子どもたちは名優だ[芝居と読書と千の夜:24]

2021/09/30(木)08:30
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★演劇:中野成樹+フランケンズ2021『Part of it all』

★本:エドワード・オールビー「動物園物語」
   (『エドワード・オールビー(1)』ハヤカワ演劇文庫所収)

★千夜千冊:1345夜 中谷内一也『リスクのモノサシ』
      1348夜 小松丈晃『リスク論のルーマン』

 


☆☆☆お勧めオンライン舞台4☆☆

 

ケムリ研究室no.2『砂の女』
 9/30(木)10:00配信開始

 ※アーカイブ視聴期間:10/6(水) 23:59まで

 ※チケットはこちら

 

 安部公房『砂の女』を、ケラリーノ・サンドロヴィッチ&緒川たまき夫妻が舞台化しました。次回詳しく述べますが、安部公房リスペクトをビンビンに感じる傑作です。最近のケラさんの舞台は、円熟しながらとんがっていて、本当にすばらしい。映像の使い方に長けているのも特徴です。ふだんあまり演劇を見ない人は、見たら驚くんじゃないかと思いますよ。

 

 

完璧な客いじり、完璧なツカミ、完璧な前口上

 

 すみません、夏の暑さにやられてしまいまして、ずいぶん間が空きました。7月のお芝居の記憶が薄れてきているので、手短に済ませます。

 

 過去2回にわたって語ってきた中野成樹+フランケンズ2021『Part of it all』ですが、実は僕が一番注目したのは、これまで書いてきたことではなく「子ども」でした。

 

 前々回の記事に書いたとおり、第三部には白い服装の子どもたちが、たしか4人出てきました。劇団員のお子さんでしょう。最初に登場したのは、一番幼い男の子です。ひとりで歩いていましたがおむつをしていたので、2歳くらいではないでしょうか。その子が、一緒に来たお母さんのもとを離れ、ひとりでよちよちと客席のほうに歩いてきて、ある観客の前で止まりました。そして、ニコニコっと笑いながら「ワ―ッ」と言ったのです。次に、2席離れたお客さんのところで再び「ワ―」。最後に、別角度の客席のところ(僕が座っていたほう)まで来て「ワ―」とやりました。30名ほどの観客は全員、大喜びです。それをきっかけにして、お芝居が始まったのでした。

 

 これは僕がこれまで見たなかで、最も完璧な客いじり、完璧なツカミ、完璧な前口上でした。3回っていうのも絶妙で、あれをやられたら大人は誰もかないません。

 

 これに軽い衝撃を受けたこともあって、第三部、実は僕は4人の子どもたちを中心に見ていました。それにはもう一つの理由があって、実は第二部と第三部のセリフはほぼ同じだったのです。だから、そもそも状況を見るように仕立てられていたのですね。

 

 


心おきなく子どもたちを

観察できた稀有な場所

 

 現代は、僕のようなおじさんが公園で幼い子どもたちをじっと見つめていたら、すぐに「赤いヤバい奴」認定をされてしまう社会です。さすがの僕も、女の子たちを観察するのがNGなのはわかっているのですが、男の子ならいいかな~と見ていると、やはり一緒にいる妻に止められる、ということが何度かありました。まあ、妻が正しいんでしょうね。

 

 というわけで、せっかくなので、このお芝居では心おきなく子どもたちを観察しました。年長の女の子ふたりは、日常と変わらない感じで縄跳びなどをしていました。すでに演技が上手、という感じを受けました。だって、おそらくは状況をよく理解したうえで、観客なんてそしらぬ顔で遊んでいるのです。彼女たちを見ていると、子どもは基本的に名優なんじゃないか、という気がするほどでした。

 

 先ほどの2歳くらいの男の子は、その後も観客に物怖じすることなく、ビニールプールに興じていました。もうひとりの男の子は少しナイーブで、何度か「パパ―」と言いながら舞台から脱出して、お芝居に出ていないお父さんのもとへ駆け寄っていました。まあ、普通そうなりますよね。むしろ、お母さんたちに守られていたとはいえ、何ごともないかのようにふるまう3人のほうが変わっているんです。3人を見ながら、僕は「血だな」と思ったのでした。きっといい役者になるでしょう。

 

 


子どもたちのように

リスクとコンティンジェンシーを扱いたい

 

 子どもを観察するのは、やっぱり楽しいことでした。なぜかというと、子どもは基本、フラジャイルだからです。僕は子どもが純粋だとは全然思っていません。ただ、彼らはフラジャイルで、それゆえ周囲に敏感にイキイキと反応します。今回は4人4様でしたが、どういう反応にしたって敏感なことには変わりありません。それが面白い、というか羨ましい。彼らのようにフラジャイルで敏感だったら、さぞかし「生きている実感」が強いんだろうなあ、と思うんです。極論、日常のすべてが冒険なわけですから。僕にはそういう日々はもう戻ってきません。

 

 実際には、子どもたちは無我夢中で必死なわけで、彼らなりに大変に決まっているんですけどね。それでも、僕には子どものフラジリティに憧れがあります。たぶん僕のようなおじさんが、子どものようなフラジリティを持とうとするのは精神的に危険なことなので、あくまでも憧れにとどめておきますが。

 

 子どもたちを見ていて思い出したのは、リスクとコンティンジェンシーのことでした。千夜千冊1348夜(『リスク論のルーマン』)の一節を引用します。ルーマンは社会システムについて述べていますが、個人もまったく同じだと思います。
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 ルーマンは、オートポイエティックな社会システムには、リスクがコンティンジェントにかかわっていくと見た。システムがシステムの次のふるまいを、自分がかかえもった多様性のなかから選択することそのことがコンティンジェントであって、かつリスキーなのである。

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 もう少しわかりやすくするために、1345夜(中谷内一也『リスクのモノサシ』)からも2つ引用します。
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 そもそもリスキーな行動や出来事は、それこそが稀少価値の創出だったのである。新たなリスクの認定は新たな冒険であり、それが新しい価値の創出だったのだ。
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 むしろ適度にリスクと仲良くしておくことも、「柔らかい闇」があることも重要で、ときにはリスキーな仕事こそ生きがいなのだ。ぼくなど、ほとんどこっちのほうだ。ぼくには何もおこらない退屈こそが危険なのである。けれども世の中、「さわらぬ神に、たたりなし」。法律が安全度の基準を提示して、あなたがそんなことをしたら当局も会社も責任がとれませんといって、コンプライアンスな規制をかけるばかりになっている。あんたらねえ、はっきりいって、それがお節介なんだ。
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 子どもたちにしてみれば、周囲のあらゆることにリスクが潜んでいます。たとえば、僕は小さい頃、エスカレーターの降りるほうに乗るのが怖かったです。おおげさにいえば、エスカレーターに一歩踏み出すことすら、ちょっとした冒険でした。いろんな場所でエスカレーターに出会い、少しずつスムーズに乗れるようになっていくのが嬉しかった。子どもたちははそうやって日々リスクと仲良くしながら、コンティンジェントに可能性を選択して成長していきます。しかし、大人になるとついつい、そういうことを忘れてしまう。それどころか、いまやコンプライアンスがちがちの社会ですから、どんどんリスクを取らないほうに向かってしまいます。

 

 童心に戻るというのは、子どもたちのようなリスクとコンティンジェンシーの扱い方を、多少でも取り戻すことなんじゃないでしょうか。

 


  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。