「運命」の音を聴く(下) OTASIS-20

2020/09/16(水)10:36
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音楽の先生はヘレン好き?

 

 『ハワーズ・エンド』が「運命」の聴き方によって絶妙に人物を類型化しているということを知らせてくれたのは、阪井恵さんという音楽教育の先生である。阪井先生とは、尺八演奏家の中村明一さんの縁で知り合い、たまにメールをやりとりし、お会いして音楽のことや本のことなどを交わすといった、ほたほたしたお付き合いをさせていただいている。幅広い好奇心をお持ちで物腰がとても柔らかく、話していると温かく心地のよい音楽愛がじんわりと伝わってくる先生なのだ。

 

 あるとき阪井先生が、同僚の有志の先生方と共同編集した『接続』という雑誌を、どさっと送ってくださった。「ジェンダーの地平」「環境というトポス」「ひらかれた身体」「マルチチュードの可能性」といった意欲的な特集テーマを組んで、年に1回発行していたものらしい。世界読書派としてはそそられるテーマの論文が目白押しで、なかでも2008年発行の「言語と教育」特集にあった阪井先生の「音楽が『分かる』ための鑑賞指導とその必要性」という論文に惹きつけられた。『ハワーズ・エンド』のことはそこに書かれていた。

 

 もともとキヴィというアメリカの音楽美学者が『ハワーズ・エンド』をつかって鑑賞者のプロトタイプ分けをしたのだという。阪井先生はそれを紹介しつつ、原作からの引用に独自の注釈も加えて4人の聴き方の違いを説明したうえで、「音楽が分かる」とはどういうことなのか、音楽をどう分からせていくことが理想的な音楽教育なのかということについて、かなり突っ込んだ考察をしていた。

 

 阪井先生は、日本の学校音楽教育の現場では、もっぱら「ヘレンの聴き方」、つまり音楽を聴きながら想像力をはたらかせて物語やキャラクターを思い描き、それを言語化して発表するということが奨励されてきたと指摘する。また、小学校の音楽の学習指導要領や、各社の音楽の教科書をつぶさに調べてみると、もっぱら「ヘレンの聴き方しか要求しない」ような教材曲が選定されてきたたという実情があるらしい。

 

 けれども、「ヘレンの聴き方」だけでは限界があるのではないか。音楽教育という観点でみれば、そのやり方では世界中で人間の文化活動として産み出されてきた多様な音楽を理解するために必要な手掛かりを与えられないのではないか。またみずから音楽活動をしていくときの思考方法が養われなくなるのではないか。そう、阪井先生は問題提起していた。

 

 

「ヴァルキューレ」の爆音に何を思うか

 

 対位法がわかるティビーがうらやましいマーガレットタイプの私は、「我が意を得たり」とばかりに、阪井先生に共感のメールをお送りした。ところが先生は、「あれから少し考えが変わってしまいまして」と言って、「音楽鑑賞教育」という季刊誌に掲載された新しい論文を送ってくださった。「音楽授業における『知覚と感受』の考え方」というもので、そこではワーグナーの『ヴァルキューレの騎行』を題材にしながら、音楽から受け取る感覚的な情報の重要性が説かれ、漠然とした知覚情報から多様な音楽のロジックへの気付きを促すことが音楽教育のめざすべき方向であることが示唆されていた。

 

 阪井先生がいまではすっかり「ヘレン派」になってしまってたらどうしようと、ドキドキしながら読みはじめたが、そういうことではないらしい。先生は「聴こえ方」から「聴き方」を引き出すという「方法」の重要性を説いていたのだ。ということはあれれ、これって、「見え方」から「見方」を引き出す編集工学そのものじゃないか。またしても「我が意を得たり」、である。

 

 それで考えたのだが、たとえば私にとって『ヴァルキューレ』といえば、コッポラ監督の『地獄の黙示録』の武装ヘリの襲撃シーンの音楽以外の何物でもなくなっている。コッポラの音楽使いがあまりにも強烈すぎて、『ヴァルキューレ』を聴けば必ず、海上を低空飛行してやってくるヘリやナパーム弾によって燃えあがるジャンルの映像が浮んでしまうのだ(あの映画をスクリーンで見た世代はきっとみんなそうだろう)。

 

 これはいわば、コッポラによる音楽のヘレン的使用法ともいうべきで、そのインパクトがあまりに強いと、ほかの「聴こえ方」がいっさいかき消されてしまうほどの破壊力になりうるという例ではないだろうか。

 

 『地獄の黙示録』は極端すぎる例かもしれない。でも、「聴こえ方」は「見え方」と同様、ともするとヘレン的他者の影響を受けやすいものではないかと思うし、とりわけ有名なクラシック音楽ともなると、すでにたくさんのヘレンたちの勝手でステレオタイプなイメージが糊塗されすぎていて(交響曲「運命」なんていまやその最たるものだろう)、なかなかそれを剥いで自分の「聴こえ方」に耳済ますことが難しいように思うのだ。

 

 悩めるマーガレットとしては、やっぱりどうしても多様な音楽のロジックへの入り口を示してくれるよき「先生」がほしい、そういう先生とほたほたと会話をしながら、自分の「聴こえ方」を澄ませて音楽に入り直してみたいものだと願わずにいられないのである。

 

 

 

おまけ②本稿の画像もカンディンスキーのコンポジション。私が想う『ヴァルキューレ』ぽいものを選んでみた。やっぱりナパーム弾めいているような。

 

おまけ③:東京新聞夕刊でつい先日まで、「つのだ☆ひろ」が「この道」という自伝を連載していた。つのだ☆ひろなんて「メリー・ジェーンをシャウトするドラマー」ということくらいしか知っちゃいかなかったが、言葉の端々に音楽の方法論への強い思いと意志があふれているのに惹かれて、ずっと読み続けていた。連載終了後に松岡にその話をしたところ、やはり愛読していたという。「ミスチルしか聞かない若者の音楽は深みがない、って書いてたのは最高だったね」「素人の的外れのコメントが音楽をダメにしているとも言ってましたよ」などと言い合って、おおいに盛り上がった。やっぱり、聴き方・見方には、読み方同様に、よい師が必要なのだ。


  • 太田香保

    編集的先達:レナード・バーンスタイン。慶応大学司書からいまや松岡正剛のビブリオテカールに。事務所にピアノを持ちこみ、楽譜を通してのインタースコア実践にいとまがない。離学衆全てが直立不動になる絶対的な総匠。

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