平清盛は悪人だったのか[芝居と読書と千の夜:18]

2021/05/13(木)14:45
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★演劇:木ノ下歌舞伎『義経千本桜―渡海屋・大物浦―』

 

★本:元木泰雄『保元・平治の乱』(角川ソフィア文庫)

   元木泰雄『平清盛の闘い』(角川ソフィア文庫)

 

★千夜千冊:1420夜 小島毅『義経の東アジア』

 


はじめの45分が歌舞伎じゃない歌舞伎

 

 前回で説明したとおり、木ノ下歌舞伎は『東海道四谷怪談』『三人吉三』のような全幕上演・長時間上演が多いのですが、『義経千本桜―渡海屋・大物浦―』は、『義経千本桜』全五段のうち、二段目後半の「渡海屋・大物浦の段」だけを上演します。上演時間も2時間20分くらいと短めで、木ノ下歌舞伎では割と珍しいタイプのお芝居です。

 

 しかも、前半の45分は、「渡海屋・大物浦の段」ですらありません。これが木ノ下歌舞伎版『義経千本桜―渡海屋・大物浦―』の最大の特徴なんですが、最初に平家の栄枯盛衰ストーリーと、『義経千本桜』の「渡海屋・大物浦の段」に至るまでの物語(一段目と二段目前半)をダイジェストで見せたうえで、いよいよ「渡海屋・大物浦の段」に入っていく流れになっています。はじめの45分が歌舞伎じゃない歌舞伎、なんですね。

 

 なぜ、そんな構成になっているのか。次回で詳しく説明しますが、実は『義経千本桜』は、観客が平家の栄枯盛衰ストーリーを知っている、という前提で作られたフィクションなんです。江戸時代の民衆は、源平合戦と周辺史を常識として知っていたわけです。

 ところが、現代日本の僕らの多くは、そうした基礎知識が足りていません。屋島の戦いや壇ノ浦の戦いくらいは知っていても、保元・平治の乱、平清盛、福原京のことなど、本当はよくわかりません、という方が大多数ではないかと思います。実は、僕もそうでした。だから、この45分が必要なんですね。

 

源平合戦の舞台となった瀬戸内海

 

 最初の45分が、僕が第一にすばらしいと感じている点です。ということで、木ノ下歌舞伎に倣って、平家をめぐる歴史的事実をごく簡単に説明します。

 


平家以外も死屍累々

 

 前半45分では、天皇家、摂関家、院の近臣、平氏・源氏の面々がとにかく次々に死んでいきます。主な名前を挙げると、白河院、近衛天皇、崇徳院、藤原頼長、源為義、平忠正、鳥羽院、藤原信西、藤原信頼、源義朝、平重盛、二条天皇、以仁王、源頼政、平清盛。ここまでが源平合戦以前の主な死者です。さらに源平合戦で、平知盛以下の平家はほぼ全滅し、安徳天皇と乳母・典侍局も入水自殺します。

 ちなみに、劇中では「着物を脱ぐ=死ぬ」を意味しており、いま名前を挙げた人たちがみんな死ぬと、舞台上は着物でいっぱいになりました。このお芝居では省略されましたが、木曽義仲をはじめ、他にも死者はたくさんいます。『平家物語』および周辺の物語は、平家以外も死屍累々なのです。

 

 少し詳しく説明すると、平清盛が一躍出世する要因になったのが、「保元の乱」と「平治の乱」でした。保元の乱は、政争に負けて失脚した崇徳院と藤原頼長が起こした内乱で、平忠正(清盛の叔父)や源為義(頼朝・義経の祖父)も加わりました。敗北した崇徳院は讃岐に流され、菅原道真・平将門と並ぶ日本三大怨霊になりました。藤原頼長は戦で死去し、平忠正や源為義は処刑されました。

 

 続いて起きた平治の乱は、保元の乱で権力を得た藤原信西が周囲の反感を買い、藤原信頼や源義朝たちに討たれた内乱です。清盛はこの反乱軍に勝利したことで、乱を収め、絶大な権力を手にしていきます。このとき敗北して死んだ源義朝は、為義の息子、頼朝・義経の父です。つまり、保元・平治の乱で、頼朝・義経の祖父と父は、相次いで反乱を起こしたわけです。反逆者の孫および息子ですから、2人は殺されても何らおかしくありませんでした。頼朝の命が救われたのは、ひとえに清盛の母(池禅尼)の助命嘆願があったからで、義経の命が救われたのは義経の母が美女だったからです。詳しく知りたい方は、元木泰雄『保元・平治の乱』(角川ソフィア文庫)をお勧めします。

 

 


グローバリズム信奉の改革派・平清盛

 

 保元・平治の乱が終わって、1160年頃から清盛が熱病で死ぬ1181年までの約20年間、日本は「平家にあらずんば人にあらず」でおなじみの、平家の世を迎えます。清盛は、歯向かう後白河院を幽閉したり、自らの血縁の安徳天皇を満1歳で即位させたりと、やりたい放題をやって、天皇家の権力を手中に収めて強権政治を行いました。そのために後世、日本史上最高の悪役の一人として描かれることになったわけです。

 

 ただ、歴史を紐解くと、実際の清盛はたしかに強権を発動した独裁者で、もちろんいい人だったなんて思いませんが、完全な悪人でも愚鈍な人物でもなかったようです。むしろ、元木泰雄『平清盛の闘い』(角川ソフィア文庫)は、清盛を先進的政治家として描いています。

 清盛最大の事業といえば、「福原京遷都」です。福原京とは現在の神戸。わずか半年ほどでしたが、清盛は京都から神戸に都を移しました。なぜそんなことをしたのか。すべては「日宋貿易」のためです。清盛は南宋との貿易に力を入れており、日本を貿易立国にするために、大胆にも、貿易拠点だった福原=神戸に都を移したのです。

 

 

 千夜千冊1420夜(小島毅『義経の東アジア』)には、こう書かれています。
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 清盛の日宋貿易によって、日本には宋銭が大量に流入して「銭の病」がおこった。あぶく銭やダーティマネーが出回ったのである。相手国の通貨が一方的に流入してきたということは貿易黒字が出たということだ。一九八〇年代の日米関係もそうだった。ドルが日本に入ってきて日本は貿易黒字、アメリカには貿易赤字が積み上がっていった。おかげで手ひどいジャパン・バッシングを食らった。ただし、現代では自動車をはじめとするさまざまな製品が交易されるのだが、当時はまったく別の交易品が流れた。日本は何を中国に売っていたかというと、金を売ったのだ。
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神戸の繁栄のはじまりは清盛の福原京

 

 現代風に言えば、清盛はグローバリズムを信奉する改革派の政治家でした。元木さんはこんな風に書いています。「おそらく、清盛は南宋の首都臨安が海に面する大貿易港として、繁栄を謳歌していたことを宋人から知らされていたことだろう。そして、将来の宮都福原の姿と重ねあわせていたのではないだろうか」。清盛の目は完全に世界=中国に向いていました。従来の公家社会を打ち捨てて、福原京を中心にした国際貿易国家をつくろうとしていたわけです。ちょっとだけ話を先取りすると、「平家は開国を狙い、源氏は結局は鎖国的だった」(1420夜)のです。

 

 清盛は、改革、いや革命といってよいほどの行動に出たんですね。そして、日本に国際通貨・宋銭を大量にもたらして「平家バブル」を起こしました。これを悪と呼ぶかどうか。微妙なところです。悪い側面も良い側面もあったのではないか、と思います。ただし、当時の福原は畿内(=公家社会が考えていた日本)の端にあり、公家社会の面々にとって、そんなところに都を移すなんてありえないことでした。清盛はやりすぎたんですね。以仁王と源頼政の命がけの宣旨によって、諸国の源氏が立ち上がったのはそんなときでした。良いタイミングだったのだと思います。

 

宋銭(As6022014が撮影)

 

 善し悪しはまったくわかりませんが、もし清盛が生きつづけ、源平合戦に勝って国際貿易国家をつくりあげていたら、日本はかなり違うかたちになっていたでしょう。しかし、清盛は源氏が攻めてきた絶妙な局面で熱病によって死にました。絶対的な首領を失った平家は、義経に負けつづけて滅びたのです。


  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。