発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。

豆から挽いた珈琲が落ちるのを待つ香ばしさ。2014年のイシス編集学校[遊]風韻講座の座名は珈琲座だった。エディットカフェに座を覗きに帰ると、旧かな遣ひで五七五に遊んだ時間をそのまま味わえる。
編集学校の教室、とりわけ風韻講座は座に連なることの愉しさを教えてくれた。小池師範の意匠の凝らされた稽古はどれも芳しかったが、白眉は連句だ。ふだんの会話では条件反射的に放って、自分と相手のあいだでひとりぼっちにさせてしまいがちな言葉。連句では、誰かの言葉のむこうにどんな空間が広がっているかをイメージして、そこに分け入るあいだに自分はなにを言葉にしてどんな新しい空間をつくるか思い巡らす。
また次の誰かが自分のつくった空間の襖を開けて、となりに新たな部屋をつくる。連句が巻き終わると、ひとりでは決して訪れることのできなかった景色が立ち上がっている。頭の中で飴玉のように吟味した季語とともに、連句を巻くあいだに体が感じた季節が折り重なっている。
風韻講座の連句の経験が忘れられなくて、今も相部礼子師範、大塚宏師範代が捌き手となりFacebookで連句を巻き続けている。SNSに場を移した連句の名は、芭蕉翁の発句から名づけた、薄紅葉の巻。講座が終わっても、一座は続く。
林 愛
編集的先達:山田詠美。日本語教師として香港に滞在経験もあるエディストライター。いまは主婦として、1歳の娘を編集工学的に観察することが日課になっている。千離衆、未知奥連所属。
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コメント
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2025-07-01
発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。
2025-06-30
エディストの検索窓に「イモムシ」と打ってみたら、サムネイルにイモムシが登場しているこちらの記事に行き当たりました。
家庭菜園の野菜に引き寄せられてやって来る「マレビト」害虫たちとの攻防を、確かな観察眼で描いておられます。
せっかくなので登場しているイモムシたちの素性をご紹介しますと、アイキャッチ画像のサトイモにとまる「夜行列車」はセスジスズメ(スズメガ科)中齢幼虫、「少し枯れたナガイモの葉にそっくり」なのは、きっと、キイロスズメ(同科)の褐色型終齢幼虫です。
添付写真は、文中で目の敵にされているヨトウムシ(種名ヨトウガ(ヤガ科)の幼虫の俗称)ですが、エンドウ、ネギどころか、有毒のクンシラン(キョウチクトウ科)の分厚い葉をもりもり食べていて驚きました。なんと逞しいことでしょう。そして・・・ 何と可愛らしいことでしょう!
イモムシでもゴキブリでもヌスビトハギでもパンにはえた青カビでも何でもいいのですが、ヴィランなものたちのどれかに、一度、スマホレンズを向けてみてください。「この癪に触る生き物をなるべく魅力的に撮ってやろう」と企みながら。すると、不思議なことに、たちまち心の軸が傾き始めて、スキもキライも混沌としてしまいますよ。
エディスト・アーカイブは、未知のお宝が無限に眠る別銀河。ワードさばきひとつでお宝候補をプレゼンしてくれる検索窓は、エディスト界の「どこでもドア」的存在ですね。
2025-06-28
ものづくりにからめて、最近刊行されたマンガ作品を一つご紹介。
山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(秋田書店)
この作品の中で語られるのは眼鏡職人と音楽家。ともに制作(ボイエーシス)にかかわる人々だ。制作には技術(テクネ―)が伴う。それは自分との対話であると同時に、外部との対話でもある。
お客様はわがままだ。どんな矢が飛んでくるかわからない。ほんの小さな一言が大きな打撃になることもある。
深く傷ついた人の心を結果的に救ったのは、同じく技術に裏打ちされた信念を持つ者のみが発せられる言葉だった。たとえ分野は違えども、テクネ―に信を置く者だけが通じ合える世界があるのだ。