ピアノを弾くサル OTASIS

08/14(金)10:49
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■退屈だから意義がある

 

 この2年ほど、毎日のピアノの稽古のはじめに、必ずスケール(音階)の練習をやるようにしている。ピアノ生徒の誰もがその重要性を耳タコになるほど言われつづけながら、誰もがやりたがらない、退屈きわまりないアレを、雨の日も風の日もコロナ禍のさなかも粛粛とやっている。

 

 基本は「ハノン」に載っている全調音階練習どおりのことをやる。♭も♯もないハ長調に始まり、♭一つのヘ長調、♭二つの変ロ長調というふうに進め、♭6個の変ト長調までいくと、今度は♯5個のロ長調からだんだん#を一つずつ減らして、ト長調で締めくくる。同じことを短調でも繰り返す。長短あわせて全24調、それぞれ4オクターブの上昇下降を2回ずつ、締めて合計192オクターブを、ひたすら行ったり来たり、打鍵する。

 こればかりではさすがに飽きがくるので、左右の手を反進行にして弾いてみたり、♭をひとつずつ増やすのではなくハ長調→変ニ長調→ホ長調…というように半音ずつあげながらやってみたり、付点リズム練習を重ねてみたり、あの手この手でなんとか変化をつけている。

 どう変化をつけようが、退屈さが軽減できるわけではない。でも、それでいい。音階練習は、あまりにも単調すぎて、まったくゴマカシが効かないところにこそ意義がある(たぶん)。

 

 そもそもなぜスケール練習がピアノ界で重要視されるかというと、一音一音を十分に保ちながら、どんなに加速しても乱れずに弾けるようになるための必須訓練とされているからである。だから、一音たりとも強弱・緩急・軽重が不ぞろいにならないよう、細心の注意を払って集中しなければならない。スケール練習が陶酔や興奮や忘我を誘うようなおもしろいものであっては困るのだ(たぶん)。

 

 私は他の楽器や声楽の経験はまったくないけど、ネットで見ていると、いろんな楽器の先生が音階練習の重要性を説いている記事がわんさと出てくるので、きっとこれは、音楽をやる人すべてにとって基本中の基本になっているのだろうと思う。

 ただし、他の楽器や声楽にくらべて、ピアノは圧倒的に有利な点がある。それはたとえ初心者であっても、鍵盤を順番に打ちさえすれば、すぐに正しい音程で音階が弾けるということだ。まともな音を出せるようになるだけで一苦労、正しい音程をとれるようになるまで何年もかかることが当たり前とされる楽器が多いなかで、ピアノだけはたとえオンチであっても、一本指打鍵しかできなくても、正しい音程でたちまち音楽らしきものだって奏でられるようになる。ヴァイオリンやホルンや尺八ではこうはいくまい。

 

■ピアノのための進化論

 

 音階という点でみると、ピアノほど合理的にできている楽器はないと思う。でも、身体性という点でいうと、果たしてどうだろうか。私は、ピアノほど人間の身体、もっといえば霊長類に向いていない不合理な楽器はないのではないかと考えている。

 

 人間はなぜ楽器を演奏するようになったのか。身体的なことだけに着目していえば、それは直立二足歩行によって自由に使える両手を獲得したからであり、さらにはヒトザルになったときに拇指対向、つまり親指が他の指とは違った関節をもち、モノを掴みやすくなったことが大きかったはずである。

 ところが、このモノを掴むのに便利な親指が、ピアノ演奏にはまことにやっかいなのだ。水平上に並んだ鍵盤を打つにはどうしようもなく不器用で、すぐに鍵盤のうえに寝そべってしまい、よほど意識して指を立て続けようとしないと、なかなか理想的な打鍵ができない。

 

 親指はまた他の4指に対峙するためなのか、ずんぐりと太く短く、音量のコントロールもかなりヘタクソである。西洋音楽では一番高音=ソプラノが主旋律を担うことが多いが、ピアノではたいていその大事な主旋律をヒヨワな小指が担うはめになる(ピアノは音楽的にも不合理なのだ)。そこへもってきてピアノは構造上、低音になるほど音量が大きくなってしまいがちなので、たいていのアマチュアの演奏は、小指の主旋律をかき消すように、不器用な親指の中低音がドタドタと鳴るということになりがちなのである。

 

 ピアノにとって、拇指対向の手のメリットがまったくなかったわけではない。最大の恩恵を受けてきたのが、ほかでもない、音階を弾くための「親指くぐり」と「親指またぎ」である。5本の指で8音のオクターブをなめらかに弾くには、親指が他の指の下にもぐりこんだり、他の指が親指をまたぎ越したりする「親指くぐり」「親指またぎ」が必須の技術とされてきたのだ。これは拇指対向の手でなければ成立しない奏法である。

 ところが昨今は、「親指くぐり」「親指またぎ」をしないで、手を“瞬間移動”させながら弾く「ポジション奏法」が推奨されつつあるようなのだ。私も今教わっている先生から、子どもの頃に叩き込まれた「親指くぐり」「親指またぎ」を封印し、「ポジション奏法」を身に付けるように指導を受けている。そうしないとテンポの速い曲を弾きこなせなくなるという。私が、雨の日もコロナの日も粛粛と音階練習をやっているのも、このポジション奏法を体得するという切実な目的があるからなのだ。

 

 「親指くぐり」「親指またぎ」をしないでいいなら、ピアノを弾く手が拇指対向していることのメリットは何もなくなってしまう。もしヒトの指がピアノを打鍵するためにだけ発達していくとすれば、おそらく拇指対向をやめて、5本の指が並行し同じ関節・同じ長さを持つように進化していくはずである。実際にもヒトザルには、直立二足歩行と引き換えに、樹上で枝を掴むのに便利な拇指対向の足を捨てたという“前歴”がある。手の拇指対向だって、未来永劫、ヒトザルの特徴でありつづけるとは限らない――。

 

 単調な音階練習に耐えているわりに、ちっとも打鍵技術が向上しない我が身を、すべては親指のせいだ、拇指対向のせいだ、直立二足歩行のせいだと、妄想進化論に遊んで慰めながら、粛々と鍵盤に向かっていく日々は、まだまだ続いていきそうだ。

 

 

 

おまけ:天才ピアニストを主人公にしたフランク・コンロイの『マンハッタン物語』という小説がある。松岡正剛は千夜千冊『それでも、読書をやめない理由』のなかで、この小説のことを取り上げてこんなふうに紹介している。「(この物語の随所で)指とピアノとの細密な格闘のこと、選曲が人生を変えてしまうほどの大事であること、鍵盤にはピアニストの全肉体が関与することなどを、くどいほど鮮明に描き出した。なぜ言葉だけでここまで筋書きに沿ってピアノとの不即不離の関係が描けるのかというほどの小説だ」。

 「なぜ松岡は自分でピアノを弾いてみないのか」と言いたくなるほど、思い入れを感じる書きっぷりである。そのうえ「ピアノを弾く人は絶対読むべきだ」と懇願するように力説してくれるので、Amazonで購入して読んでみた(文庫で上下巻あって、なぜか下巻が異常な高値だった)。

 私には、天才ピアニストの天才ぶりがまぶしすぎる小説だったが、少年時代の主人公がベヒシュタインを相手に、ひたすら音階練習をするシーンには惹きこまれた。音階を奏でるときに指先が感じる波動のようなうねりや、音階の組み合わせによってその波動が変化することに夢中になりながら、少年がピアノと一体化していく様子が描かれていた。

 私が退屈な音階練習を日々自分に課すようになったのは、この小説の影響も大きかったのだ。

 

おまけ:図版は、レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図。ピアノを弾く手に見立てて、さかさまにしてみた。


  • 太田香保

    編集的先達:レナード・バーンスタイン。慶応大学司書からいまや松岡正剛のビブリオテカールに。事務所にピアノを持ちこみ、楽譜を通してのインタースコア実践にいとまがない。離学衆全てが直立不動になる絶対的な総匠。

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