となりのヒトラー OTASIS

02/16(日)17:17 img
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 2020年のアカデミー賞が発表された。べつにアカデミー賞のお祭り騒ぎに加担したいわけではないが、映画好きとしてはスルーするわけにもいかない。とくに作品賞や監督賞の行方は毎年気にしてきたが、今年は『ジョーカー』一強という巷の予想を覆して、両賞その他を韓国のポン・ジュノ監督の『パラサイト』が勝ちとったことにやはり驚かされた。白人男性シネアストによる白人男性シネアストのための賞と揶揄されてきたアカデミー賞も、ここ数年ずいぶん変化が著しいようだ。

 

 といっても『ジョーカー』も『パラサイト』も私はまだ見ていないし、映画館に駆けつけて見たいと思うほどそそられてもいない。じつは1月にノミネーションが発表されたときに、「これは見ておかねば」という気になって映画館に足を運んだのは、まったく別な映画だった。『ジョジョ・ラビット』である。

 

 なになに、ナチスドイツのヒトラーユーゲントの少年が主人公? その空想の友達がアドルフ・ヒトラー? なのにお母さんがユダヤ人の少女を密かに匿って? そのお母さんがスカーレット・ヨハンソン? でもってヒューマニズムあふれるコメディ映画? マーベル映画「マイティ・ソウ」のタイカ・ワイティティ監督がつくって、トロント映画祭で大評判? よくわからないし、マーベル映画もスカーレット・ヨハンソンも好みではないのだが、日ごろからナチスものならできるだけ見ておきたいと考えてきた私は、『ジョーカー』よりも『パラサイト』よりも、まず見に行かずにいられなかったのである。

 

 子どものころ、映画『アンネの日記』(1959年アメリカ作)を見て、人間世界にはどうしようもなく理不尽なことがあるのだということを覚束なくも察知して寝つきが悪くなってからというもの、また中学生のときにテレビドラマ『ホロコースト』を釘付けになって見て、またしても眠れなくなるほど衝撃を受けたことが決定的な体験となって、映画のジャンルとしてのナチスものやホロコーストものに特段の興味と関心をもつようになった。『ホロコースト』は、ナチスドイツに翻弄されるユダヤ人一家の生きざまを描いて、まさに「ホロコースト」という言葉を世に知らしめた伝説のドラマである(1978年アメリカ作、主役は若きメリル・ストリープ)。

 

 以来、ファシズムの官能的な頽廃を暴くような『地獄に落ちた勇者ども』(ヴィスコンティ監/1969伊独)からハリウッド的大作の『シンドラーのリスト』(スピルバーグ監/1993米)まで、主人公の健気な明るさに胸しめつけられる『ライフ・イズ・ビューティフル』(ロベルト・ベニーニ監/1997伊)から意外な切り口がスリリングな『ヒトラーの贋札』(ステファン・ルツォビツキー監/2007独・墺)まで、あれこれのナチスものを堪能したり考え込んだりしてきた。

 

 ヒトラーその人を主人公にした映画にもいくつか忘れ難いものがある。“ヒトラーもの”は、チャップリンの「独裁者」のような風刺映画を除くと、あまり多くない。きっと映画界でヒトラーを描くことがタブー視されてきたか、リスクがありすぎると判断されてきたせいなのだろう。そんななかドイツの名優ブルーノ・ガンツが死の直前のヒトラーを怪演した『ヒトラー 最後の12日間』(オリヴァー・ヒルシュビーゲル監/2004)は、人間ヒトラーの情念や妄執、薬物中毒による錯乱などにリアルに迫っていて圧巻だった。同じくドイツ制作の『わが教え子、ヒトラー』(ダニー・レヴィ監/2007)は、晩年のヒトラーにユダヤ人俳優が演説指南をするという大胆なフィクションを導入し、自信喪失に陥って弱者となったヒトラーの悲哀を皮肉を込めて描くというなかなかのショーゲキ作だった。いずれも2000年代になってからの映画である。

 

 それやこれや、ナチ・ヒトラーを扱った力作・問題作のなかで、衝撃度という点で私がベストワンに挙げたいのは、2015年にやはりドイツで制作された『帰ってきたヒトラー』(ティムール・ヴェルメシュ監督)だ。自殺したはずのヒトラーが死に損なってなぜか現代のベルリンにあらわれ、テレビとインターネットを武器に、たちまちドイツ国民の関心と熱狂を攫っていくという荒唐無稽なストーリー。ヒトラーを異常人格者としてではなく極めて知的な愛国者として描くことで、見るものに共感さえ覚えさせる際どいシナリオ。ヒトラーを演じたオリヴァー・マスッチがチョビ髭と軍服の扮装のままで、ベルリン市民と難民政策などの政治的テーマについて対話するというアドリブ撮影を交えた手法。どこをとってもかなり型破りな作品である。

 

 『帰ってきたヒトラー』は各国でも物議を醸し賛否両論があったが、私はこの映画ほど、誰の心にもたやすく忍び込んでくるナチズムの危険性やネット情報時代ならではのファシズムの恐さ、21世紀にヒトラーがゾンビのように蘇ってくる可能性まで(!)を、説得力をもって示してくれた映画はなかったと思う(原作の小説もなかなかコワイが、映画は映画ならではの手法がさらにコワサを演出している)。

 

 で、件(くだん)の『ジョジョ・ラビット』である。こういったナチス映画体験を経てきた私にとって、『ジョジョ・ラビット』はどうにも困る映画だった。なにしろ、ナチスドイツを取り上げながら、主人公の少年の眼に映る世界をファンタジックに描くことに徹したコメディ映画という変わり種なのである。

 

 ヒトラーは、熱烈なナチ信者の少年の「空想の友人」としてのみ姿をあらわし、しばしば気弱な少年を鼓舞しながら威勢のいい弁舌を放つのだが、見た目も言動もあまりにも愛嬌がありすぎる。まるで“となりのトトロ”ならぬ“となりのヒトラー”みたいなのだ(ワイティティ監督がみずから演じている)。もちろん、戦闘や圧政や家族の死といった非情な出来事も起こるのだけれども、それらがまるで少年の“イニシエーション”のように描かれるばかり、ついに少年がナチスへの熱狂から目覚め、“親友ヒトラー”を放擲するという肝心のプロットも、いまひとつ刺さっても迫ってもこない。いったいこのアメリカ産の映画は、わざわざナチス時代のドイツをワールドモデルに設定することで、何をしたかったのだろうかという根本的な疑問も抱いてしまった。

 

 ナチスやヒトラーを扱う映画が、いわゆるハリウッド映画や娯楽映画になってしまってよいのかという疑問ではない。そもそも映画はずっと昔からホロコーストもベトナム戦争もイラク戦争も“見世物=スペクタクル”にしてきた。戦争に翻弄され破壊されていく人間の精神や肉体を劇的で凄惨な演出によってビジュアル化し、それによって見る側に戦争への忌避感を植え付けると同時に、いやひょっとしたらそれ以上に、官能性を帯びたカタルシスをさえ提供してきた。極端な言い方をすれば、映画はずっと戦争できわどい“商売”をしてきたのだ。でも映画とはもともとそういうものなのだし、ハリウッド的ナチ映画が生まれたってちっともかまわないと私は思っている(白状すると、私自身が戦争映画官能派なのだ)。

 

 けれども、映画が戦争を“見世物”にするからには、人類史が抱えてきたこの最悪最強の“負”や“魔物”の正体を、どう認知し解釈して表象するかという想像力や物語力がとことん問われるべきだと思う。またそのためにどのような方法的冒険やリスクテイクがなされたかということもシビアに評定されてほしい。とりわけ、ナチスドイツを扱う映画は、そうであってほしい。なぜなら、映画のスペクタクル性やドラマチックな脚色や演出をいちはやく効果的に用いて、圧倒的なプロパガンダをやってのけたのが、ほかならぬナチスドイツだったからである。

 

 このことは、草森紳一さんがナチス・プロパガンダの方法論や戦略思想の一部始終を、厖大な書籍やメディアや写真や映像を蒐集してまとめあげた労作『絶対の宣伝』全4巻本に詳しい(1978年、番町書房から刊行)。ハーケンクロイツが大きくあしらわれた真っ赤な装幀(和田誠さんによる)によって、松岡正剛の世界史の書棚でもひときわ威容を放ってきたものだ。本書のどのページを繰っても、ナチスがいかにして映画のみならずありとあらゆるメディアもアートも商品も総動員して、少年少女も青年も淑女も紳士も、度し難くヒステリックなアーリア主義とユダヤ差別へと駆り立てていったのかということが、驚くような執拗さで紹介されている。本当のところ、私は、この草森さんの労作を超えるようなナチスもの・ヒトラーものは、書籍であれ映画であれテレビ番組であれ、まだつくられてないのではないかと思ってきたのだ。

 

 『絶対の宣伝』は長らく絶版だったのだが、2015年から2017年にかけて文遊社から装いも新たにソフトカバーの4冊本として復刊された。各巻の巻末にそれぞれ識者による「解説文」が新たに付され、第4巻の解説を松岡正剛が担当している。その冒頭に、松岡は「デモンストレーション」という言葉には「モンスターを露わにする」という意味があるということを記したうえで、草森紳一さんの仕事は、まさにナチスが全力をあげて起動させたデモンストレーションの正体、もっといえばその官能性の正体にさえ迫るものだったということを評価し、草森さんによって、21世紀の大衆を相手にしたメディアのことごとくは「ナチスもどき」であることから逃れられないということが告げられたのだとしている。

 

 そうなのだ。21世紀につくられるナチス・ヒトラー映画は、たとえナチスもどきの演出や脚色を駆使してでも、この最悪最強の「デモンストレーションの正体」にこそもっと本気で肉薄してほしいのだ。愛嬌たっぷりな“となりのヒトラー”や“ヒトラーおじさん”なんかで、ヒューマニズムごっこやファンタジーごっこにかまけてもらっては困るのだ。


  • 太田香保

    編集的先達:レナード・バーンスタイン。慶応大学司書からいまや松岡正剛のビブリオテカールに。事務所にピアノを持ちこみ、楽譜を通してのインタースコア実践にいとまがない。離学衆全てが直立不動になる絶対的な総匠。

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