おしゃべり病理医 編集ノート - この人はここにはいない

02/25(火)10:26
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 医師は、唯一、ひとの身体にメスを入れることが許される職業である。メスを握るといえば、かっこいい外科医が連想されると思うが、病理医のわたしたちも毎日メスを扱う。病理診断には、「切り出し」という過程があるのだが、外科的に切除された臓器の一部から病変部をサンプリングする作業で、メスを使う。適切な病理診断を行うためにここぞという部分を切り出すことはとても重要である。病理診断は切り出しから始まるのだ。
 
 病理解剖も病理医の仕事である。病理解剖は、院内で亡くなった患者さんの死因を解明するために行われるものである。病理医になって今年で18年になるが、今までに数百人の方の病理解剖を経験してきた。解剖室に入り、解剖着、マスク、手袋を装着する。ご遺体の前で手を合わせてから、鎖骨下の皮膚にメスを当てる。
 
 解剖中、いつも感じることがある。それは、「この人はここにいない」という圧倒的な「不在感」である。この人は、こんな冷たい解剖台の上に横たわる不自由な身体の中に閉じこもってなぞいない。今はきっと、愛するひとに寄り添っているはず。礼節を持って解剖にあたるのは当然ではあるが、その一方で、その人の気配が全くないご遺体だからこそ、ためらいなく、メスを当てられるし、病変の検索に集中できるように思う。
 
 皮膚にメスを入れ、胸壁と腹壁を開き、病変全体の広がりを確認する。手順に沿って、臓器をひとつずつ手際よく摘出していく。臓器の重量を計り、割を入れ、詳細にその状態を観察し、そばで記録を取る主治医に端的に所見を説明していく。患者さんはすでにそこにいないとしても、病気との格闘の痕は、身体中に残っている。それらの病理所見と臨床経過を照らし合わせながら、直接的な死因を明らかにし、待っているご遺族に、主治医から的確な病理解剖説明ができるようにサポートする。
 
 日本の病理解剖件数は、最新の2017年のデータで年間11089件。多いと思われるかもしれないが、オートプシー・イメージング(亡くなった患者さんの全身をCT撮影し、病態を検索するもの)が登場するなど、画像診断を含めた検査の進歩によって、解剖は年々減少している。しかし、画像診断がどんなに発達したとしても、直接手で触れて、臓器そのものを肉眼で観察することのできる病理解剖から学ぶことは計り知れない。思いがけない病態が判明することは少なくなく、主治医は自分の診療がどのくらい適切であったのか、厳しい結果を目の前に突きつけられる。その経験は、主治医の明日に活かされることは間違いない。
 
 一昨年、ハイパーコーポレートユニバーシティ(HCU)に参加する機会を得た。その中で、映画監督の押井守さんのお話を伺うとともに未公開のものを含め、様々な作品を鑑賞した。
 監督の代表的な作品『イノセンス』は、ガイノイドという愛玩用の人形が暴走し、所有者を殺害するという事件からはじまる。主人公は人間のトグサと、サイボーグのバトー。ふたりは事件の真相を追う過程で、電脳の疑似現実のループに誘い込まれてしまうなど数々の困難に遭遇しつつも、ゴーストとなった草薙素子のアシストにより捜査を進めていく。モノとヒト、身体と心、リアルとバーチャル。それらの境界がどこにあるのか、人間の存在とはいったい何を本質とするのかが問われる映画である。
 
 『イノセンス』を観ながら、病理解剖時に感じる不在感について思い出した。押井監督は、究極の身体論映画なんだという。身体というのは誰にとっても、「幻影の身体」であり、「陰影としてのみ存在する身体」であり、語ることが可能なのは常にその細部(ディテール)だけなのだ、というのが監督の身体に対する見立てである。
 
 たしかに、健康でなければ思考することもままならなくなるほど、わたしたちは身体に強く依存しているはずなのに、身体全体を感じようとすると、極めてふわふわとして心もとない。身体に何か異変を感じ、そのディテールに気持ちが集中するときに初めて、身体についての自覚が現れるようだ。皮膚にぶつぶつとした湿疹ができてかゆいとか、鼻がつまって息が苦しいとか、生焼けの焼き鳥を食べてお腹を壊したとか、そういった身体の一部の症状によってしか、わたしたちは自身の身体を語ることができないのかもしれない。また、そういった身体の症状は、他者を媒介にするとより一層強く感じることもある。大勢の前で話す場面で声が震えると、自分自身が震える声そのものになってしまっ
たような感覚になることもあるだろう。
 
 身体は、細部と全体、正常と異常、自己と他者という「間」でこそ存在するようだ。
 メルロ=ポンティの「間身体性」は、松岡校長が編集工学を体系化していくにあたり、フッサールの「間主観性」とならび、つねにその過程に深く影響をあたえてきた。知覚や体験といったものは、身体によってさまざまに変換され翻訳されていて、その編集の結果が、世界とその世界内存在であるわたしを形作っている。つまりそれは、他者入りの世界においてこそ成立するというものである。そもそも身体と意識を分離することはできないし、つねに身体も意識も他者との関係性の中、「間」においてこそ、存在するということである。
 校長は、千夜千冊123夜『知覚の現象学』https://1000ya.isis.ne.jp/0123.htmlで、さらに、このように続ける。

   きっと言語もそのようなものなのだろう。メルロ=ポンティは、
   言語は身体が身体図式を用いて外部の世界に対しておこなって
   いる応答だとみた。言語が意味をもつのもそのためだと考えた。
   言語は何かの「地」に対して浮き上がってきた「図」であった
   のだ。
 
 病理解剖は、とても不思議な出会いの場である。亡くなってから知り合うことになった目の前の患者さん。わたしができることは、その患者さんに代わって身体について語ることにほかならないだろう。そのひとが立ち去ったあとの身体はどこまでも空疎だが、ひとたび細部にメスを入れれば饒舌に生の軌跡を語る。その声なき言葉は、身体の持ち主であった患者さん自身も知りえないこ
とであろう。
 
 病理解剖は、肉眼的な所見をご遺族に説明した後、摘出した各臓器の切り出しを行い、病変部をサンプリングし、ガラススライド標本にしていく。顕微鏡で観察し、その結果をまとめて、改めて最終病理解剖診断書を作成する。そうやって、患者さんの身体は、超細部のレベルで病理医によって再び語られることになる。身体は、亡くなった後においても言語化されていく。
 
 患者さんをずっと支えてきたであろう大切なひとは、そのひとの姿や声を思い浮かべ、その身体から発せられた数々の言葉を思い出し、故人を想うだろう。そのひとの存在は、世界に対する応答の痕跡である言葉となって、残されたひとに受け継がれる。
 
 最後に残るものは、やはり言葉なのだろう。
たくさんの身体を語ること。そうやって故人の冥福を祈る。
 
 
カタチとコトバ
 
 

  • 小倉加奈子

    編集的先達:清少納言。病理医で、妻で、二児の母で、同居する親からみると娘、そして師範であり火元組。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。増刷中の近著作『おしゃべりながんの図鑑』の直筆イラストも必見。