「たくさんの私」を充実させるドン・キホーテ的方法[芝居と読書と千の夜:14]

2021/02/17(水)10:02
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★映画:濱口竜介『ハッピーアワー』

        『寝ても覚めても』

 

★千夜千冊:1536夜 木村敏『あいだ』

 

★本:濱口竜介・野原位・高橋知由
   『カメラの前で演じること』(左右社)
   木村敏『あいだ』(ちくま学芸文庫)
   池上英子・田中優子『江戸とアバター』(朝日新書)
   中野信子『ペルソナ』(講談社現代新書)

 

13の続き)

 

他者の世界との関わりの原理を
自分のものにしようとする

 

 ところで、ヒトはなぜ演じることができるのだろうか。結論から言えば、僕たちがみな「たくさんの私」だから、だろう。
 木村敏さんは『あいだ』(ちくま学芸文庫)にこう書いている。

 

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 自己とは要するにわれわれと世界との「あいだ」に働いている、世界との関わりの原理にほかならない。

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 また、千夜千冊1536夜には、松岡校長が木村敏さんに『自己の居場所としての間』という原稿を書いてもらった経緯が書いてある。その原稿の主旨は「世界や他人とのあいだに間をもつことは、自己の居場所をもつということだ」ということで、最終行は「あいだは自己の別名だ」となっていた。

 自己とは、世界と自分との「あいだ」、世界との関わりの原理のことなのだ。たくさんの私とは、相手や場によって「あいだ」がいくつもある、ということだ。だとすれば、自分の「あいだ」を保ちながら、他者の世界との関わりの原理を自分のものにしようとすることはできるはずだ。「演じる=自分が自分のまま、別の何かになる」とは、そういうことだろう。

 

 


 濱口さんは、演じるときの鍵は「最も深い恥」だと言っている。僕なりに解釈すると、最も深い恥の部分で相手に共感することが、他者の世界との関わりの原理を心の底から理解することにつながる。たとえば、自分の役がまったく共感できない殺人鬼だったとする。でも、自分が過去に誰かを本気で殺したいと思ったことがあり、深く恥じていたとしたら、その恥を接点にして殺人鬼を演じきれる、ということではないかと思う。(わかりやすく説明しただけで、実際はもっと複雑で混沌としていると思いますが。)

 

 

 おそらく、ひとつの役を演じきったとき、役者は変わるだろう。濱口さんも「演ずる人は、演じた後に、きっと演ずる前よりはなにか違う自己を獲得していくのではないか」と書いている。なぜなら、他者の関わりの原理に触れるからだ。他者の関わりの原理を通して、自分の関わりの原理にも触れるからだ。おそらく、ひとつの役を演じきったとき、ヒトは「たくさんの私」を少し自由に編集できるようになるだろう。「あいだ=自分の居場所」を少し拡張できるだろう。ただし、それは危険なことかもしれない。自由は必ずしも安全ではない。それでも、変わることには大きな意味がある。
 最も深い恥こそが、強い共感の接点になる。自分が自分のまま、別の何かに近づくための入口、自己の編集的自由を獲得するための入口になる。僕はそれをひとつの「ドン・キホーテ的方法」と呼びたい。ドン・キホーテは、命がけで狂ったように騎士を演じきり、自分自身を変えていった。あそこまで命がけでなくていいし、狂う必要もない。内面に潜って自分の恥と向き合うことでも、ドン・キホーテのように何かを演じきり、自分を変えることができる。濱口さんは、新たなドン・キホーテ的方法を提示している。
 なお、映画や演劇を見たり本を読んだりしても、他者の関わりの原理に触れることはできる。自分の恥を持ち出して、自分が自分のまま、別の何かになろうとすることはできる。演じることとは質がまったく違うと思うけれど、ドン・キホーテ的な読書・映画鑑賞・観劇体験は十分にありうる。別に僕に言われなくても、本や映画や演劇をそうしたチャンスにしてきた人は大勢いるはずだ。

 

 


誰もが多様に演じる世界で

 

 現代には『ハッピーアワー』のような映画が求められている、と思う。なぜならいま僕らは、変わることを求められているからだ。他者の関わりの原理に触れること、「たくさんの私」を充実させて、自分自身を更新することを求められているからだ。
 ひとりのヒトが「たくさんの私」であることは、編集学校ではすでに常識だが、今後は社会にも同様の常識が広まっていくだろう。おそらくは松岡校長が真っ先にそう思っていらっしゃって、最近「たくさんの私」に言及されることが多いように感じる。
 校長だけでなく、田中優子先生は池上英子さんとの共著『江戸とアバター』(朝日新書)で、江戸人が実名以外に多名を持ち、実際の役割以外の「別世」を多様に生きていたことを明かしている。たとえば、太田直次郎という下級武士は、別世では太田南畝というもの書きであり、四方赤良という狂歌師であり、蜀山人という文化人であり、寝惚先生という狂詩家であり、そのほかにも多くの名前を使い分けていた。江戸人は「たくさんの私」を当たり前に受け容れていたのだ。

 また、テレビなどでよく見かける脳科学者の中野信子さんも、『ペルソナ』(講談社現代新書)で半自伝を記しながら、「わたしは存在しない」「本当の自分など、どこにも存在しない」と書いている。こんなふうにも語っている。

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 私は、自分の思考がモザイク状、もっといえばキメラ状(異なる遺伝情報が混ざった状態)にできているのを感じることがしばしばある。一貫性を持たせることは難しく、意外かもしれないが、これは自然にできることではないのだ。よく観察してみれば、キメラでない人など、本当はどこにもいない。
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 デジタル時代には、松岡校長や編集学校や優子先生や中野さんのような考え方が急速に広まっていくはずだ。なぜなら、いまや誰もが多様に演じる世界だからだ。演じるといっても、表面的になりきるわけではなく、多名を持って別世を真剣に生き、多様に楽しむ世界だ。他者の関わりの原理に触れ、たくさんの私を拡張していく世界だ。そのとき、意外な鍵のひとつになるのは、きっと「恥ずかしさ」だろう。


  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。