

図5:「ハンセン病」http://leprosy.jp/about/
 
 ハンセン病は病理学的には、抗酸菌の仲間であるらい菌による感染症である。結核も抗酸菌であり、同じような病理組織像を示す。らい菌は非常に感染力が弱く、有効な治療薬も登場したこともあり、日常の病理診断でハンセン病を見ることはほぼない。わたしも20年近く病理医をやっていて一度も見たことがないが、一方で、結核はいまだに年何回かは診断するし、病理解剖や術中迅速診断で一番気をつけなければならないのも結核である。解剖や迅速診断の手技や標本作製過程で、空気に舞った結核菌を吸い込む危険性が高いからである。病理医の肺結核罹患率は、一般の方の数百倍といわれる。病理解剖が毎日あった時代の先輩病理医は、病理医は肺結核にかかって一人前と言っていた。怖ろしい。
 
 抗酸菌は、マイコバクテリウム属の細菌の総称である。細胞壁に脂質が豊富なため通常のグラム染色では染まらず、菌を確認するには、抗酸菌染色という特殊な染色を用いる。いったん染まると強酸でも脱色されにくいことからこの名称がついた。
 

図6:「抗酸菌」
赤く染まっているのが抗酸菌。細長く少し曲がった形状をしている
 
 
 抗酸菌は、増殖のスピードが遅い弱毒の菌だが、免疫細胞の代表選手、マクロファージに貪食されても細胞質の中で生き延びて、増殖することが可能なタフな菌でもある。酸素の存在下で増殖する好気性の菌でもあるため、生体は菌を閉じ込めて酸素供給を断とうとし、肉芽腫(にくげしゅ)という病変を作る。ちょっと専門用語で難しいが、乾酪性類上皮細胞肉芽腫という。無数の類上皮細胞が抗酸菌を含んだマクロファージごと取り囲む。取り囲まれた部分は乾酪、すなわちチーズ様の形態を示す壊死物質が溜まる。らい菌や結核菌は、生体内においても“隔離”されることになる。
 

図7:「乾酪性類上皮細胞肉芽腫」
まわりの組織から区切られた肉芽腫。中心に壊死物質が溜まっている。
日本病理学会、病理コア画像より http://pathology.or.jp/corepictures2010/05/c11/03.html
 
 
 抗酸菌の病巣を見ていると社会と同じじゃないかと思う。抗酸菌たちは、ミクロレベルでもまわりから隔絶されている。弱毒の菌だから、免疫細胞は通常の細菌に対する攻撃と同じ戦法では菌を排除できない。代わりに、類上皮細胞という壁を作ることでまわりの組織と隔絶する方法を選択するのである。
 
 生体のしくみから、時に社会の様子に想いを馳せることが少なくない。マスクやトイレットペーパーの買い占めに代表されるようなコロナウイルスに関連した人々の反応は、過剰な免疫反応に見える。感染の爆発的広がりにより、都市封鎖をはじめとしたシビアな対応を各国はとらざるを得なくなり、そういった強い免疫反応によって、世界経済は破綻寸前の打撃を被り、その副作用の方がコロナウイルスそのものあるいはそれ以上のダメージを世界に与えているように思う。
 
 コロナウイルスによる重症肺炎は、びまん性肺胞傷害という病態による。この病態のトリガーは、コロナウイルスが肺胞上皮に感染することによるのだが、病態の進行と悪化は、過剰な免疫反応の結果に起因するところが大きい。感染した肺胞上皮は、免疫担当細胞によって攻撃を受ける。肺胞上皮の壊死によって、肺胞の壁はただれ、ぼろぼろになった肺胞の壁から浸出液が出てきて、硝子膜という物質を形成する。肺胞は直径5マイクロほどの超薄の構造をしていて、そこで空気と赤血球が壁越しに触れ合うことで酸素と二酸化炭素の交換をしている。硝子膜は糊のようにべったりと薄い肺胞壁に貼りつき、ガス交換を妨げる。これが呼吸不全の原因となる。
 
 
図8-1:「正常の肺組織」
図書館の個人読書スペースのように小さく区切られた場所が肺胞。
肺胞の壁はとても薄くて繊細である。
 

図8-2:「びまん性肺胞傷害」
肺胞の壁は厚くなり、リンパ球が浸潤している。
図の中央部、ピンクのべったりした物質が硝子膜。
日本病理学会、病理コア画像より http://pathology.or.jp/corepictures2010/05/c12/02.html
 
 
 過剰な免疫反応が生体の正常な働きや構造を破壊する様子。そしてそれをコントロールすることの難しさ。免疫反応を緩めれば、ウイルスの攻撃に負けてしまい、免疫反応を強めると組織傷害が進む。このジレンマは、今の世界の縮図である。
 
 重症ウイルス感染症の治療は、ウイルスの増殖をなんとか抑えつつも過剰な免疫反応が起こらないようにコントロールし、呼吸不全の原因となるびまん性肺胞傷害が進行しないように全身の管理をすることが重要である。
 
 疫学的な対策も、パンデミックをなるべく早く収束に向かわせることに尽力する一方、経済の打撃を最小限に食い止めることもまた同じくらい重要である。経済の著しい悪化は、医療状態の悪化にもつながる。
 
 病院の在り方やふるまいは、患者さん個人の治療と疫学対策、つまり個と類のジレンマを乗り越えるひとつのモデルになるべきだと思う。有事においても平常の病院機能は何事もなかったように運営される必要があり、個々の患者さんにとっては安心安全の宿であるとともに適切な治療を受けられる「醫院」であり続けなければならない。病院は、cureとcare、有事と平時、出と死、心と身体、デュアル・スタンダードの究極を模索し続ける必要がある。
 
 ハンセン病の歴史においても、患者が収容されていた場が救済の機能を有していた時代においては、一方的な差別の対象とはなっていなかった。いつからデュアル・スタンダードが失われたのか。
 
 日本という方法、ジャパン・スタイルが今こそ問われているように思う。満を持して、松岡正剛校長の『日本文化の核心』も発売された。恐怖や疑心暗鬼という感情もすさまじい感染力を持つ。ウイルスと負の感情、その両方を相手にするデュアルな感染制御。病院は、政府は、世界は、そしてわれわれ日本人はどうするか。
 

  • 小倉加奈子

    編集的先達:ナシーム・ニコラス・タレブ。病理医で、妻で、二児の母で、同居する親からみると娘、そして師範であり火元組。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。増刷中の近著作『おしゃべりながんの図鑑』の直筆イラストも必見。