翻案の使いみち[芝居と読書と千の夜:16]

2021/04/16(金)08:52
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★演劇:ソン・ギウン(第12言語演劇スタジオ)

    ×多田淳之介(東京デスロック)
    『カルメギ』

    『外地の三人姉妹』

 

★本:浦雅春『チェーホフ』(岩波文庫)

 

★千夜千冊:1671夜 清水良典『あらゆる小説は模倣である。』

 

 

☆☆☆お勧めオンライン舞台 その2☆☆☆
木ノ下歌舞伎『義経千本桜ー渡海屋・大物浦ー』(4/25まで)

 

 木ノ下歌舞伎とこのお芝居については、次回たっぷり語りますが、あと10日ほどで終わってしまうので、先にお勧めだけしておきます。演出は、ただいま絶賛紹介中の多田淳之介さんです。
 僕は趣味をあまり他人に押しつけたくないんですが、これに関しては皆さんに押しつけたい。そのくらいすばらしかったです。いきなり2021年ベストかもしれない、と思うほどでした。歌舞伎も平家物語も、よくわからないんですけど…という方にこそ、お勧めします。木ノ下裕一さんによる『渡海屋・大物浦』特別講座もついていますから、よーくわかるはずです。歌舞伎がわかる方はわかる方で、また違う見方ができるでしょう。少々お金がかかりますが、損はしないと思います。

 


お芝居が始まったとたんに涙が出てきた話

 

 今回のテーマは、[破]物語編集術でおなじみの「翻案」です。見たこともないお芝居について読むのは面倒な方も多いと思いますが、翻案が気になる方は、飛ばし読みでも読んでいただけたら幸いです。

 

 前回に続いて、多田淳之介さん演出の『外地の三人姉妹』というお芝居を紹介します。昨年2020年12月に上演されたんですが、僕、はじめての体験をしました。舞台が始まったとたん、涙が出てきたんです。まだ何も起きてないのに笑。我ながらビックリしました。

 2020年の疲れは確実に影響しています。きっと皆さんもそうだと思うんですが、僕は去年、前例のない事態に心身ともに疲れ果てました。後半は仕事なども忙しく、12月もお芝居を見ている場合ではないくらいバタバタしていたんですが、何とか劇場にたどり着けた。それで涙が出てきた、という面はまちがいなくあります。


 ただ、単にそれだけ、というわけでもないんです。

 


チェーホフ戯曲を「韓国×日本」に翻案

 

 『外地の三人姉妹』は、その前に作られた『カルメギ』というお芝居とセットで語るとわかりやすくなります。基本構造が同じだからです。

 

①『カルメギ』『外地の三人姉妹』の翻案・脚本は韓国のソン・ギウンさんで、演出は日本の多田さん。どちらの上演でも、日韓の役者が混じって演じました。日本人と韓国人が共同で制作した舞台です。

 

②どちらも、チェーホフ戯曲の翻案です。『カルメギ』は『かもめ』(※カルメギは韓国語でかもめの意味)、『外地の三人姉妹』は『三人姉妹』の翻案です。なお、[破]物語編集術とは少々違って、ソン・ギウンさんの翻案は細かなところまで、かなり丁寧に原作に沿っています。『カルメギ』を見れば『かもめ』を、『外地の三人姉妹』を見れば『三人姉妹』を見たようなもの、といってよいくらいです。

 

③チェーホフ戯曲の舞台はロシアですが、両作品の舞台は1930年代の植民地朝鮮に移されました。単に韓国というわけではなく、「日本が植民地支配していた韓国」にしたことがポイントです。もちろん、時代背景はしっかり反映されています。

 

 つまり、『カルメギ』『外地の三人姉妹』は、「韓国×日本」のメンバ―が、チェーホフ戯曲を「韓国×日本」に翻案して上演した作品群、ということです。

 

 


なぜチェーホフなのか

 

 では、なぜチェーホフ戯曲が選ばれたのでしょうか。僕の理解では、大きく3つの理由があると思います。

 

 その前に、ごく簡単にチェーホフの説明をします。アントン・チェーホフは、19世紀のロシアの作家・劇作家で、トルストイやドストエフスキーの少し後に活躍しました。特に有名なのが、『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』の4大戯曲です。これらは日本でもいまだにしょっちゅう上演されますから、見るチャンスは比較的多いはずです。ぜひ一度どうぞ。

 ロシア文学というと、それこそトルストイやドストエフスキーのおかげで、「観念的」「道徳的」「哲学的」「長くてドラマチック」「人間関係がドロドロしていて激しい」といった印象が強いような気がします。ところが、チェーホフは正反対です。端正であっさりしていて日常的で、つかみどころがありません。なんだかロシアっぽくないんです。

 

アントン・チェーホフさん

 

 浦雅春さん(『チェーホフ』岩波文庫)によれば、チェーホフは「絶望の詩人」です。チェーホフがやっていることは、「手を変え品を変え人間の希望を殺すこと」であり、「意味の崩壊」と「無意味の深淵」をさらけ出すことです。ニヒリズムとナンセンスの作家なんですね。つかみどころがないのも当然です。
 これがチェーホフが選ばれたと思う第一の理由です。だって、1930年代の植民地朝鮮に希望なんてありませんから。支配された韓国はもちろん、近々戦争に負ける日本にだって絶望しかありません。実にチェーホフが似合うのです。

 

 


チェーホフは漱石に似ている

 

 第二の理由は、「都会と田舎の対立関係」が明確だからです。チェーホフの4大戯曲の舞台はすべて、ロシアの片田舎です。そこに都会から人がやってきて、やがて去り、主人公たちが田舎に取り残される、という共通した筋書きがあります。『外地の三人姉妹』も『カルメギ』も、この共通プロットをうまく生かしています。「都会=日本(東京)」「田舎=韓国」の対立関係を作って、朝鮮半島を蹂躙した日本、という力関係を描いています。

 

 第三に、チェーホフ戯曲は「コミュニケーションがうまくいっていない」からです。前々から思っているんですが、僕の印象では、チェーホフは夏目漱石に似ています。届いたばかりの『情報の歴史21』では、チェーホフが大きく取り上げられているのは1901年、漱石は1906年です。チェーホフが亡くなった直後に、漱石は『吾輩は猫である』を書いて小説家を始めます。詳しく調べていないのですが、漱石はチェーホフの影響を受けているのではないでしょうか。そう感じる最も大きな理由は、両者ともに「ディスコミュニケーション」をよく扱っているからです。


 浦雅春さんは、こう書いています。「チェーホフの芝居はダイアローグ(対話)をよそおいながら、深く『対話の不在』を内包している。一見にぎやかなチェーホフのダイアローグはむしろ、人びとの孤独や孤立、通い合うことのないこころを際立たせる」。たしかにそのとおりで、『カルメギ』も『外地の三人姉妹』も、もちろん登場人物は話しますが、理解しあえていなかったり、すれ違ったりばかりしています。日本と韓国の関係も、実は似ているのではないでしょうか。

 

 


翻案を使って、日韓の「埋まらない歴史の溝」を見つめあう

 

 僕は、『カルメギ』と『外地の三人姉妹』は、一種の儀式だと捉えています。日本人と韓国人が仲良くなるために、自分たちのあいだに横たわる「埋まらない歴史の溝」を見つめあう演劇の儀式です。チェーホフの翻案は、儀式のために欠かせないツールです。

 どうやったって、閔妃暗殺や安重根による伊藤博文暗殺、そして日本が韓国を併合して植民地にした歴史はなくなりません。本当に理解しあおうと思ったら、とりあえず歴史を、埋まらない溝を見るところから始めるしかない。それを避けている限り、ディスコミュニケーションは終わらないのではないでしょうか。

 

 翻案には、こういう使いみちもあるんです。

 

 もう1つ、編集的に面白いことがあって、『カルメギ』のラストでは、20世紀の日韓関係史年表がずーっと流れるんです。年表が流れるお芝居なんて、僕はほかに見たことがありません。一転して、『外地の三人姉妹』では、要所で年表が登場する方式になりました。冒頭にも年表が出てきます。最初にパッと年表を見たとき、「あー、儀式が始まったんだな」と思ったら、涙が出てきたんです。僕にとって、この2つのお芝居はどうやらけっこう厳粛な儀式のようです。

 

 最後に、千夜千冊1671夜(清水良典『あらゆる小説は模倣である。』)からの引用を1つ。
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  ガブリエル・タルド(1318夜)が『模倣の法則』(河出書房新社)に詳しく説諭したように、模倣は最も生産力に富んだ「社会の基礎力」であって「文化のエンジン」である。模写・模倣・模伝や参照・引用・敷延こそが社会文化を支えてきた。模倣すなわちミメーシスは、文化の文法だった。
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 物語の翻案からは、模倣の強力なパワーを直接感じることができます。でも、正面から堂々と「翻案でござい」と言っている作品って、実はそれほど多くありません。清水良典さんの言うとおり、本当は、あらゆる小説も演劇も、ある面で模倣なんだと思うんですが、模倣だよ、とは言いにくい世の中ですからね。『カルメギ』と『外地の三人姉妹』は、そういう意味でも貴重な作品だな、と感じています。まるで編集稽古のお手本のようなんです。


  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。