ゴドーは来なかったけど神はおとづれた[芝居と読書と千の夜:15]

2021/04/07(水)10:41
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★演劇:多田淳之介演出『ゴドーを待ちながら』(KAAT)

★千夜千冊:1067夜『ゴドーを待ちながら』

★本:サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』(白水社)
   松岡正剛『花鳥風月の科学』(中公文庫)

 

 

 ちょっと間が空いてしまいました。2020年の疲れが出たみたいです。4月から、心機一転書いていきます。

 

☆☆☆お勧めオンライン舞台 その1☆☆☆

☆モダンスイマーズが創る人形劇ムービー

 「しがらみ紋次郎~恋する荒野路編~」

 

 コロナ禍はもちろんいろいろと大変ですが、ネガティブなことばかりじゃありません。演劇に関していえば、オンライン配信が圧倒的に増えました。早くもデフォルトになりつつあります。こういう記事と相性が良いので、積極的に紹介していきます。

 最初に紹介するのは、劇作家・演出家の蓬莱竜太さんが所属する劇団「モダンスイマーズ」の人形劇ムービーです。蓬莱さんはいまをときめく劇作家の一人で、たとえば又吉さんの『劇場』の映画版脚本などを書かれています。個人的には、特にダメ男を書かせたらいま日本有数の方だ、と思います。「しがらみ紋次郎」は軽い作りですが、それでも十分にバカバカしくて寂しくて哀しくて味わい深い。50分程度で見られますので、お気軽にどうぞ。(※2021年5月9日まで期間限定無料配信)

 

 

多田淳之介さんのこと

 

 さて、これから数回にわたって、ある一人の演出家の方を軸にしながら、いくつかのお芝居を紹介していきます。「多田淳之介さん」という方です。先ほどのモダンスイマーズも含めて、僕には極力見逃さないようにしている劇団がいくつか存在し、演出家や劇作家が何人かいるのですが、多田さんはその一人です。

 多田さんは「東京デスロック」という劇団を主宰しながら、主に東京以外で(東京デスロックですから)、外部演出も手がけています。東京デスロックは2001年結成ですが、僕は2013年から見始めたので、それ以前のことはよくわかりません。噂によると、初期はとにかく実験的な上演が多く、役者が一人も出ないお芝居もあったとか。

 東京デスロックの代表作『3人いる!』『再生』や、客いじりNo.1の『奴婢訓』SPACで上演した芥川龍之介『歯車』などなど、 語りたいことは山盛りあるんですが、とめどなく書いてしまいそうなので、まずは僕が「多田さん、スゴイなあ」と感嘆したことを一つに絞って紹介します。

 


『ゴドー』は舞台を見て感じるしかない

 

 2019年、KAAT(神奈川芸術劇場)で多田さん演出の『ゴドーを待ちながら』が上演されました。言わずとしれた、サミュエル・ベケットの作品です。(僕は令和バージョンを見ました。)

 

 

 とはいえ、『ゴドーを待ちながら』って、名前は知っているけど、実は中身をよく知らない方が多いのではないでしょうか。まず千夜千冊1067夜の冒頭を紹介します。(詳しく知りたい方は、ぜひ1067夜をまるごと読んでください。)

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 エストラゴンが「どうにもならん」と言って始まる。そこは田舎道で、エストラゴンは道端で片っぽの靴を脱ごうとしている。するとヴラジーミルが「いや、そうかもしれん」と言う。びーん。「そんな考えに取りつかれちゃならんと思ってわたしは、長いこと自分に言いきかせてきたんだ」。
 こんな芝居はかつてなかった。ともかく二人のとりとめもない会話がえんえん続くだけで、何もおこらない。そこへやっと首に綱をつけられたポッツォがラッキーに引っ張られて登場し、これで何かが始まるかというと、もっと何もおこらなくなっていく。何かがおこってほしいという期待はことごとく裏切られ、それなら何もおこらないと見えたことは何だったのかが問われてくる。
 そのうち舞台は、「何かがおこる」とはいったい何がおこることなのかを問うているような仕打ちを見せる。びーん。こんな芝居はかつて、なかった。サミュエル・ベケットが『ゴドーを待ちながら』を書くまでは。
 残り滓。持ちこたえられない中心。慰めにもならない断片。結局、『ゴドー』にあるのはこれだけだ。ところがでは、『ゴドー』にないものは何かと言ったら、何でもある。だから『ゴドー』を見ることは、ときにすべての想像力を動員させることになる。

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 ある意味では、松岡校長の以上の文章がほぼすべてを説明しきっています。登場人物はエストラゴン、ウラジミール、ポゾ―、ラッキーと、男の子の5人だけ(※なお、登場人物の名前や引用などは、2018年に出版された『新訳ベケット戯曲全集』に合わせます)。エストラゴンとウラジミールはゴドーを待ちながら、2人で暇をつぶしているのだけれど、いつまで経ってもやってこない。代わりに、珍妙な2人組のポゾ―とラッキーがしょっちゅうやってくる。それから、毎日の終わりに男の子が、「ゴドーさんからの伝言で、今晩は来られないけれど、明日は必ずって」と告げにくる。要約すれば、これだけの話です。

 

 ただ、松岡校長は千夜千冊にこうも書いています。

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 ないない尽くし――。それが『ゴドー』なのだった。舞台に登場しないゴドーが神であろうと、退屈であろうと、風来であろうと、不条理であろうと、豚肉であろうと、定義づけであろうと、それを証すものは何もない。あるのは山高帽と一本の柳だけなのである。びーん。
 こんなことをいくら説明したところで、『ゴドー』はわかるまい。『ゴドー』は舞台を見て感じるしかない。

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 校長のおっしゃるとおりだと思います。気になる方は、ぜひどこかで見て感じてください。

 


誰もいない舞台に

かすかに鈴の音を鳴らした

 

 多田さんが何をどう考えながら上演したのかは、このページこの記事でよくわかります。特に、後者のインタビュー記事はいろいろと面白い。たとえば、「『ゴドー』に関しては確実に、お客さんが退屈する=お客さんもゴドーを待っていることを取り入れて書いているところがありますね」とおっしゃっていますが、確かに後半の第二幕、「長いな~、しんどいなー」と思ったのを、はっきり憶えています。ああ、そうか、あれは待たされていたんだ。確かに僕も、エストラゴン、ウラジミールと一緒に待ちくたびれました。

 

 ようやく本題に入るんですが、このお芝居には、ビックリするとともに、えもいわれぬ幸福感に包まれたシーンがありました。ここ数年で見たお芝居で最も印象に残っているシーンの1つです。まったく忘れられません。

 

 前者ページの演出家コメントには、こう書かれています。「サミュエル・ベケットの戯曲は一切の改変が許されず、戯曲に書かれている以外の演出、例えば音楽を流したりもできません」。おそらくは改変にならないギリギリで、多田さんは独自のシーンを作りました。

 まず、エストラゴン、ウラジミール、ポゾ―、ラッキーの4人にくんずほぐれつの追いかけっこをさせて、全員を舞台上から追い出しました。1分くらいだったと思いますが、舞台に誰一人いない時間ができました。そこで多田さんは、観客席も含めた劇場全体を少し明るくして、かすかに鈴の音を鳴らしたんです。

 

 

観客のもとには

日本の神がおとづれた

 

 このシーンに、いったいどんな意味があるのか。僕は「日本の神がおとづれたのだ」と理解しています。松岡校長は『花鳥風月の科学』にこう書いています。

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 神の到来を日本では「おとづれ」と呼びます。「おとづれ」は音連れです。
 音がしたというより、音としか呼びようのない名状しがたい動向がやってきたという意味です。古代には、この「おとづれ」を実際にも聞こうとした痕跡があります。それはサナギ(鐸)とよばれた鈴に似た器具をサカキのような樹につるし、しばしその前に虚心にいて、そこへ風が吹きこむような音を聞くことによって強いスピリットの到来を感じたという方法です。

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 空洞の場所、誰もいない舞台に、かすかな鈴のような音がするというのは、日本では神のおとづれを表すことなのです。つまり、エストラゴンとウラジミールのもとにゴドーは来なかったけれど、彼らがいないところで、観客のもとには日本の神がおとづれたわけです。多田さんは「ここは日本ですけど、何か?」とやったのだ、と僕は理解しています。

 『ゴドー』は、全体的に待ちくたびれた感で鬱屈としているだけに、ほんのわずかなシーンがお芝居の印象をパッと明るく変えました。再演されたら、僕はこのシーンを見るためにもう一度見に行くでしょう。

 

 

 

「待つこと」により強く焦点が当たった『ゴドー』

 

 もう少し語ると、『ゴドーを待ちながら』では、ゴドーが来ないことが、黙示録的なキリストの再臨がおこらないことと明らかに重ねられています。ベケット本人はゴドー=ゴッドを否定しているそうですが、でも、ゴドーからゴッドを連想しないで見るのは難しい。エストラゴンとウラジミールは、ゴドーがやってきて神の国を確立し、自分たちが救われるのを待っているのだ、という解釈をまったく入れずに見るのは難しいお芝居です。

 でも、非キリスト教徒の日本人には、いつまでも来ない神を待つ、という行為にはどうしてもピンと来ないところがある。だって、日本では神社に行けば神様がいるし、何ならそこらじゅうに神様がいますから。仏教も、「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われるとは言いましたが、神を待てば救われるとは言いませんでした。日本の僕らは、神の待望にあまり縁がないんです(マレビトは来ますけど)。

 

 多田さんが空洞の舞台に鈴の音を鳴らして日本の神を到来させたことで、キリスト教の神の存在が相対的なものになって、舞台上の存在感が薄れた、と僕は感じました。

 そして、「待つこと」に、より強く焦点が当たったように感じます。待つことのイライラとつまらなさと、つまらなさを解消するための遊びの意外なほどの楽しさと、待つことの底にある希望と、そうしたすべてを傍から見たときの滑稽さがよく見えた『ゴドー』だったんだな、といま振り返って思います。僕らは、根本的には滑稽に、でもそれなりに楽しみながら、死を待ちつづける存在なのかもしれません。

 

 僕が多田さんのお芝居を見逃せない理由、多少は伝わったでしょうか?


  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。