カフカの作品は半現実である[芝居と読書と千の夜:5]

06/07(日)10:47
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★演劇:KAAT×ケラリーノ・サンドロヴィッチ

   『ドクター・ホフマンのサナトリウム ~カフカ第4の長編~』

 

★本:石黒浩『アンドロイドサイエンス』

   (毎日コミュニケーションズ)

   江村洋『フランツ・ヨーゼフ』(河出文庫)

   池内紀『カフカの生涯』(白水Uブックス)

 

★千夜千冊:0946夜 アーサー・ケストラー『ユダヤ人とは誰か』

 

 

 

 この3月に、イシス編集学校「多読ジム」のお題(三冊筋プレス)で、カフカについて書いた(「カフカ、絶望を笑う」)。この文章を書くあいだ、ずっと頭の片隅にあったのが、昨年2019年の冬に見た舞台、ケラリーノ・サンドロヴィッチ『ドクター・ホフマンのサナトリウム ~カフカ第4の長編~』だ。書きながら、「ケラさんは、カフカの笑えない笑い、ダークな笑いについて、ずっと前からよくご存知だったのだな」と思った。僕は見ていないが、ケラさんは、2001年の『カフカズ・ディック』、2009年の『世田谷カフカ』と、過去に2度もカフカを題材に扱っている。すでにお手のものだったのだ。

 その後、「NHKBSプレミアムステージ」で4月に『ドクター・ホフマンのサナトリウム』が放送されたので、それを改めて細かく見て、カフカマニアぶりに唸った。たとえば、さほど有名ではない「橋」という短編についてサラリと触れたり、「流刑地にて」という短編に出てくるような拷問機械を持ち出したりしていくのだ。僕が気づいていない「隠れカフカ」もたくさんいたに違いない。カフカを知るほど楽しめる作品だ。NHKのおかげで、カフカっぽくかつナイロン100℃らしくもある物語を2回も堪能できた。プレミアムステージはありがたい番組だ。(なお、本作の脚本はこちら。)

 

 

 このプレミアムステージで本編以上に印象に残ったのが、冒頭に挿入されたケラさんの短いインタビューだ。「カフカは不条理を書こうとしたのではなく、カフカの目に映っていたものがそのまま不条理だったのではないかと思うのです」と語っていた。その通りだと思ったし、本編を見て、ますますその想いを強くした。

 『ドクター・ホフマンのサナトリウム』の全体を覆っているのは、不確実さや曖昧さや覚束なさだ。たとえば、この物語の主人公(多部未華子さん)は、恋人(瀬戸康史さん)が死んでいるか生きているかも、いまが夢か現実かもわからないまま、さまざまな人に振り回されながら半ば流されるように前進していく。また象徴的なのが、途中で出てくる『やさしい道の迷い方』という本だ。別の登場人物(渡辺いっけいさんと大倉孝二さん)は、この本に導かれるようにして違う世界に迷い込んでいく。

 最初から最後まで、こんなふうに現実離れしたつかみどころのない物語なのだが、では果たして、僕たちの現実世界は確実で明確でわかりやすいのだろうか。実際は、カフカやケラさんの物語と同じように、現実世界は不確実で曖昧で覚束ないのではないだろうか。僕ら全員、本当は道に迷っているのではないだろうか。『やさしい道の迷い方』が1人1冊必要なのではないだろうか。新型コロナの一連の騒動を見ていると、確実で明確でわかりやすいものなど、果たしてどこに存在するのか、という気すらしてくる。

 

 

 そんなことを思いながら、ロボット研究者・石黒浩さんの『アンドロイドサイエンス』を読んでいたら、こんな一節に突き当たった。「アンドロイドが人間に近づけば近づくほど、人間を造るというゴールから遠ざかっていく」。これはまさに、いつまでも城にたどり着けない『城』の主人公Kと同じ状況ではないか。このようにして、見える人にはきっと世界はそのままカフカ的に見えているのだ。たぶん、それが本当なのだ。だからこそ、カフカは相変わらず注目されつづけているのだと思う。

 

 では、なぜカフカには、世界が不条理そのものに見えていたのだろうか。結論から言えば、その一因は、カフカを包む時代の状況にあった。以下、江村洋さんの『フランツ・ヨーゼフ』池内紀さんの『カフカの生涯』をベースにしながら、カフカの時代を紹介したい。

 

 

 フランツ・カフカは、1883年にプラハで生まれ、1924年に死んだ。療養や遊びなどでよく出かけているし、最期の2年はベルリンで結核を治療したが、基本的にはプラハで暮らした。プラハは現在チェコ共和国の首都だが、カフカが生まれ育った頃は違った。1918年にチェコスロバキア共和国ができる前、そこはオーストリア=ハンガリー帝国の一部だった。

 「オーストリア=ハンガリー帝国」。この国を説明するのはちょっと手間がかかる。もともとは「オーストリア帝国」だった。オーストリア帝国を長年支配してきたのは、マリア・テレジアで有名なハプスブルク家で、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝もハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフだ。

 この帝国はかなり大きかった。今でいえば、オーストリア、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ポーランド南部(ガリツィア)、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ルーマニア西部(トランシルヴァニア)、イタリア北部までが帝国の領地だった。第一次世界大戦が起こるまで、この国は中欧・東欧の大部分を占める「巨大多民族国家」だったのだ。

 ちなみに、フランツ・カフカの「フランツ」は、皇帝フランツ・ヨーゼフから取ったものだ。『カフカの生涯』によれば、当時は「毎日のように新しいフランツが誕生する」状況だったという。皇帝は人気者だったのだ。

 

 

 なぜオーストリア=ハンガリー帝国に改名したかというと、1866年、オーストリア帝国がハンガリー王国の自治を認め、二つの半ば独立した国家の集合体となったからだ。

 その背景には、「民族独立運動」の流れがある。当時、帝国内ではいたるところで独立運動や小さな叛乱が起きていた。帝国からの独立を目指す勢力が各地で大きくなっていたのだ。その上でイタリアにもドイツにも戦争に負けて力を失ったオーストリア帝国は、国内最強のハンガリー王国と妥協せざるを得なくなったのだ。実際、ハンガリーの自治を認めた一件を「アウスグライヒ=和協・妥協」と呼ぶ。オーストリア=ハンガリー帝国は、文字通り、妥協の産物でしかなかったのである。つまり、この時点で帝国の弱体化が進んでいた。

 

 逆に言えば、これはハンガリーには自治を認めたけれど、チェコやその他の国には自治を認めなかった、ということだ。当然、ハンガリー以外には不満が残る。なかでも急速に経済が発展したチェコは、不満を抱えながら徐々に立場を強くしていった。その結果、1880年に「言語令」が、1897年に「パデーニの言語令」が出る。それまでチェコの公用語はドイツ語だけだったが、この2つの法令によって、ドイツ語とチェコ語の両方が公用語となった。

 それ以降、チェコの「少数の支配者層=ドイツ人・ユダヤ人」たちは一様に危機感を覚えるようになったという。なぜなら、彼らはドイツ語しか使えなかったが、「多数の被支配者層=チェコ人」は両言語を使えたからだ。つまり、支配者層のドイツ人・ユダヤ人は、非支配者層・チェコ人の言語を勉強しなければ生き残れなくなってしまったのである。彼らは叛乱に怯えるだけでなく、生存の基盤=仕事そのものを失うかもしれないという不安や恐怖に支配されるようになっていった。

 

 

 さて、ようやくカフカに舞い戻る。カフカはプラハのドイツ系ユダヤ人で、ドイツ語で作品を書いた。言い換えると、1883年に生まれた時点で、すでに彼の立場は不安定だった。彼の周辺は、不安や恐怖にさいなまれる大人たちばかりだったのだと思われる。

 

 ところで、ドイツ人とユダヤ人は、チェコ人から見れば同じ支配者層なのだが、実際は違う集団だ。ユダヤ人は、ドイツ人ともチェコ人とも違う、第三の集団と言ってよい存在だった。当時の中欧・東欧にはユダヤ人がたくさん住んでいて、彼らは「アシュケナージ」と呼ばれた。千夜千冊0946夜 アーサー・ケストラー『ユダヤ人とは誰か』から、アシュケナージの説明を引用する。

 

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 もうひとつは「アシュケナージ」のユダヤ人である。多くは東ヨーロッパで幾多のコミュニティをつくっていたのだが、ロシアのポグロムやドイツのホロコーストで迫害され、西ヨーロッパやアメリカに移住した。アシュケナージの呼称はドイツを意味するヘブライ語のアシュケナズから派生した。しかしその出自はもともとはカザール人(ハザール人)と重なっていた(カザール=ハザールについてはあとで説明する)。かれらはやがて東欧に動いてハンガリーなどに入り、ドイツ語を改竄してイディッシュ語をつくった。

 いま、世界中のユダヤ人は一四〇〇万人ほどだが、その約九〇パーセントがアシュケナージだ。

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 カフカもアシュケナージの一人である。その証拠に、晩年のカフカはシオニズムに傾倒し、ヘブライ語を学び、結核が癒えたらイスラエルに移住することを夢見ていた。(このエピソードは『ドクター・ホフマンのサナトリウム』にも出てくる。)

 東欧にアシュケナージが居ついた経緯は千夜千冊0946夜に詳しく書いてあるが、その要因の1つとして、オーストリア帝国が「多民族国家」だったことも挙げられる。「『散在(ディアスポラ)』が宿命の人々には多民族国家こそもっとも安住できる国体であって、この旗の下にのみ自分の故里を見つけることができる」のだ(『カフカの生涯』)。当時、ヨーロッパに多民族国家は他になかった。ここはユダヤ人にとって、なかなか居心地の良いところだったのである。

 ところが、カフカの時代には、帝国各地で民族独立の機運が高まっており、反ハプスブルク、反ドイツ、そして反ユダヤ主義がどんどん盛んになっていった。ユダヤ人が住みにくい土地になりつつあったのだ。シオニズム運動が大きくなった理由の1つはそこにある。

 

 

 その渦中で、カフカはドイツ系ユダヤ人の一員として、反ハプスブルクと反ユダヤの二重の抑圧を受けていた。江村さんは、「チェコ人に囲まれた彼らが受けていた心理的圧迫感は並大抵のものではなかった」「カフカの小説に頻繁に現れる人間の疎外感や人生における不安感は、彼らすべてがひしひしと感じていたのである」と書いている。カフカは生まれてから死ぬまで、かなり強い心理的抑圧のなかを生きたのだ。

 そういうところに生きたからこそ、「カフカの目に映っていたものがそのまま不条理だった」のだと思われる。『審判』のヨーゼフ・Kのように突然逮捕はされないにしても、突然チェコ人が叛乱を起こして捕えられる可能性はあったのだろう。『変身』のグレーゴル・ザムザのように突然虫になることはないにしても、突然虫けらのように扱われる可能性はあったのだろう。カフカの作品に書かれていることは、カフカの現実と地続きだったのだ。あれは空想ではなく、半分現実に起こりうることだったのである。

 正直に言って、このゆるゆるの現代日本に日本人として生きる僕は、カフカの受けた抑圧や緊張感がどういうものだか、具体的にはほとんど想像できない。それは僕だけじゃないだろう。その証拠に、現在カフカの作品は不条理だと考えられている。しかし、カフカの作品は、実際は彼の半現実だったのだ。そしてそれは、本当は僕ら全員の半現実なのだ。

 

 さて次回は、同じオーストリア=ハンガリー帝国に生きた「カフカの先輩」をご紹介したい。変態様のお通りです。


  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。