おしゃべり病理医 編集ノート - 「ない」の襲来

2020/04/03(金)10:05
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 「見えない敵」「見えない恐怖」ウイルスを表現するうえでの常套句。たしかにウイルスは光学顕微鏡でも見えない。でも日常生活では細胞だって細菌だって見えないし、人の感情や明日生きているかどうかはもっと見えない。それなのにウイルスに限って、こんなに見えないことばかりが取りざたされるのはなぜだろう?
 
 コロナウイルスパンデミックは、「ない」の襲来ともいえる。ありそうもないと思っていた感染爆発が瞬く間に現実となり、マスクもない、病床も人工呼吸器も足りない、ウイルスの根本的治療法もない、学校も仕事もない…「ない」がこれだけ日常を席巻することなぞ、これまで経験したことは「ない」ように思う。
 
 イシス編集学校[守]の稽古で、“ないもの”を考える稽古がある。ないものには大きく3つある。1.必要がない 2.思いつかない 3.ありえない、の3つである。必要がないものは、断捨離のヒントになるし、経営コンサルティングにおける支出の無駄を省きましょうといったアドバイスのように、何かしら、“改善”のターゲットになりやすい気がする。思いつかないことに関しては、ビジネスチャンスになることもあるはずで、だれしも思いつかなかったけれど、潜在的にほしいなぁとか、あったらいいなぁとみんなに思われていたことを思いつくことは創発の第一歩だろう。それに比べて、ありえないことに関しては、じっくり腰を据えて考えることを怠ってきたのではないだろうか。それは物語のワールドモデルにはなりえても、現実問題としてどうとらえるか、という訓練がわたしたちには足りないのかもしれない。そもそもありえないと思っているのだから。これは、リスクをどうとらえるかという問題とも深く関係しているし、「想定外」という別の由々しき常套句にも行きつく。
 
 ないものばかりに囲まれると、あるものでその空白を埋めたくなるのが常である。もっともらしい理由だとか、納得しやすい解釈だとか、見通しが立ちそうな目標設定とか、そういった「あるものっぽいもの」で満たそうとする。編集は不足から生まれるというが、あまりに大きな不足は、それだけの編集力を要求するものである。大きな余地は編集力がないと持て余すことにもなる。
 
 わたしもふりかえると、ありえないことに遭遇すると不安になり、近くにある「あるものっぽいもの」を安易に手に取ってその穴に詰め込もうと必死になる傾向があるように思う。まるで、臭い物に蓋をするように。でも蓋をしてしまうと、閉じてしまう。思考が硬くなる。そうすると周囲の流れに乗って、食料の買い占めに向かったりしてしまうかもしれない。もっと編集的自由でありたい。
 
 では、どうするか。ジジェクや松岡校長は、方法による脱出が必要なのだという。

 われわれの認知活動や表現活動の根本に「ないものを代理するもの」があるということなのである。すなわちそこには、たえず「負」によって何かが補足され、何かが飽和されるようにはたらく関係が生じていると見るべきだということなのだ。
           654夜『幻想の感染』スラヴォイ・ジジェク
 
 ならば、何で代理するのか、ということにもっと注意のカーソルを向けた方がいい。そこにはたくさんの見方が必要になってくるだろう。日本という方法もそうだし、サイエンスの見方もある。ありえない事態に向かうなら、首尾一貫した合理的な考え方だけでは足りず、連想力を駆使して、様々な見方を試すことがいつも以上に必要だろう。肖る、誂える、借りる、まねる、重ねる、ずらす…。かさねの作法から量子力学まで。情報を乗せるお皿を自在に変えてみたい。
 
 わたしの日常でいえば、こうやってエディストに文章を書くために様々な医学以外の文献に触れることは、様々な見方に出会うチャンスである。それは、医療現場における先鋭化したリスク回避偏重の感覚を、いったんニュートラルなところに戻してくれることに役立っている。もちろん、子どもたちとの生活の中で、彼らの世の中を見る視点からヒントを得ることもあるし、職場においても感染対策の院内の取り組みに耳を傾けながら、ふだんと変わらずに粛々と病理診断を行っていくなかで、「ない」の襲来による見方の固定を回避できているようにも思う。
 
 松岡校長が711夜『ありそうもないこと』(今の状況にぴったりのタイトル!)で、言葉の本質についてこう語っている。
 
 言葉の本質というものはフランス語であれ日本語であれ、自身の外側に何かを投げ出すことによってしかその本質を他者に伝達できないということなのだ。
 
 エディストで連載をする、文章を書くという行為は、まさにわたしの外側に何かを投げ出すことである。そして、様々な見方を得た驚きや喜びや気づきは書くことによってはじめて、その本質が見えるように思う。もちろん読者のみなさんに伝達できるし、そもそも最初の読者はわたし自身だからだ。
 
 ここで引用した千夜千冊の文章の「言葉」の部分を「ウイルス」にも言い換えられることに気づく。ウイルスも感染することによってしか、その本質を伝達できないということだ。松岡校長は、ウイルスも情報であると捉える。いや、情報の乗り物、メディアであると見る。
 
 言葉もウイルスも情報の乗り物であるのだから、その乗り物の扱い方、すなわち方法に着目すべきだ。「ないもの」から何かを生み出す様々な見方にこそ感染し、その方法で、世の中に蔓延る陳腐な言葉やウイルスに対峙できたら、と思う。
 
ないもの編集

  • 小倉加奈子

    編集的先達:ブライアン・グリーン。病理医で、妻で、二児の母で、天然”じゅんちゃん”の娘、そしてイシス編集学校「析匠」。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。『おしゃべり病理医』シリーズ本の執筆から経産省STEAMライブラリー教材「おしゃべり病理医のMEdit Lab」開発し、順天堂大学内に「MEdit Lab 順天堂大学STEAM教育研究会」http://meditlab.jpを発足。野望は、編集工学パンデミック。