恋愛映画の皮を被ったカッコいいホラー映画[芝居と読書と千の夜:3]

05/11(月)09:15
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 演劇が見られない。5月はもちろん、6月の公演もどんどん中止になっている。このまま6月に緊急事態宣言が解除されたとしても、稽古や準備の期間が必要で、いきなり公演が打てるわけではないからだ。最も順調にいったとしても、7月以降の公演が実施できるかどうかだろう。というわけで、少なくともおそらくあと2~3カ月は演劇が見られない。もちろん、緊急事態宣言がいつ解除されるかわからないし、解除されてもすぐに劇場の使用がOKにはならないかもしれず、観劇がしばらくお預けになる可能性も十分にある。

 というわけで、僕は早々に方針を切り変えて、映画を取り上げることにした(笑)。ある意味で、2020年の年明け、かなり話題になった作品である。例に漏れず、僕も「あれ」をきっかけにして見たのだが、見終わったときには、あれのことはほぼどうでもよくなっていた。ビックリするほど素晴らしい映画だった。こちらです。

 

★映画:濱口竜介監督『寝ても覚めても』

 

 見ている最中、僕は心の中で何度か「青年団か」とツッコミを入れていた。この映画の抑えの利いた演出は、平田オリザさんの「現代口語演劇」に近い感じがあって、僕のような「芝居>映画」の者には馴染み深かった。それに今回は、半分ある演劇について語るから、もともとのコンセプトからそれほど大きくはズレていないと思うので、ご勘弁を。

 なお、正直に言うと、僕は濱口さんの作品をまだほかに1本しか見ておらず、柴崎友香さんも『寝ても覚めても』と『春の庭』しか読んでいない。これから書くのは、その程度のヤツの感想だと思ってください。

 

 見終わった直後は、「カッコいい!」と思った。予告編では単なる恋愛映画に見えるだろうが、この映画を恋愛映画だと思って見ていると、終盤に肩透かしを食う。恋愛のどうのこうのはすべて途中で飛んでいき、最後にカッコよさだけが残った感じがした。

 このカッコよさを説明するには、まずヘンリック・イプセンの『野鴨』に触れる必要がある。この映画には『野鴨』が劇中劇として重要なシーンで登場する。そのことがとても気になった。読み解く鍵の1つだと思う。

 

★演劇:ヘンリック・イプセン『野鴨』

 

 

 イプセンは、19世紀のヨーロッパで活躍した「近代演劇の父」である。が、こんな肩書きで呼ぶのは止めたほうがいいんじゃないかと思うほど、作品は現代的だ。僕は以前に『ヘッダ・ガーブレル』ナショナル・シアター・ライブ地点)と『民衆の敵』雷ストレンジャーズ)を見たけれど、どちらにもあまり古くささを感じなかった。もちろん時代を感じる部分はあるのだが、登場人物が現代劇とさほど変わらないのだ。美しくて空っぽで何もしたいことがなく、人生に飽き飽きているくせに嫉妬深いお金持ちの女性(『ヘッダ・ガーブレル』)とか、上から目線で正しいことを唱えて、民衆の目の敵にされる政治家(『民衆の敵』)とか、いまだに多くいるような人物像を主人公として扱っている。そのほかの登場人物のほとんどが、何かしら欠点や問題を抱えているのもいまっぽい。

 

 

 『野鴨』は見たことがなかったので、『寝ても覚めても』を見終わった後にあらすじを調べて脚本を読んだ。

 『野鴨』の主人公は、家庭内に嘘や秘密があったら幸せを築けないと信じこんでいる「正義病」の男で、おせっかいなことに、そいつが友達家族の秘密を明らかにしてしまった結果、その一家の子どもが自殺してしまう、というのがごく簡単なあらすじだ(友達夫婦の関係がその後どうなったのかは詳しく描かれない)。何ら救いのない悲しいストーリーである。

 こうした正義病は、いまや世界中に蔓延しているように見える。もちろん僕も他人ゴトではなく、たぶんときどき気づかずに正論を吐いてしまっている。自覚したらすぐ止めるようにしているが、それでもなかなか完治はしないようだ。もしかすると、ヒトにつきものの不治の病なのかもしれない。そうだとしたら、イプセンの目のつけどころはやはり的確だ。

 

 『寝ても覚めても』では、主人公たちの友人の1人に『野鴨』の舞台に立つ役者がいて、彼女が正義病の男に少し似た役目を果たす。彼女たちを通して、主人公の男女のあいだの秘密が明らかになる。そうしたことのために2人はいったん別れるが、最後によりを戻す。また『野鴨』では子どもが自殺したが、この映画では子どもの代わりとなる猫は生きている。この映画は『野鴨』を引き合いに出しながら、『野鴨』とは違う結末を迎えるのだ。

 違いを生み出したのは、社会とのつながりだ。付き合っているとき、2人は何度も一緒に東北の震災ボランティアに行っていた。そのことが一度離れていった女を男の許へ戻し、2人をつなげ直す。男は「俺はきっと一生、お前のこと信じへんで」と言いながら、女を許して受け入れる。2人の恋愛関係は、今後もたぶん完全には元に戻らない。男が女を100%信用することはないだろう。しかしそれでも、社会とのつながりがあれば、関係が続くこともありうるのではないか。この映画は、その可能性を提示している。

 もっと乱暴に言ってしまえば、この映画は「恋愛以上に、実は社会とのつながりが家庭を形作っているんじゃないですか?」と言っているように見える。さらに言うと、「イプセンさん、社会とのつながりを入れずに家庭を描くのは、ちょっと違うんじゃないですか?」と言っているようにも見えるのだ。

 このイプセンへの現代からの返答は、カッコいい。だって、実際はそのとおりだから。世界には、昔から社会とのつながりのもとに成り立っている家庭が山ほどあり、いまも結婚は何らかの社会とのつながりのもとで安定する。というか、そもそも家庭は地域社会とともにあったのだ。

 

 見終わった後の印象はそんな感じだった。うん、やっぱりただの恋愛映画とは全然違う。もちろん、僕の読みでは、だけど。

 

 しかし、それから原作を読んで、僕の考えは大きく変わった。結論を言えば、これは恋愛映画の皮を被ったカッコいい「ホラー映画」だ、と思い直したのである。そのことは次回に。


  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。