おしゃべり病理医 編集ノート - プレゼンスは、それまでの全プレゼンの編集である

10/07(水)10:30
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■編集学校の生き物っぽさ

 

 イシス編集学校の類まれなる特徴は、“お題-回答-指南”の応酬の中で、思いがけない多様な関係性が瞬く間に創発すること。そして、自分の考察をふりかえらせるしくみにある、と、[守]の鈴木康代学匠が端的に話されていた。

 

 康代学匠は、どのような場においても、人々の間に生じた物事を的確に言葉にできる。場で起こっていることに対する瞬時の把握力は、鋭いのにどこまでもやわらかい。まわりにいる人を抱き留める。

 

 まさに、康代学匠が話されたふたつの特徴こそ、イシス編集学校を唯一無二の学校にし、今現在、様々な企業や教育現場から、そのしくみについて注目されている所以だろうし、編集学校の生き物っぽさも、ここにあるだろう。

 

 生き物っぽさとは、躍動的自律性である。福岡伸一さんのいう動的平衡性ともいえるだろう。あらゆるものを生き物っぽく捉えたのがホワイトヘッドで、その哲学は「有機的世界観」に基づいている。

 

■ホワイトヘッドの哲学

 

 わたしたちの身の回りにあるモノすべては、固定されたモノというより存在しているコト、という「状態」でそこにある。あらゆるコトが、つねに進行した状態として存在していることを「活動的存在(actual entity)」という。そうして、その存在は、そのつど「抱握(prehension)」というしかたで、それを認識するわたしと密接にかかわる。

 

 一瞬一瞬のうちに過去になっていく「活動的存在」は、つねに「抱握」という方法で、今の「活動的存在」とかかわる。そのように、あらゆるコトは、連続しつつ切断され、切断されつつ連続し、つねにそのつどのプレゼンスを形作る。過程が実在であり、実在が過程となる。

 

 千夜千冊にも紹介されている中村昇さんの『ホワイトヘッドの哲学』は、ホワイトヘッドの入門書として最適である。本書の冒頭近くに、松岡校長がホワイトヘッドの哲学をピッチング・マシーンのメタファーを使っていかにうまく説明したかという話が登場する。松岡正剛というひとは、本質を見抜く独特の能力を持っているのだと驚いたとある。中村昇さんの本は、ウィトゲンシュタインの解説本も面白いし、『落語-哲学』というユニークな切り口の本もある(落語好きの方はぜひ)。

 

 千夜千冊には、もうひとつホワイトヘッドの本が取り上げられていて、それはまさにホワイトヘッドそのひとの本『過程と実在』である。校長の案内によって、難解かつ抽象的と評価されてきたホワイトヘッドの思索がとても編集工学的に言い替えられ、読みやすくなっている。

 

 ホワイトヘッドは、つねに哲学というのは自己矯正のためにあると言っていたという。そして哲学の自己矯正力が他の学問や社会に還元されていないことに忸怩たる思いをもっていたようで、その告発文あるいは告白文が『過程と実在』の序文に9か条として載っている。さらにそれを千夜千冊では松岡校長が編集的に言い替えている。

 

1 考えるべきだ。「そりゃ、考えすぎだよ」という友人や知人の非難を撥ねのけること。
2 言葉を使い尽くしたほうがいい。そうしたら囚われていた主題から解放される。
3 能力はスキルアップの鍛練からしか生まれない。心の問題はカンケーない。
4 「私は」という主語をはずして、述語に入ってしまうほうがいい。
5 感覚や知覚は、モノに託してみるべきだ。買い物で得たモノ以外で、大切にできるモノをつくりなさい。
6 想像しているだけのことが多すぎるので、そんなにも困惑しているのである。
7 何かについて純粋であると思うことは、そのことを純粋から遠のかせるばかりになる。
8 「逆説的に言うとねえ」という言い方をやめなさい。そういうときは何も主張がないだけなのだから。
9 理屈っぽくなったときは、その理屈を途中からではなく、最初から捨てること。

 

 物事がなんだかうまく運ばないと思ったときに、この9か条を再読して、ハッとさせられることが少なくない。だいたい自分の信念(と思っていることが要因の頑なな思い込みや視点)に固執していることに気づいて、自分から自由になれる。

 

■オーソリティーに負けないオリジナリティ

 

 20周年の感門之盟の最後の最後、松岡正剛校長は、「編集工学は来年の春までにかなり注目されるだろう」と述べつつ、オリジナリティには、オーソリティーが必ず邪魔をしてくると言及した。イシス編集学校にはまだそれが起きていないとも。

 

 オーソリティーの邪魔に負けないために、イシス編集学校を葛飾北斎やジャコメッティやフーコーなどに一度代入してみなさいというヒントをくれた。どんなものを地にしてもイシス編集学校を語れるように。それは、方法だけが残るということであろう。

 

 松岡校長はさらに、「プレゼンスは、それまでの全プレゼンスの編集である」ということをホワイトヘッドから学んだという。過程が実在であること。方法が本質であるということ。
 
 葛飾北斎の中の“編集学校性”を説明するということは、その北斎の動的な情報の流れを編集学校に一度見立ててみること。そして、全プレゼンスの結集である北斎の絵画を方法的に観察できるようになるということであろう。

 

 イシス編集学校では、「学びが、それまでの全学びの総体になる」しくみが備わっている。学衆として教わったことを、今度は師範代として、さあ教えよう!と思っても、結局それは、「師範代として教わる」ということにほかならないことを実感する。学びという観点において、述語的には何も変わらない状態が円環しているのがイシス編集学校ではないだろうか。

 

 そんな稀有なイシス編集学校に類似した学びの場を世の中に発信していくなら、編集学校での学びの全プロセスにフィードバックをかけられるかが勝負となる。全プロセスを引き受けるという覚悟が必要になってくる。

 

 いずれにしても松岡校長がそういったことを口にするということは、イシス編集学校が20周年を迎えて、ついにオーソリティーと対峙するフェーズに来たということだろう。いよいよネクスト・イシスは正念場を迎えているということなのだろう。

 

活動的存在


  • 小倉加奈子

    編集的先達:ナシーム・ニコラス・タレブ。病理医で、妻で、二児の母で、同居する親からみると娘、そして師範であり火元組。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。増刷中の近著作『おしゃべりながんの図鑑』の直筆イラストも必見。