おしゃべり病理医 編集ノート - ユニークな小よく大を制す

2020/05/19(火)10:58
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 イグ・ノーベル賞をご存知だろうか。「イグ=ig」というのは、否定を表す接頭辞であり、かつ、「ignoble」には、「恥ずべき、不名誉な、下劣な」の意味がある。イグ・ノーベル賞とは、人々を笑わせ、そして考えさせてくれる業績を讃えて授与されるノーベル賞のパロディー版である。賞金は、10兆ジンバブエドル(ジンバブエドルはハイパーインフレの後、2015年に廃止され、通貨としては使えない)。パロディー満載の授賞式は、動画サイトで鑑賞できる。
 
 イグ・ノーベル賞には日本人が13年連続で受賞しているとか。本当に誇らしい。「小さきもの」を「いとうつくし」と愛でてきた日本人だからこその偉業だろう。2019年のイグ・ノーベル賞に輝いた日本の研究は、「5歳児の1日当たりの唾液分泌量の測定」である。見事、化学賞を受賞している。イグ・ノーベル賞は、各部門に分かれ、2019年は、10の研究が受賞した。医学賞、医学教育賞、生物学賞、解剖学賞、化学賞、工学賞、経済学賞、平和賞、心理学賞、物理学賞である。選考には、ノーベル賞受賞者を含むハーバード大学やマサチューセッツ工科大学の教授らが関わる。「イグ」とはいえ、複数の選考委員会を経て厳選に行われる審査体制に、パロディーを尊重する姿勢が垣間見えてとても好ましい。
 
 わたしが2019年の受賞研究の中で注目したのは、トルコ、オランダ、ドイツの研究者が経済学賞を受賞した「どの国の紙幣が病原菌を運ぶのにもっとも効果的であるかを調べた研究」である。論文タイトルは、「Money and Transmission of Bacteria」である。なぜ医学賞じゃないのだろう?紙幣を使っているから経済学賞…なのか?
 
 ちなみに医学賞は、イタリアの研究者たちによる「イタリアで作られたピザをイタリアで食べた場合は、ピザが病死を防ぐかもしれない証拠を集めた研究」に対して授与されている。なぜこちらが医学賞なのか、パロディーが効きすぎていて、意味が分からない。さすがイグ・ノーベル賞である。気になったので、イグ・ノーベル賞の公式サイトから、経済学賞の論文にアクセスして読んでみた。とても真面目に研究されていた。3ページの短めの論文であるが、3つのTableが提示され、Material and MethodもResultもDiscussionもしっかりしている。
 
 7種類の紙幣が用意され、同じ条件下でMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)、VRE(バンコマイシン耐性腸球菌)、ESBL+E.coli(基質特異性拡張型βラクタマーゼ産生大腸菌)の院内感染でよく問題になる3つの多剤耐性細菌が、紙幣の上でどれだけ生存できるかを観察している。さらに、紙幣を触った人の指にどれだけの細菌がくっつくかも見ている。
 
 検索した7種類の紙幣の中、もっとも細菌の生息率が高かったのは、ルーマニアのRON紙幣であった。1日放置してもMRSAがルーマニアの紙幣のみから検出され、ルーマニア紙幣を触った被験者の手には大腸菌もブドウ球菌もくっついていた。一方で、ユーロ紙幣やクロアチアのクナ紙幣は、クリーンな結果になっている。
 
 彼らはその研究結果を踏まえて、紙幣に用いられている綿線維に混ぜ込むポリマーの成分によって細菌の生息率が異なることを推測している。考察はわりとあっさりしているが、紙幣の製造過程に関しては国家の機密情報でもあるので、あまり詳しいところまで検索するのは難しかったのかもしれない。
 
 面白かった。どんな感染症においても「接触感染」は最も重要な感染経路で、グローバル化社会において、世界中に流通している貨幣に着目したのは慧眼だったし、タイムリーでもあった。イグ・ノーベル賞は、COVID-19パンデミックを予期していたのだろうか。
 
 昨今の医学研究は、ゲノム医療の推進によって、ビッグデータがものをいう時代に突入している。多施設共同研究が進み、症例数が多く、かつ、その研究が治療に直結するものでないとなかなか研究費も下りない。ひとりの研究者だけで完結する研究はほとんどなくなり、ひとつの論文を書くのに多くの研究費と時間を費やさざるを得なくなっている。グローバル化の流れのなかで、研究規模もどんどん肥大しているのである。
 
 そんななか、新型コロナの感染爆発によってグローバル資本主義の欠陥が一挙に噴き出している。GAFAに代表される大きなものが、直径100ナノメートルの小さきウイルスにやられている。
 
 千夜千冊1539夜『ビッグの終焉』においても大きいものの限界については取り上げられていた。松岡校長もこう指摘する。
 
 ぼくが思うには、「小さいもの」が山椒のようにピリリと効くには、そもそも「大」との葛藤や闘争とは別なところで価値をつくりだす
ことに、あえて勤しむべきなのだ。
 
 大きい研究ほど信頼度が高い、という流れが強すぎるように思う。イグ・ノーベル賞はまさに、別の次元で価値や評価を創出する、小さな研究を讃える賞なのだと感じる。今回取り上げた研究も、規模的には小さく、統計的な検討も乏しく、今の研究の常識から考えると不足いっぱいなのである。でも、大きいものに十分対抗できるピリリとした研究である。
 
 さらに同千夜には、こうある。
 
 本書が新たな「小」の主役としたがっているのは「ラディカル・コネクティビティ」なのである。電子ネットワークの「根っこ」(radical)で互いにつながっていく相互連接力(connectivity)だ。本書はこれを新しい「小」だと主張する。
 
 コネクティビティといえば、過去のイグ・ノーベル賞に粘菌のネットワークを研究したものもあった。
 中垣俊之先生は、粘菌の研究で2回もイグ・ノーベル賞を受賞し、科学者が憧れる雑誌「ネイチャー」にも粘菌論文が掲載されている。最初にイグ・ノーベル賞を受賞した研究テーマは、「単細胞生物の真正粘菌にパズルを解く能力があったことを発見したことに対して」(認知科学賞)である。また、2010年では、「粘菌を使って鉄道網の最適な路線を設計できることを示したことに対して」の研究で、交通計画賞を受賞している。 
 
 中垣先生の研究自体も研究対象の粘菌も、小さくて柔らかい。アフターコロナ時代におけるラディカル・コネクティビティは、狭くてとんがった逸脱に向かっても、大きさには対抗できないだろう。時に惑いつつも柔らかく、どこまでも触手を伸ばすような粘菌的逸脱が求められるだろう。

 大きい資本主義の余地や隙間に、融通無碍に広がっていくラディカルでユニークな小を目指したい。

◆参考文献
中垣俊之『粘菌 その驚くべき知性』PHPサイエンス・ワールド新書
 
◆おすすめの粘菌図鑑
松本淳=解説、井沢正名=写真『粘菌~驚くべき生命力の謎』誠文堂新光社
~好雪性粘菌という粘菌がとても美しいとおぐらは思っています。
 
◆イグ・ノーベル賞公式ホームページ
https://www.improbable.com/ig-about/
 
◆2019年イグ・ノーベル経済学賞受賞の論文
Money and Transmission of Bacteria. Gedik H, Voss TA, Voss A.
Antimicrobial Resistance and Infection Control, 2013, 2:22.
https://aricjournal.biomedcentral.com/track/pdf/10.1186/2047-2994-2-22
 
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  • 小倉加奈子

    編集的先達:ブライアン・グリーン。病理医で、妻で、二児の母で、天然”じゅんちゃん”の娘、そしてイシス編集学校「析匠」。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。『おしゃべり病理医』シリーズ本の執筆から経産省STEAMライブラリー教材「おしゃべり病理医のMEdit Lab」開発し、順天堂大学内に「MEdit Lab 順天堂大学STEAM教育研究会」http://meditlab.jpを発足。野望は、編集工学パンデミック。