80年以上前に書かれた「借りの哲学」の物語[芝居と読書と千の夜:8]

08/21(金)10:56
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★映画:エルマンノ・オルミ『聖なる酔っぱらいの伝説』

★本:ヨーゼフ・ロート『聖なる酔っぱらいの伝説 他四篇』

   (岩波文庫)

   ナタリー・サルトゥー=ラジュ『借りの哲学』(太田出版)

★千夜千冊:1542夜 ナタリー・サルトゥー=ラジュ『借りの哲学』

 

 

 予想通り、7月から演劇公演が少しずつ再開してきた。僕も現時点で7月に2本(こまつ座『人間合格』劇団かもめんたる)、8月に1本(野田秀樹『赤鬼』)を見た。そんな感じになってきたのだから、そろそろ日本の現代演劇について何かしら書いたほうがいいよな~、とは思っているのだが、緊急事態宣言時に書き残したことがまだ少しあるので、そちらを先に。

 

 ただ1つだけ、シアターコクーン『プレイタイム』が「演劇×映像作品」として心底素晴らしかったので、先に紹介しておきたい。なぜなら、オンデマンド配信が9/2で終わってしまうから。サブスクを前提にするとやはり値段が高いが、僕はむしろ安いかもしれないと思ったくらい。演劇そのものだけでなく、舞台裏や裏方を巧みに見せていく映像手法が画期的で、いつもとは違う目線に未知の刺激を受けた。ただ、最初にこんなものを作ってしまっていいのか、とも思ったけれど。今後、ライブ配信演劇は常にこのレベルを作らなければならないとしたら、これからものすごく大変なのでは。(とはいえ、サブスクと同じ土俵でやっていくのだから、当然なのかもしれないが。)オススメします。

 

 

カフカと対になる作家

ヨーゼフ・ロートについて

 

 緊急事態宣言下、それなりに映画を見たのだが、なかで印象に残っているものの1つが、1988年のイタリア映画『聖なる酔っぱらいの伝説』だ。なぜこれを見たかといえば、そもそも僕は原作者のヨーゼフ・ロートが好きなのだ。偏愛といってよいほどに。

 

 

 ヨーゼフ・ロート(1894年~1939年)のことなど、たぶんほとんどの日本人が知らないだろう。カフカ(1883年~1924年)と同時代のオーストリア=ハンガリー二重帝国に生きたユダヤ人作家で、そこまではカフカと共通しているのだが、ほかはいろいろと対照的だ。カフカは生前無名で、死んでから一躍有名になったが、ロートは生前は売れっ子ジャーナリストで、死後はしばらく忘れられた。カフカは引きこもりで深夜に独り小説を書いたが、ロートはヨーロッパ各地を飛び回って取材するかたわら、騒々しいカフェの片隅でペンをとりつづけた。カフカは健康オタクだったが、ロートはアル中だった。カフカは未婚だったが、ロートには美人の妻がいた。しかし、彼女が若くして病気になって苦労した。文芸批評家フランツ・ブライによれば、「カフカがわが身から去ることのない不安を確信していたのに対して、ロートはこの世のよろこびをさほど信じていなかった。それはあまりにしばしば彼を裏切った」。そのために、よろこぶロートはやや陰鬱に語り、形而上的不安に鞭打たれていたカフカは、奇妙なことを軽快に語った。なんだか対照的すぎて、僕にはカフカとロートがかえってペアに見える。2人を一緒に扱うと、バランスが取れるような感じがするのだ。

 

 そんなロートの作品には、カフカのような新しさや意外性はない。しかし、その代わりに上手さと気持ちよさともの悲しさがある。典型的なストーリーテラーで、いま読んでも十分に面白い。気になった方は、まず『聖なる酔っぱらいの伝説 他四篇』(岩波文庫)をパラパラめくっていただきたい。

 

 

 

『聖なる酔っぱらいの伝説』の主人公は

「借りの哲学」に従って生きている

 

 というわけで、本題。『聖なる酔っぱらいの伝説』の主人公・アンドレアスは、1934年のパリ・セーヌ川沿いに住みついた飲んだくれのホームレスである。あるとき彼は、見知らぬ紳士から200フラン(数万円と思われる)をめぐんでもらう。その紳士は、お金はサント・マリー礼拝堂の聖女テレーズに返してもらえたらいい、と言い残して去る。彼はそれで運気が良くなったのか、偶然カフェで隣になったおじさんの引っ越しを手伝ってお金を稼いだり、ばったり出会った昔の女におごったり、ポスターになるほど有名人になった昔の友達に良くしてもらったりしながら、財産を増やしていく。ところが、同じホテルに泊まっていた若いダンサーの女と遊んだ後、彼女に金を盗まれる。その間、何度も聖女テレーズに200フランを返そうとするが、礼拝堂の前で誰かに出会ったり、礼拝堂の向かいの酒場で酔っ払ったりして、いつも果たせない。

 

 再び無一文になった彼は、セーヌ川で同じ紳士に出会って、もう一度200フランをめぐんでもらう。しかし、偶然出会った旧友と酒を飲んだりして、その半分を使いこんでしまう。最後、礼拝堂の向かいの酒場で倒れたアンドレアスは、100フランを握りしめたまま礼拝堂に運び込まれ、聖女テレーズの像の前で死ぬ。こんなあらすじだ。

 

 端的に言えば、これは「借りの哲学」についての物語である。松岡校長が1542夜で紹介した、ナタリー・サルトゥー=ラジュ『借りの哲学』(太田出版)は、「借りを返さなくていい社会」を提案している。具体的には、こういうものだ。

 

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 本書は、こんなふうに結ばれている。

 ‥‥「足りないものがある人」に「借り」を通じてその足りないものが贈与され、「欲望が満たされた人」が今度は何かを贈与して、また別の「足りないものがある人」の欲望を満たす。足りないものをそうやって獲得する社会が待望されるのだ。

 

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 なぜ借りを返さなくていいかといえば、「人間はつねに他者からの借りで生きている」からだ。「われわれは一人で生きていけないので、誰かに借りをつくるものなのだ」からだ。「どんな時代の者も先行する世代からの借りの中にいる」からだ。「借りのない生などありえない」からだ。つまり、生きているだけですでに借りているのだから、特定の誰かに返す必要はない、というのだ。その代わり、困っている人や必要としている人に与えればよい。「借りの哲学」とはそういうものである。

 

 

 『聖なる酔っぱらいの伝説』のアンドレアスが行うことは、すべて「借りの哲学」に従っている。一文無しだった彼は、お金持ちの紳士(=聖テレーズ)から二度もお金をめぐんでもらう。その後、引っ越しを手伝って賃金をもらったり、貧乏していた昔の女におごったり、お金持ちの昔の友達に良くしてもらったり、行きずりの若い女に金を盗まれたり、旧友におごったりする。つまり、彼は、足りている人からはもらい、足りない人には与えるのだ。ナタリー・サルトゥー=ラジュが提唱するより80年ほど前に、ヨーゼフ・ロートは、こうして借りの哲学の物語を書いていた。(9に続く。)


  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。