おしゃべり病理医 編集ノート - ツッカムにみる松岡正剛の対談編集力

06/30(火)10:50 img
img
 ある会で松岡校長に「おぐらの発言はつまらない」と叱られたことがある。ガーン!とショックを受ける中、社会学者の大澤真幸さんの次の言葉をたちまち思い出した。
 
 面白いってことはすごく重要だって思う。つまりね、本質的なことは面白いんです。どうして面白いかっていうと、開放感があるからですよね。つまらないけど大事な話、というのは少ないんですよ。
                第3回IS&IS講 会議録より
 
 わたしの発言は、本質的でなくて、閉じている、ということを指摘されたのである。編集とは、別様の可能性に向かうこと。編集的自由に向かうことである。つまらないということは編集的ではない。編集稽古に不正解はないけれど、そのときのわたしの発言は、全然創発的ではなく、大事でもなかった。「つまらない、つまらないわたし…」と心の中でつまらないがしばらくリフレインした。なんとなく失恋したような気持になった。
 
 日々、面白がっていたいし、面白がらせたい。まわりの大切なひとを笑顔にしたい。面白がったり面白がらせる力というのは、アフターコロナを生き抜くうえでかなり重要なんじゃないかと思う。そして、この面白さの「目盛り」あるいは「スコア」というものは、新しい疑問がどのくらい沸き起こるかということなのではないか。対話力、編集的に表現するところのエディティング・モデルを交換する力とは、相手にたくさんのわくわくする問いをもたらすことができる力と言い替えられるように思う。
 
 YouTube番組『ツッカム正剛』に出演させていただいた。1月下旬から2月までその対談内容が5回にわけられ公開された。松岡校長とこんなにもじっくり対話ができたことはとんでもなく貴重な経験だったと思う。収録直後から日を開けて改めて編集された対談をメタな視点で観察すると、校長の徹底した用意だけではなく、「連想応答力」とも呼ぶべき対談編集力に気づく。
 
 どんなゲストであっても、校長の様々な問いに乗せられる形で、連想に身をゆだねる自由を得ていく。今、教育現場で叫ばれているアクティブ・ラーニングが目指すのは、この「連想応答力」を生徒だけでなく先生も養っていくことなんじゃないかと感じる。
 
 番組ディレクターの角田陽一郎さんにどんな部分に留意して編集されているのか、番組公開後に伺った。角田さんは、話者のメッセージが編集によってクリアになることを徹底されているのだそうだ。発言の一部だけを切り取られて、全くニュアンスが異なるメッセージに編集されていた、という不信感がないように配慮してくださっていたのである。たしかに、実際の対談は、もっと冗長な言い回しがあったと思うが、無駄な枝葉を少しだけカットしたり、つなげ方を変える試みによって、メッセージがよりクリアになっていた。角田さんの素晴らしい編集に感謝する。その一方で、編集のあるなしにかかわらず、やはり校長の対談における「文脈の興し方」には、編集工学のヒントが存分に潜んで
いることも再確認した。
 
 「昔から絵を描くことは好きだったの?」という校長の問いから対談ははじまった。「あ、そこから聞かれるんだなぁ」と思いつつ話しはじめたが、病理診断へと進む対談の地ならしがそこで行われていたように思う。
 
 ちなみに対談前の打ち合わせは、わずか数分。収録日の前日に発売された千夜千冊エディション『編集力』と、わたしの『おしゃべりながんの図鑑』を行ったり来たりしながら話をしようか、というだいたいの流れだけを示された。大きな方向性を示してもらっての対談スタート。細かな打ち合わせがないから、その分、たくさんの余地ができていた。
 
 「昔から絵を描くことが好きだったの?」という問いは、「おさな心と数寄」という「編集的自己」にとってベースとなる部分に直結する。編集稽古では、推論の型として、BPT「ベース・プロフィール・ターゲット」を学ぶが、そのベースの部分から対談がはじまったということである。どんなひとにとっても、幼いころに夢中になったことが、その後どんな活動においても通奏低音のように響いているものである。
 
 小さくて精巧で美しいものに子どものころから惹かれていた。絵や彫刻や葉っぱだとかに、瞳のピント調節が可能な限り近づいて観察するクセもあった。そうすると鼻先はほとんど対象にくっつくことになり、自然と匂いフェチにもなった。文字、特に漢字を至近距離で見ていると、しだいに何か別の図形や紋様に見えてきて、意味が分からず読めなくなる不思議な現象をひっそり楽しんだりした。幼いわたしにとって、小腸の微絨毛のひだひだとバレエの先生の指先の動かし方はどちらも同じように美しかった。
 
 これらの幼い日々の体験は、今現在も日常のあらゆるところにつながっているように思う。
 たとえば顕微鏡を操作するときの指先の動かし方。段落や文字間隔など、かたちに注意のカーソルが向かう本の読み方。小腸の微絨毛にかぎらず、肝臓の類洞構造とか腎臓の糸球体とか胃底腺の層構造の美しさとかに始終心ときめくことなど。おさな心という網目の中に、色々なものが通過していき、その中で引っ掛かったモノやコトによって、おとなのわたしが創られていくのかもしれない。みなさんはどうでしょうか。
 
 わたしという存在のベースに関わる問いを最初に投げかけられたわけだが、その後の対談においては明確なQが出される頻度がどんどん減っていった。たとえば第4回「細胞と共感覚」では、わたしの顕微鏡感覚の話のあとに、校長はいきなり「今、筋肉女子のように」と、いったいなんの話なのかと思うようなたとえ話を始める。校長の連想が加速し、話の展開が速く深くなっていく。足取りがどんどん速くなるので、追いかけるのに必死になる。すると、面白い現象が頭の中で起きた。勝手にわたしの中でたくさんの新しいQが生まれるのである。校長の話に追いつこうとしつつも、自分のQに驚きながらそのQ自体にも応えるようなかたちで会話が進んでいく。
 
 これこそが、BPTのP(プロフィール)を揺らすことなんだと知った。対談は、病理学と編集工学のアイダをつなぐものに向かっていたと思うが、その道筋が幾重にも広がっていた。バーチャルスライドを使った肺がん病理の話、がんの体験談、身体と心、夢日記、細胞と言葉、暗黙知、共感覚とクオリア、そして類似と相似といった多様なプロフィール。校長のナビゲートで、BPTはこんなにも豊かになるのだと感動した。
 
 他のゲストの回も校長の「連想応答力」という視点で再度視聴してみた。ゲストによって全く異なる方法がとられていることに改めて驚く。エディティング・モデルを交換する相手によって、校長は「問・感・応・答・返」を自在に変えていたのである。
 
 マキタ・スポーツさんの場合は、マキタさんが自らずんずん話を進める方であるし、持ちネタもたくさんあるので、それに最低限の相槌を打つことでマキタさんの連想をそっとサポートしている。マキタさんもご自分の中で新しいQが生まれる症状に驚いている様子だった。
 
 対照的なのは、為末大さんの回である。為末さんは、話す内容や言葉をじっくり選ぶ方なので、松岡校長がご自分の話をされて、時折、短めの問いを為末さんに投げかける形で対談が進む。「最近、身体はどう?」とか、「ねじるのは自然なの?」とか。その方が為末さんの回答に光が当たる。
 
 ゲストについても「連想応答力」という点で拝見していたが、AR三兄弟の川田さんがさすがだった。校長にQを差し出す難しさを痛感していただけに、川田さんのように、自分の実体験を語りながら校長にQを投げかけていく、という方法に学びたいと思った。
 
 松岡校長の対談における連想応答力は、伝習座やHCU、そして感門之盟などのプランニング自体にも見いだせる。「相手の連想を加速させ、問いを引き出す応接間」づくりをつねに考えている。リアルであろうとオンラインであろうと、相手が政治家だろうと研究者だろうとダンサーだろうとそこはぶれない。参加者は、校長の編集によっておおいに面白がることができる。
 
 つまらないと言われ、失恋したような気持ちで帰宅するのは嫌だなぁと思ったわたしは、「リベンジさせてください」と、再度発言をしたが、やっぱり、つまらない発言を重ねることになり、「半分しかリベンジできてないよ」と、残りはおあずけとなった。うううっ、次こそは~!と期待感と敗北感が交じり合った不思議な感情を抱いて帰宅した。
 
 コロナウイルス騒動が解消し、リアルにお会いできた暁には、校長を面白がせたい。あ、オンラインでも面白がらせるのは可能だな。とにかくそれまでは、家族を面白がらせ、職場のみんなと病理診断を面白がり、遊刊エディストを読んだり書いたりしながら、たくさんのQを育み、連想応答力を磨いておきたい。
 
 
ツッカム正剛における対話の流れ。ベースとなる最初のQ&Aからプロフィールが多様に広がる。それらは結果的に、大きなターゲットへと向かう。対話における編集術である。

  • 小倉加奈子

    編集的先達:ナシーム・ニコラス・タレブ。病理医で、妻で、二児の母で、同居する親からみると娘、そして師範であり火元組。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。増刷中の近著作『おしゃべりながんの図鑑』の直筆イラストも必見。