★千夜千冊:1331夜 ナシーム・ニコラス・タレブ『ブラック・スワン』
★本:アンドリュー・ロス・ソーキン『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
★演劇:ナショナル・シアター・ライブ『リーマン・トリロジー』
2008年にリーマン・ショックが起きたことは説明不要だろう。そのとき、「リーマン・ショックを予告した」と言われ一躍ベストセラーとなったのが、その前年、2007年に出版された『ブラック・スワン』だ。
「ブラック・スワン」とは何か。松岡校長は、千夜千冊1331夜で次のように紹介している。
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さて、本書で「ブラック・スワン」と呼ばれるのは、人のことではない。集団でもない。金融界や証券界のことでもない。かなり異常であって、それが大きな衝撃を与えるにもかかわらず、そのことを“あと知恵”でしか説明できないにもかかわらず、それなのにそれはあらかじめ予測していたんだとまことしやかに説明してしまうような、そんなブラック・スワンな現象のことをさす。
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白鳥の中にまれに混じる「黒い白鳥=ブラック・スワン」。かなり異常であって、社会に大きな衝撃を与える事象。その典型例がリーマン・ショックというわけだが、もちろんそれだけではない。9.11も3.11も2つの世界大戦も、そして今回の新型コロナウイルスのパンデミックも、すべてブラック・スワンである。
『ブラック・スワン』の著者、ナシーム・ニコラス・タレブによれば、ブラック・スワンが起きている最中は、「どうなっているのか誰にもなんにもわからない」。たとえば、タレブの生まれ故郷・レバノンで内戦が起きたとき、大人たちは、戦争は「あとほんの数日で」終わると言い続けていたが、結局17年近くも続いたという。また、「第二次世界大戦の始まりのころを生きた人たちは、何か大変なことが起こっていると書きとめていたに違いない、今の人はそう思うかもしれない。でも、まったくそんなことはなかった」ということも、タレブは発見した。第二次世界大戦があんなことになるなんて、当初は考えられていなかったのだ。
2020年4月中旬、このパンデミックも同じ状況にあるようだ。いろんな人がいろんな立場からいろんなことを言っているが、いまのところ、何がどうなっているのかを明確に語れる人はどこにもいないらしい。緊急事態宣言がいつ終わるのか、日本の医療体制はどうなるのか、特効薬やワクチンはいつできるのか(そもそもできるのか)、日本でどれだけの被害が出るのか、これから日本と世界の経済・社会がどうなるのか。誰にもはっきりとした予測はついていない。意外と早く収束するかもしれないし、何年も続くのかもしれない。間違いないのは、僕らがブラック・スワンの渦中にあるということと、それを何とかすべく頑張っている人たちがいるということだ。
こうした事態に陥ったとき、僕たちはこれまでどうふるまってきたのか。『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』が参考になるかもしれない。当事者200名あまりに対して行った500時間を超えるインタビューを基に書かれた、リーマン・ショックの決定版ノンフィクションである。
正直に言って、これは僕のような金融業界の門外漢にとっては、かなり読みにくい本だった。多様な肩書きのアメリカ人が入れ代わり立ち代わり現れてつながっては離れ、専門的なことを語っていくからだ。頭に入ってこない部分も多かった。
とはいえ、ある面ではとても興味深かった。最も注目したのは、関係する誰もが「こうなるかもしれない」「こうなるんじゃないか」と、日々予測を変えながら動いていったことだ。
あまり知られていないことだが(僕も知らなかった)、まず巨大投資銀行のベア・スターンズが倒れた。それで誰もが「次はリーマン・ブラザーズだ」と予測し、株価が急落した。そのリーマンがいよいよ危なくなると、「次はメリルリンチだ」「モルガン・スタンレーも絶体絶命だ」「ゴールドマン・サックスだって安泰じゃない」とみなが思うようになった。その後、さまざまな関係者の意図と偶然が入り乱れた結果、最終的にはリーマンとAIGが破綻し、メリルリンチはバンク・オブ・アメリカに買収され、モルガン・スタンレーはギリギリのところで三菱UFJ(知らなかった!)に救済されて、ゴールドマン・サックスは危機を逃れた。これがおおざっぱなリーマン・ショックの経緯である。
当時、こんな結果になると思っていた人はいなかった。ポールソン財務長官もガイトナーNY連銀総裁もバーナンキFRB議長も予想できていなかった。でも、だからこそ、誰もが少しずつ物語を書き換えながら、それぞれにブラック・スワンのなかで行動を起こしていったのだ。
つまり、メリルリンチ、モルガン・スタンレー、そしてゴールドマン・サックスまでが倒れる可能性も十分にあった。ちょっとしたボタンの掛け違いで、「ゴールドマン・ショック」だったかもしれないのだ。そうなっていたら、世界経済はもっと大変な事態に陥っていただろう。もちろん、その逆にリーマンやAIGが倒れていなかった可能性もある。
僕らもいま、やはり同じことをしていると思う。ニュースやSNSには、パンデミックを巡る多様な情報がたえず更新されながら飛び交っている。たぶん少しずつ正確な情報が増えていると思われるが、どれが正しいのかを判断するのはかなり難しく、確かな光はまだほとんど見えていない。そのなかで一人ひとりがどういう物語を描き、どのような行動を取るかを問われている。ブラック・スワンの渦中では、誰ひとり他人ごとではいられない。誰かのちょっとした行動が、良くも悪くも未来を大きく変える可能性がある。
ちなみに、このパンデミックについて、タレブは「パラノイア(極度の心配性)の人だけが生きのびられる」と言っている。
あらためて『リーマン・トリロジー』の予告編を最後まで見るとわかるのだが、この作品のポスタービジュアルは「綱渡り」だ。舞台のなかでは、1929年のブラック・サーズデイ(世界恐慌の始まりの日)に、それまで何十年も綱渡りをしていた男が初めて綱から落ちるという(たぶん事実の)エピソードが紹介される。つまり、リーマン・ブラザーズは世界恐慌で綱から落ちかけ、リーマン・ショックでいよいよ落ちたというわけだ。
しかし、僕が気になっているのは、リーマンが2008年に綱から落ちたことではなく、2008年まで「本当はずっと綱渡りだった」ということだ。3時間の物語に集約されるとついつい忘れてしまうが、実際は南北戦争も世界恐慌も第二次世界大戦もブラック・スワンであり、もっと小さな危機や挑戦もいくつもあったはずで、リーマンはそのなかを長く綱渡りしてきたのだ。
いや、リーマンだけでなく、本当は、僕ら全員が日々綱渡りをしている。ふだんは足元に地面があるように錯覚しているけれど、こうやってブラック・スワンに巻き込まれると、実はそこに地面などなく、頼りない綱の上に立っていることがはっきり見えてくる。
これが収まったら、きっと『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』の新型コロナ版が出るだろう。さらに10年もすれば、『リーマン・トリロジー』ならぬ『パンデミック・ヒストリー』のようなものが書かれるかもしれない。そうした物語を読んだり見たりしたとき、僕らは、こうしていま綱渡りしている日々を思い出すのだろうか。それとも、ケロリと忘れたまま錯覚の地面を歩くのだろうか。
Photo by Marcelo Moreira from Pexels
米川青馬
編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。
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