施錠のなごりは次の鍵穴を連れてくる

06/13(土)10:48
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 もうすぐ2020年の夏が来る。思えば「いつもの春」には身を置けぬまま、戸惑いに時を奪われて過ぎた「コロナの春」であった。春夏秋冬。めぐる季節が人間の螺旋的な生命運動にも重要な律動を与えていたのだとあらためて思い知らされる。

 

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 編集学校には、入門編の[守]講座、応用編の[破]講座を入口にさまざまな講座がある。この記事がアップされている今は、ちょうど45期の[守]、44期の[破]が開講2か月目を迎えているところ。4月の開講から編集稽古に身を置く受講生や指導陣が、いわば「5合目」あたりにヒィフゥ言いながらさしかかっている頃である。

 

「学校」であるからには、「教室」の空間が存在する。また、別室的なアナザー・ホームとして「勧学会」という休憩室もあり、「学衆」と呼ばれる受講生たちは2つの場を自由に行き来しながら、自分の中に眠っていた編集力なるものを存分に解き放ち、お題に遊ぶ。
 場の管理者は、その教室の「師範代」である。師範代とは、基本的に稽古の指南を通して編集の方法を伝えることを主な任務とする。師範代は、場に満ちるさまざまな発言を行間の気配ごと受けとめ、また場に返してゆく。そのやりとりの景色は当然ながら教室ごとに千差万別。ひとつとして既存のパターンに埋もれるものはない。

 

 そんな有機的な場も、受講期間の刻限が来ればいつか閉じる。寄せられた回答に、師範代が指南をすべて返し終えれば教室に鍵がかけられ、熱闘の日々をいつくしみながら勧学会に発言の座を移し、互いに次なる展望などの余話に花を咲かせる。そして、勧学会にも施錠の時がほどなく来る。

 施錠の主もまた、師範代である。しかし、我が子のように接してきた学衆に対して、なかなかそう簡単に「またね!」とは言えないのが人情というもの。それどころか、この一瞬の永遠すら願ったりもする。なんてったって、「我が教室」なのだ。どう転んだって、他生の縁なのだ。後引く切なさにからめとられて、施錠のための「ポチッ」がなかなかクリックできない。

 

 例えば2019年9月16日前後の42[破]もそうだった。仕舞いを迎えた9教室が、それぞれになごりを惜しみつつ、施錠の音を文字で響かせた。パソコンやスマホの向こう側にいる大切な学衆たちに、ありったけの感謝と愛を叫ぶ師範代、突破後の新たなる進路にエールを送る師範代、エトセトラ、エトセトラ……。

 ひとつまたひとつと施錠の音が鳴り、9つすべての場が閉じられた。「約束しなくてもまた会える」という関係のかけがえなさは、喪失のキワになって初めて思い知る。切なくも香ばしい、区切りの仕舞いだ。師範代はもう戻れない時間にケリをつけ、ささやかにこう願う。これからの仲間の旅路に幸あれと。

 

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 もうすぐ夏が来る。その夏が終わろうとする頃、今は編集稽古真っ最中の45[守]、44[破]にも仕舞いの時が訪れることになる。今期は世界がコロナに押し倒されそうとする中、編集の力を求めて集った人々でつくられている場でもある。施錠のキワにはどんな言葉が交わされるのだろう。それは誰にも予想がつかない。たとえ座主の師範代であっても。

 


  • 植田フサ子

    編集的先達:幸田文。熊本を愛し、言葉を愛し、編集を愛する。火傷するほどの情熱にきらり光る編集力、揺るがない正義感をもつライター兼編集者。常に多忙で寝落ちもしばしばなのはご愛敬。