本の映画の人間人形化計画 OTASIS‐27

2022/02/26(土)08:31 img
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■本のような映画・雑誌のような映画

 

 松岡正剛はかつて「映画のように本をつくりたい」を口癖にしていた。ピーター・グリーナウェイがシェイクスピアの『テンペスト』を換骨奪胎した《プロスペローの本》を世に問うた時には、「やられたよ」と唸ってばかりいた。国を追われて絶海の孤島に逼塞するプロスペローが、魔法の杖ならぬ24冊の魔法の本を繙きながら復讐劇を妄想するという映画である。その24冊の本にグリーナウェイの映像術(マジック)がふんだんに込められていた。「映画のようにつくられた本、のようにつくられた映画」とも言いたいような、本と映画の相互侵犯が超絶的に官能的に仕組まれた作品だった。松岡はよほど悔しかったのか、それともグリーナウェイと共振しすぎてしまったのか、以来「映画のような本」はあまり話題にしなくなった。

 

 そんな松岡がひさびさに唸り、共振しまくりそうな映画がやってきた。ウェス・アンダーソン監督の《フレンチ・ディスパッチ》である。こちらはアメリカの老舗総合雑誌「ザ・ニューヨーカー」をモデルにしていて、「雑誌のような映画」もしくは「映画のようにつくられた雑誌、のようにつくられた映画」である。アメリカ人であるアンダーソン監督がフランス映画愛もふんだんに混ぜ込んでポップに仕上げているために、「フランス映画のようにつくられた雑誌、のようにつくられたアメリカ映画」にもなっている。

 

 ウェス・アンダーソン監督は、とてつもなくマニアックな映画づくりで知られる。長らく一部の好事家だけに支持されていたようだが、2014年の《グランド・ブダペスト・ホテル》のヒットによって日本でも多くのファンを持つようになった。私もこの映画で、アンダーソン監督のファンタジックで荒唐無稽なストーリー展開、技巧的でアーティスティックな演出と画面づくりにすっかり惚れ込んだ。日本文化好きでもあって、2018年には日本を舞台にしたストップモーションアニメ《犬ヶ島》を発表している。

 

 《フレンチ・ディスパッチ》は略称で、正式タイトルは《フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊》である。「フレンチ・ディスパッチ」は、アメリカのカンザス州リバティで発行される新聞「カンザス・イヴニング・サン」の別冊として、フランスを拠点につくられている雑誌という、なんだかややこしい設定なのである。都市名も新聞名もすべて架空であるが、「リバティ」という名にはアンダーソン監督の粋な策略が込められているのだろう。この架空のトポスこそが「なんでもあり」の雑誌であり映画であることを保証しているのだ。

 

 案の定、その込み入った設定の雑誌の編集長(演:ビル・マーレイ)は、映画が始まるやいなや心臓麻痺のため急死してしまい、遺言によってただちに雑誌の廃刊が決まる。そのあとは、4人の個性豊かなライターたちが、編集長への追悼を込めて最終号のために書き上げた記事の内容を、それぞれの勝手な流儀で紹介していくというスタイルで本編が展開していく。

 

 いずれの記事も亡き編集長の〝人情〟をうかがわせるエピソードを添えているが、相互にはなんのつながりもない。映画の本編をまるごと雑誌に見立てるとともに、その中心に「不在の編集長」を置くことで、堂々とバラバラな主題の話をオムニバス形式でつなぐという離れ業を成立させているのである。もちろん、その個々の「記事」の内容は、いずれ劣らず荒唐無稽で奇想天外、まるでアンダーソン映画の見本市のような趣がある。

 

■オブジェ・カラクリ・人間人形

 

 アンダーソン監督は俳優陣にも人気があるのか、《フレンチ・ディスパッチ》には、オーウェン・ウィルソン、ベニチオ・デル・トロ、エイドリアン・ブロディ、ティルダ・スウィントン、レア・セドゥ、フランシス・マクドーマンド、ティモシー・シャラメ、ジェフリー・ライト、マチュー・アマルリック、エドワード・ノートン、スティーブン・パークといった主役級の俳優たちがこれでもかというほどにゾロゾロと登場する(そのうちの何人かはアンダーソン映画の常連)。チョイ役にもウィレム・デフォーやシアーシャ・ローナンのような芸達者があてがわれている。

 

 一方、画面作りは、どのシーンをとってもシンメトリーにこだわった不自然な絵画的構図や、リアルさをあえて排除するかのような模型っぽさに徹している。そのせいで、絢爛豪華な俳優たちが、あたかも絵画のなかの人物やフィギュアのように、ただ画面のなかに「置かれている」かのように存在することになる。エモーショナルな演技もあまりない。《グランド・ブダペスト・ホテル》にもその傾向があったのだが、《フレンチ・ディスパッチ》では「雑誌」という二次元の世界を設定に入れたことで、ますます画面の平面化と模型化が極端なまでに徹底されているようだ。

 

 私が思うに、おそらくアンダーソン監督には、松岡正剛と共通する「人間人形感覚」や「人間人形志向」があるのではないか。「人間人形感覚」というのは、松岡が敬愛する稲垣足穂のために編集した『人間人形時代』に横溢している、あのオブジェ感覚・マシーナリー感覚のことである。本の真ん中に孔が空いているせいで、どの見開きにも頁の積層分だけ三次元が覗いているような、あの薄板タブレット感覚のことである。カフェの開く途端にカラカラと昇ってくるブリキの月のようなカラクリ感覚のことである。

 

 あるいはまた、足穂の文章を取り囲んで蠢くあのマイブリッジの馬の連続写真のような、シネマトグラフ感覚である。実際、《フレンチ・ディスパッチ》では全篇を通して、カラーと白黒のシーンが恣意的に転換されたり、スタンダードサイズとシネマスコープが切り替えされたりと、まるで映画技術史を混ぜっ返すような演出も施されている。リアルさを擬装するSFXやVFXに抵抗して、「つくりもの」然とした黎明期の映画にもう一度回帰しようとしているかのようにも見える。

 

 それらすべての仕掛けを堪能するには、おそらく何度となく映画館に足を運ぶ必要がありそうだ。私は二度見に行ったのだが、細部の演出や編集の工夫をあますことなく汲み取るところまではまったくいきついていない。全シーンが雑誌見立ての「人間人形劇場」として過剰に作り込まれているため、どんなに目を凝らしてみようとしても、あっというまに編集的認知限界を超えてしまうのだ。これはもう是が非でも、この映画を早く松岡正剛に見てもらって、「人間人形耽読派」ならではの解読や解説をとくと聞かせてもらいたいのである。

 

■松岡正剛を人間人形化する

 

 私が《フレンチ・ディスパッチ》にこんなにも執心しているのには、もうひとつ理由がある。ちかごろ身近なところで、本をテーマにした映像制作で驚くべき「人間人形感覚」を発揮しはじめた人が出てきているせいなのだ。「セイゴオちゃんねる」で「册影帖」シリーズを担ってくれている川本聖哉さんである。

 

 「册影帖」は松岡正剛の編著書のなかでもとくにエディトリアルデザインの見どころの多いものを選んで、それぞれの世界観をあらわすようなスチール写真を撮り下ろしていくプロジェクトとして川本さんとともに立ち上げた。ところが撮影開始の直前になって、川本さんがスチールではなくムービーにしたいと言い出した。松岡が編集学校の林朝恵さんに本のビデオ撮影のディレクションをする様子をみて、突然「動く写真」を撮りたいと思ったらしい。ムービー制作は川本さんにとってほぼ初めての挑戦だった。

 

 一冊目の『フラジャイル』のテスト映像が川本さんから届いたときに、びっくりした。てっきり羽良多平吉さんのデザインのディテールを、川本さんお得意の照明技術を駆使して撮影したものがくるだろうと思っていたのだが、川本さんは割れた鏡や使い古した集魚灯などのオブジェ的インターフェースによって『フラジャイル』の〝プロフィール〟を再生するような映像ばかり作り込んでいたのである。さらには松岡の文章をプラスチック破片に転写して(川本さんが手作業で一文字ずつ転写した)、チラチラと雪のように降らせるような映像も実験していた。

 

 川本さんにはこれまで十数年以上にわたって、肖像写真からブツ撮りから取材写真まで、松岡と松岡事務所が必要とするありとあらゆる写真撮影をお願いしてきたのだが、そのような装置感覚やオブジェ感覚の持ち主だなんて、まったく知らなかった。しかもその装置やオブジェはいずれもかなり松岡好みな、ちょっとフェチっぽい工作が施された、ようするに「人間人形感覚」に溢れたものなのだ。もちろん松岡は大喜びした。これで「册影帖」の路線は決まった。

 

 第二弾の『雑品屋セイゴオ』でも川本さんはテスト映像の段階で、たくさんの手作りの色函を用意し、そこに菊地慶矩さんのイラストや切り絵細工をふんだんに出入りさせコマ撮りのようにめまぐるしく遊び心のある撮影を試みていた。その方向性をもとにさらに実験精神を羽ばたかせて、電気冷蔵庫をまるごと「オブジェ函」に仕立ててみたり、松岡正剛のフィギュールそのものを人間人形っぽく影絵にしたりといった試みにも勤しんでくれた。とりわけ電気冷蔵庫の映像は、松岡をして「すべての写真家が悔しがる傑作だ」と言わしめたほどのものになっている。

 

 じつは川本さんにも、「今後の册影帖のヒントになると思う」と《フレンチ・ディスパッチ》をお勧めしているところだ。稀なる人間人形感覚の持ち主である川本さんであれば、きっとウェス・アンダーソン監督の撮影技法の秘密もいろいろ読み解きながら、本の映像化を通して松岡正剛の人間人形化をさらに実験していってくれるのではないかと期待しているのである。

 

おまけ

《フレンチ・ディスパッチ》でビル・マーレイ演じる編集長は、個性豊かなスタッフやライターたちを相手にときに辛口なことも言うが、人情に篤い人物である。そのモットーはたったひとつ、「意図がわかるように書け」。こんな言葉が交わされる映画であるというだけで、なんだか目が潤んできてしまう。人間人形派ではない編集学徒だって、こぞって見に行くべきだ。

 

 


  • 太田香保

    編集的先達:レナード・バーンスタイン。慶応大学司書からいまや松岡正剛のビブリオテカールに。事務所にピアノを持ちこみ、楽譜を通してのインタースコア実践にいとまがない。離学衆全てが直立不動になる絶対的な総匠。

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