おしゃべり病理医 編集ノート-ごっこ遊びとダイアグノーシス(diagnosis)

01/27(月)10:48
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 先日、千葉の私立中高一貫校で病理診断セミナーを開催した。
 NPO法人『病理診断の総合力を向上させる会』の活動の一環として、中高生を対象としたセミナーを開催して6年ほどになる。川野貴志師範お勤めの大阪の学校を含め、東京や千葉の私立中高一貫校を中心に、活動している。毎回、20名~30名ほどの医療に興味をもつ生徒さんを募り、実際の大腸腫瘍を顕微鏡で観察し、診断を体験してもらう。
 
 「地蔵現象」。川野さんの高校でセミナーを初めて開催したときにそれは起きた。難解な専門用語が登場する講義と実習。生徒さんが地蔵のように固まる。グループワークをすることも人前でプレゼンテーションすることにも慣れていない生徒さんたちは、いったい何をどうすればいいのかわからず、完全にフリーズしたのだ。
 
 前年に別の高校で初の病理診断セミナーを開催した。同じ次第だった。その時は、高校生たちが専門的な内容に怯むことなく、病理診断を見事にやってみせてくれた。グループワークも活発な議論が飛び交い、診断結果を報告するプレゼンテーションもそのあとの質疑応答も素晴らしかった。
 そのセミナーの充実ぶりは、日頃の訓練の賜物であった。グループワークやプレゼンテーション能力を中学1年の時から相当に強化した教育をやってきている新設の学校だったからである。外部から講師を招いて話を聴き、積極的に質疑応答したり、グループワークをすることにも慣れている生徒さんたちだったのだ。ある意味、当然の結果だった。
 
 地蔵現象を前に焦ったのは、国語教諭の川野師範をはじめとした高校の先生方だけではなかった。病理医のわたしも焦った。これは、セミナーの次第のせいだ。せっかくイシス編集学校で、編集の型がありとあらゆる情報編集で活用できることを学んでいるはずなのに、セミナーにそれが十分活かされていないではないか!情報には、地と図があるのだった。地(開催する学校)が変われば、図(セミナーの内容)も変わるのは当たり前。開催校の日々の学び方や校風などを事前に十分リサーチし、セミナー次第をカスタマイズしなければならない。そんなことは、編集学校では当たり前のことだったのに!完全に企画したわたしの怠慢であり、編集力の欠如からなる失敗だった。生徒さんに「全然、わからなかった」というネガティブな印象を残しただけで帰すことになったのではないか。胸が痛んだ。自分の不甲斐なさに腹も立った。
 
 イシス編集学校への信頼と編集工学への興味が加速したのは、「見立て」についての説明を読んだときだった。単に稽古が楽しいなぁ~と漫然と守の稽古を受講していたときは、スルーしていた講義篇の文章。いよいよ師範代に挑戦する前になってようやく目を通したのだ。
 

 「見立て」という日本語には、いろいろな意味と用法があります。たとえば、「医者の見立て」、「形勢の見立て」などと言うときに
は、英語の「ディアグノーシス」(diagnosis 診断、状況の分析)に近い意味となります。また、「着物の見立て」という場合は、「選ぶ・選定する」という意味が入ります。もちろん、どちらの場合も、客観的で合理的な判断だけで結論が導かれているわけではありません。推理や連想や五感や六感なども働かせながら、あるモデルやパターンに「照合」するもの、あるいは、人や状況に「相応しい」ものが求められているのです。そこには、なんらかの略図的原型のようなものも関わっているはずです。

 
 驚愕した。え?病理診断って、ことわざとかごっこ遊びとか、何かに見立てて遊ぶものと本質的に一緒ってこと?
 今まで、あまり考えてこなかった病理診断のプロセスについて、ここまでクリアに言葉になっている、ということに感動した。医者の見立てとは、患者さんの症状をはじめとした何らかの「徴候のらしさ」をいかに的確にとらえ、医
学用語に言い換えるか、ということだったのか!
 
 病理診断は、病気の最終診断である。診療において絶対的な力を発揮するのが病理診断だ。まるで神の啓示のごとく臨床の先生方は、病理診断を信じて、治療を開始する。でも、病理診断は、病理医が細胞や組織のカタチを観察して診断する非常に主観的なものである。ひとりの病理医が「この細胞、がんらしいな」と、「らしさ」だけを頼りに下される病理診断。とても危うく思えてくる。近年は、遺伝子診断と形態診断を統合して診断することも増えているが、やはり形態を頼りに診断がくだされることに変わりはない。そんな病理診断は、医療のサイエンス的な側面を考察するときに、とても不思議なものである。
 
 ただ、「徴候のらしさ」に着目し、見た目だけで下される病理診断が病気の本質をついている、という実感もあるのだ。単なる遺伝子異常の結果で得られる情報にとどまらないものが形態の特徴に表れていると確信している。それは、アナロジーの重要性を意味していると思うのだが、それが病理診断の的確さとどんなふうに関係しているのか、まだ、わたしには十分に言葉で説明する力がない。
 
 この講義篇を目にした後、わたしの編集工学への見方と取り組みは大きく変わったと思う。臨床推論、すなわち診断のプロセスを編集工学でもっと繙いてみたら、自分の病理診断能力は大きく向上するだろう。それだけではなく、病理学、いや医療以外の様々な情報の流れももっとクリアに深く見えてくるだろう。そう思ったらわくわくしてきて、日常生活の中で編集工学的な要素を探す毎日がはじまった。
 
 「地蔵現象」後の学校の努力は目を見張るものがあった。翌年のセミナーでは参加する生徒さんの姿勢が前の年と明らかに異なっていた。教員の危機感が一気に増して、教育改革が進んだのだそうだ。先生方の教育に対する真摯な姿勢と情熱に心打たれたし、方法を変えればいくらでも変わるきっかけがあるのだと勇気づけられた。
 
 わたしの方も次第を変えて臨んだ。病理診断の本質を日常生活から感じてもらうワークを導入することにした。それが「葉物野菜診断ワーク」だ。川野師範も以前、エディストで記事にしてくださったが、10種類の葉物野菜を診断するためのアルゴリズムを考えてもらうワークである。まず、野菜の何に着目するのか。葉や茎の形状?色?あるいは大きさ?大きさを形容するときは相対評価でいいのか、絶対的な数値の基準はいるのか。フローチャート式がいいのか、あるいは表を作る方が漏れがないのか。対象同士の類似と差異を判断しながら、見た目の特徴を抽出しながら進めていく野菜診断プロセスを経由すると、次の大腸腫瘍の診断ワークがとてもやりやすいものに変化した。
 
 先日のセミナーは、ここに初めてバナナ診断ワークも導入した。以前から講義では、バナナの熟すと腐るの境界はどこだろう?というように例示したりしていたが、ワークとして導入するのは初だった。
 
 大腸腫瘍を診断する際は、正常の大腸粘膜の部分と、癌の部分との境界を見定める必要がある。また、それだけではなく、正常と癌のアイダのグレーゾーンに「腺腫(せんしゅ)」というポリープ状の形態を示す良性腫瘍が存在する。つまり、正常-腺腫-癌という3段階の病態を自らのメトリックで分けなければならない。このプロセスは、複数の葉物野菜ワークではなかなか体得するのが難しい。そこでバナナワークの導入に踏み切った。未熟で食べられないバナナと、ようやく熟しはじめて食べられるところの境界。そして、熟しすぎて腐って食べられないと判断するべき境界。2か所の境界を言葉で説明し、明確な診断基準を作ってもらうワークであった。先日のセミナーは初回であったため、まだまだ課題が残ったが、バナナワークを通し、連続する現象を3つの段階に分ける難しさがよく理解できた。それは、大腸腫瘍の実際の診断で、わたしたちが「まだ腺腫の段階でいいかな?いや、もうこれは癌でしょう」というようにきわどい症例で悩んだりすることと全く同じである。
 
 編集の型というのは、専門や内容を超える「一般化、普遍化」のツールとして、それ自体が「普遍的」なものであるのだということを改めて痛感する。これからの教育には、アクティブ・ラーニングが重要だとよく叫ばれているが、何がアクティブなのか不明瞭である。単なるグループワークがアクティブだと言っても、そこにしっかりした手続きがなければ意味がない。プロセスを学ぶことを主眼にしなければ、実際、アクティブにはならないだろう。むしろ、アブダクティブ・ラーニングが大事なのではとないかと思う。わたしの野望は、実際の教育現場に編集工学を導入することである。今の大学を含む既存の教育現場の改革において、それ以外に方法はないと思う。
 
大腸バナナ

  • 小倉加奈子

    編集的先達:清少納言。病理医で、妻で、二児の母で、同居する親からみると娘、そして師範であり火元組。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。増刷中の近著作『おしゃべりながんの図鑑』の直筆イラストも必見。