真っ白な社会と赤いヤバいヤツ[芝居と読書と千の夜:23]

2021/08/11(水)09:15
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★演劇:中野成樹+フランケンズ2021『Part of it all』

 

★本:エドワード・オールビー「動物園物語」
   (『エドワード・オールビー(1)』ハヤカワ演劇文庫所収)

   熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)

   中井久夫『分裂病と人類』(東京大学出版会)

   岩井寛『森田療法』(講談社現代新書)

   北西憲二『はじめての森田療法』(講談社現代新書)

 

★千夜千冊:1325夜『森田療法』岩井寛

 

 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会=

「真っ白な社会」の不自由さについて

 

 前回からの続きですが、最近、赤いヤバいヤツを排除しようとする意識はますます高まっているように思います。なぜか。一言で言えば、現代社会が、前回記事の白い普通の人たちが住む「真っ白な社会」だからです。

 

 熊代亨さんの『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)は、真っ白な社会を適確に捉えています。熊代さんによれば、現代社会は美しい秩序からの逸脱を許しません。たとえば、「秩序の行きわたった街で暮らす子どもは、そのような街にふさわしい、秩序からはみださない子どもでなくてはならない」ですし、大人は「とにかく健康でいなければならないという強迫観念に基づいて、あるいは健康が当たり前だからという漫然とした思い込みのうちに、健康に時間とお金を費やしつづけて」います。行儀の良いこと、健康であることが秩序であり、秩序を守っている限り、僕たちは「白い普通の人」でいられます。他にも、清潔であること、かわいいこと、コミュニケーション能力が高いことなどが、真っ白な社会では価値の高いことです。

 

 

 反面、「不揃いでコミュニケーション能力が高いとは言えない人々にとって、この社会は働きやすいとは言いがたい」ですし、「まったく人間関係を持てずに孤立を余儀なくされる人」も大勢います。つまり、真っ白な社会に合わないとみなされれば、隅っこのほうに追いやられるか、赤いヤバいヤツとみなされる。そして、ひどい目にあう。それが現代社会の裏面です。わかりやすい例を挙げれば、ホームレス、ヤクザなどはそうしてどんどん排除されていっています。

 

 もっと象徴的なのは、「死にたい」という言葉が簡単に言えなくなったことです。僕は、ときどき失踪したいとか死にたいなどと思うのは、別に珍しくも何ともない心の動きとしか思えないんですが、福祉関係者や教育関係者が「死にたい」という言葉を希死念慮とみなして医療につなげるようになったために、簡単に言えなくなってしまいました。もちろん本当に危ない「死にたい」もあるわけで、自殺予防は必要なことです。そこに文句を言うつもりはありません。しかし自殺予防が行きわたった結果、「死にたい」と一言言っただけでも赤いヤバいヤツだ、とみなされかねない真っ白な社会が出現したわけです。

 

 ちなみに熊代さんは、第三章で現代社会の喫煙への不寛容についても触れています。きっと松岡校長は共感されるだろうと思います。

 


 

 

本当にヤバイのが赤いヤツか、青いヤツか、白い普通の人か

僕らに本当にわかるのか

 

 真っ白な社会は、赤いヤバいヤツを強く排除しようとします。たとえば、「東京に限らず、日本の住宅地には『不審者』への注意を促す掲示物があらゆる場所に設置されている。こうした掲示物が、犯罪者に対する警戒を促し、犯罪を未然に防いでいる側面もあるだろうが、たとえば浜井・芹沢が『犯罪不安社会』のなかで指摘しているように、そうやって私たちは、不審な行動をとる者・秩序からはみ出しているように見える者へ疑いのまなざしを持つよう、たえず訓練されてもいる」のです。

 

 

 こういう日本の住宅地こそ、中野成樹+フランケンズ2021『Part of it all』がまさに描いたことでした。もうちょっといえば、このお芝居は「青いヤバくなさそうなヤツ」を登場させることで、その疑いのまなざしが、実は犯罪者の発見にはそれほど役に立っていないのではないか、というメッセージも入っていたように思います。赤いヤバいヤツが本当にヤバいかどうか、僕たちは判別できているのでしょうか。本当にヤバいのは青いヤツかもしれないし、白い普通の人のほうかもしれないのです。これはけっこう難しい問題です。

 

 

真っ白な社会は

ヒトの根源的な不安を解消しない

 

 ここから先は僕が考えることですが、僕は「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会=真っ白な社会」が、むしろ人々の不安を増強しているように感じています。なぜなら、いくら社会が真っ白になっても、個人の不安はいっこうに解消されないからです。赤いヤバいヤツを排除したところで、不安がそれほど減るわけではないからです。そのことに、むしろ不安を高めている人が多いように見えるのです。

 

 よく考えれば、不安が消えないのは当たり前のことです。これから自分がどうなるか。どの選択肢を選べばよいのか。どこへ向かえばよいのか。あの人と付き合ってよいのか。どうしたら幸せになれるのか。僕らはそういった不安をたえず抱えながら生きるほかにありません。積極的に評価すれば、不安は生きるために欠かせないものです。

 中井久夫さんは『分裂病と人類』(東京大学出版会)にこう書いています。「おそらく採集者であった最古の人類も今日の採集者と同じく、兆候的なものに敏感であることが優位を保証したであろう」。中井さんは「兆候的なものに敏感な気質」を分裂気質(いまの言葉でいえば統合失調症気質)と呼びました。つまり、いろんなことを敏感に察知して不安を感じ取る能力は、狩猟採集社会を生き残る上では優位だった、というのです。しかし、現代では敏感さはそこまで必要がなく、むしろ生まれつき敏感な人は統合失調症になりやすい、というわけです。

 

 

 対する現代人の多くは、不安をできるだけ感じたくないように見えます。真っ白な社会は、きっと自分の不安を減らしてくれるはずだ、と思っているように見えます。ところが真っ白な社会は、ある部分では安心安全を提供して不安を減らしますが、だからといってヒトの根源的な不安を解消することは決してありません。いま説明したように、不安はヒトの生そのものと密接に結びついているからです。

 

 

真っ白な社会全体が

「神経症」になりつつあるのではないか

 

 不安の動きについて、的確に捉えているのが森田療法です。千夜千冊1325夜に詳しい説明がありますが、森田療法とは森田正馬が開発した神経症(神経衰弱)の治療法です。『はじめての森田療法』(講談社現代新書)の著者・北西健二さんが開発した現代的な森田療法(外来森田療法)では、神経症以外にもうつ病、発達障害、大人の発達障害、気分障害、パーソナリティ障害、統合失調症など、もっと幅広く精神病の治療に応用されて効果を上げています。

 

 

 森田療法の基本的な考え方は本当にシンプルで、「あるがまま」に生きれば治る、というものです。千夜千冊1325夜にはこうあります。

 

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 この自己判断の誤りを森田は「思想の矛盾」とも名付けたが、これはわかりやすくは心理的葛藤のことである。患者の多くは自分で勝手につくりあげた妄想にも近い葛藤に悩んでいる。そこから抜け出せなくなっている。そうならば、どうしたらこの「とらわれ」(とらわれの機制)を解除することができるのか。
 森田は、たとえ現実的な自己に不満があっても、むしろ「あるがまま」の自分を受け入れるほうがいいと判断した。理想の自分や理念の自分と現実の自分を比較しすぎることが葛藤をつくってきたのだから、むしろ現実の自分から出直したほうがいい。それには「あるがまま」の気持ちになることだと判断したのである。

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 「あるがまま」とは、「一人前の人間として、人生に対する方向性を見出して行動するときに、希望と同時に生じてくる不安や葛藤を”そのままに認め、受け入れる”こと」です(岩井寛『森田療法』講談社現代新書)。

 「人間の生の欲望は必ずしも真なるもの、善なるもの、美なるものに満たされているわけではない。その逆に、偽りなるもの、悪なるもの、醜なるものも包含されている。[…]森田は、この真実を率直に認め、相反する欲望が、人間には同時に存在していることを受け入れているのである。しかし、神経症者は、人間にとってよき欲望を一方的に求め、悪しき欲望を否定し去ろうとする傾向がある。それは一見良心的に見えるが、実は、人間の欲望の真実を認めない、偏った思考にすぎない」。だからこそ、神経症者は自分のなかに不安や葛藤があること、悪しき欲望が存在することを認めなさい、そうすれば自ずから治っていきます、というのが、森田療法の原理です。

 

 

 森田療法によると、不安や葛藤や恐怖心は、消そうとすればするほどかえって大きくなります。「自分の不安、恐怖、イヤだと思う感情、落ち込みなどを何とかしようとあれこれ考え、行動することを『はからい』と呼びます。人ははからえばはからうほど、苦悩、不安を強めて『とらわれ』の状態に陥ってしまいがちです」(『はじめての森田療法』)。そうではなくて、自分のなかに不安や葛藤や恐怖心があることを認め、不安に感じるものは不安に感じ、恐れるべきものは恐れなさい、と森田療法は説くのです。

 

 森田療法の見地から「真っ白な社会」を眺めると、社会全体が神経症にかかりつつあるような感じがします。なぜなら、真っ白な社会には、よき欲望を一方的に求め、悪しき欲望を否定し去ろうとする傾向、不安や恐怖をただ消そうとする傾向があるからです。でも、そんなことをしても「とらわれ」るばかり、不安や恐怖は強まるばかりなのです。

 

[表紙]

以上の2冊を読んで興味を持ったら、松岡校長が岩井寛さんの最期の日々の言葉を書き取った『生と死の境界線』(講談社)もぜひ合わせてお読みください。

 


キャンセルカルチャーという
世界的ないじめについて

 

 日本でも世界でも、キャンセルカルチャーが流行っています。いままでの用語を生かして説明すると、キャンセルカルチャーとは、赤いヤバいヤツとみなした有名人を社会から脱落させていく文化のことを指します。僕には、キャンセルカルチャーは「世界的ないじめ」にしか見えません。

 

 いまのところ2021年の日本で最も強烈なキャンセルカルチャーの犠牲者は、小山田圭吾さんでしょう。僕も別に小山田さんを養護するつもりはありません。でも、あれが「元いじめっこを寄ってたかっていじめるという地獄絵図」だったことも確かだ、と僕は認識しています。なお、「いじめられるほうが悪い」というのは、いじめっ子の常套句です。相手が悪いからといって、いじめていいということにはならない、というのが学校や社会が従来教えてきたことのはずです。

 

 僕は、キャンセルカルチャーと、現代社会の真っ白化は密接につながっていると感じています。僕には、全体として神経症にかかりつつある真っ白な社会が、自分たちの不安、恐怖、イヤだと思う感情、落ち込みなどを何とかしようとして、赤いヤバいヤツを叩いているように見えるのです。つまり、キャンセルカルチャーは真っ白な社会の「はからい」だと思うのです。

 森田療法が唱えるとおり、そんなことをしても根源的な不安や恐怖は解消されず、かえって大きくなるばかりです。そのため、真っ白な社会の住人たちは「とらわれ」を増大させ、次々に赤いヤバいヤツを見つけては叩いているのではないでしょうか。当然、そこに新型コロナへの不安VUCAへの不安が拍車をかけています。この推測が当たっていれば、これからも赤いヤバいヤツを叩く動きはなくならず、ますます盛んになっていくはずです。いま僕は、この現象を「真っ白な地獄」あるいは「安心安全地獄」と呼びたい気持ちになっています。

 

 前回記事に書いたとおり、僕は、人間は基本誰しもいじめの芽を心に生やしている、と考えています。過去にいじめを受けて辛い経験をした方々にこうしたことを言うのは心苦しいのですが、でもそうした方々であっても、いじめの芽は生えているはずです。いじめに関して真っ白な人間などほとんどいないはずなのです。ところが、小山田さんを叩くと、あたかも他の多くが真っ白であるように見える。ここに真っ白な社会の欺瞞があります。いじめ以外のさまざまなことも同様です。そんな社会の嘘に騙されて、本当は白くない自分のことを真っ白だと思いだしたら、きっと神経症の始まりです。

 

 

 ネガティブな話を続けてきたので、少しだけ前向きな話をして中締めにします(あとで続きを書きます)。僕が思うには、この状況を改善させる数少ない方法の1つは、真っ白な社会の住人である僕たち全員が、森田療法を受けることです。受けずとも、『はじめての森田療法』『森田療法』を読むことです。たったそれだけでも、見方が変わるはずです。

 

 最後に、千夜千冊1325夜から、岩井寛さんの『生と死の境界線』(講談社)の一節を引用します。自分は白くないのだと理解した人たちが、叩き合いの倫理ではなく、弱さの論理に向かっていくことを期待して。

 

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 ★―やっぱり自分自身の弱さと同時に、他者の弱さも認める、受け入れる必要があります。やっぱり他者を受け入れたい。その人たちだってみんな弱くて傷ついて悲しいんです。だとすれば、そこへまず手をさしのべるという形になるでしょう。これは「弱さの論理」ですよ。人間というのは、本当に「弱さの論理」というものが必要だと思いますね。

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  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。