【セイゴオ・カイドクノート】①エルランゲン・プログラム事件 2

2022/06/06(月)08:00
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「エルランゲン・プログラム事件」は、39の断片からなる校長によるキーノート・エディティングの手本ともいえる文章です。それは、次の鮮烈な一文からはじまります。

1. 知覚および記憶の総称は、大脳皮質の諸領葉に折りたたまれることによって、いわば呆然たる系をつくる、この系には始動力がなく、賦活されて初の実在となる。

「知覚」や「記憶」といった精神活動をある種の系(≒システム)と見做し、それらは何かしらの外部の刺激によってしか動き出さないという指摘は、編集学校において稽古の流れが「問」からはじまることにも繋がります(「問・感・応・答・返」)。そして「知覚」や「記憶」がどのように形成されていくのかという見方として

2. これらは時間の序列の進行にしたがって、つまり覚醒と睡眠の序列を経て、重ねられるようにして種々の複比を生み、これに第二、第三の再生思考が加わって、再び言語中枢を刺激しつつ、転移律を奪いながら、或る〈体〉に至る。

と示しています。ここでの「複比」は射影幾何学において複比の値が直線の選び方によらないことからの連想で、新たに獲得されようとしている「知覚」や「記憶」は、それまでに自身の中に位置付けられてきた「知覚」や「記憶」と照合されながら、その延長線上に形作られていくことを模式的に表しています。また、ここでの“〈体〉”は、代数の用語としての「体」ではなく、デデキントが『整数論集合』で示した「有機的な全体として自然に一つのもの」ということを意味します。

 

このように形成された〈体〉には作用量の対象性に対応した「体-\(A\)(≒言語体)」と射影量の関係性に対応した「体-\(B\)(≒記号体)」が生まれると指摘しています。この「体-\(A\)」と「体-\(B\)」の関係についてについてはソシュールの見方である記号内容(シニフィエ)と記号表現(シニフィアン)を解釈の手すりとすることで理解が進む人もいるのではないでしょうか。幾何学的な対象を、実体そのものと見做すのか、それとも形式と見做すのかによって、同じものの違った側面に接することとなり、そこには「解釈」や「意味」がまさにいま立ち上がろうとする瞬間をなぞっているようにも感じます。幾何学の問題を解くときに補助線一本によって生まれる関係が気づきをもたらすことは誰もが経験したことではないでしょうか。それはまさしく対象の見方に関与することで、隠れていた関係を見出すことにも繋がっていきます。

 

さらに射影幾何学からヒントを得て次のような見方が示されます。

9. 〈全体〉が成立するためには、無限遠点を定在にしなければならない。

 

10. 無限遠点は神でもあろうが、また完全なる客体でもあり、さらに、学の始元点であるとともに、認識の終結点である。したがって存在の開示そのものである。

「無限遠点」は線遠近法や透視図における消失点と同様のもので、このを「+1」することで開いた空間を閉じた平面へと変換できるようになります。この想定された「無限遠点」を「神」や「完全な客体」の類推とすることで、通常の認識外にある存在を思考のテーブルに載せられるようになるところにアナロジカル・シンキングの威力を感じます。さらに「完全なる客体」は自分という主体にとって理解しにくい謎としての「学の始元点」であり、同時に人の認識が目指しても辿り着けない漸近線のようにたどりつけない「認識の終結点」としたことで、自分という内側からだけでは知り得ない、外側の始点を手に入れたような感覚になります。さらに「存在の開示」は、ハイデガーの『存在と時間』にある「最も根源的な真理は現存在の開示性である」を意図したものかもしれません。

 

こうした思考の変遷を振り返って、次の一文で提示しています。

12. 以上の体-\(A\)および体-\(B\)からなる全体-\(R\)はクラインの研究をさらに暴力的に模型化して得られる異物である。

ここでの「模型」はクラインにおいては「目的のための手段ではなく、事実そのもの」、タルホを描いたセイゴオにとっては「つくらずして外出してしまいがちになるもの」。「エルランゲン・プログラム事件」そのものが何かの目的のための文章ではなく、「エルランゲン・プロブラム」にであった事実そのものの描写であることを宣言しているかのようでもあります。さらに、リーの接触変換(全微分を不変にする変換)に倣って、「体-\(A\)」は「客体の曲面」や「存在の主観性であるような自然物質の直観構造」へ、「体-\(B\)」は「主体の曲面」や「認識の客観性であるような人間物質の直観構造」へそれぞれ戻ると示されます。この曲面という描像は「膜」のイメージを表したものかもしれません。主体と客体という両者の膜がであるところに両者の乗り移りが起こるところは虚実皮膜の数理的モデル化を意図しているのかもしれません。

 

ここから主役は「観念」や「直観」へと移ります。いささか駆け足でめぐると「観念は自己運動することも、生まれたり死んだりすることもない」「観念の運動の正体は直観の構造にある」「直観と観念は任意の幾何学上に含まれる、別々の曲率面に成立する」といった観念についてのいくつかの見方が連打されたあと

29. しかし、観念を位置させている曲率面は太古の原始より全く変っていない。人体の前に生体があり、生体の前に物体があり、物体の前には全体があったからであろう。

この一文から『国家論インデックス』の筆頭に「生物の国家」が掲げられ、さらにその子コードに「鉱物と生命」や「場所の自覚」が置かれていることや、さらに千夜千冊1708夜に書かれた「物質が経験する学」にもつながる見方の提示がなされます。このことを図形的に捉え直して

30. それゆえ、観念が定点であり、直観は動く定点である。

といった観念と直観という二つの焦点、さらにそこから楕円という存在に注意のカーソルが高速に移動します

31. たとえば単純に楕円を想定すればよい。楕円\(S_0\)があり、その2焦点を\(K_1\)、\(K_2\)とすれば、\(K_1-K_2\)を結ぶ延長線は楕円\(S_0\)を縦に割っている。いま、\(K_1\)を静止させ、\(K_2\)をこの延長線上の未来に移動させることは、\(K_1-K_2\)、\(K_1-K_3\)、\(K_1-K_3\)……を次々に2焦点とする楕円\(S_0\)、\(S_1\)、\(S_2\)……の増加を意味する。

 

32.  \(K_1\)を観念に与え、\(K_2\)を直観に与えれば、運動は他ならぬ楕円\(S_0\)にのみ与えられた潜在形質である。

校長のバロックびいきは、校長図書を愛読している人にとっては周知の事実ですが、校長が見ているバロックにはこのような楕円の見方も重ねられているのかもしれません。さらに

33. 動く焦点、\(K_1,K_2\cdots,K_n\) がつくる直線上にはガリレオの落体の軌跡が得られるにちがいない—とは余談ではない。

と「直観」に割り当てた定点(\(K_2,K_3\cdots,K_n\))(小坂註:\(K_1\)を観念に当てていることから動く点としては\(K_2\)以降?)が加速して遠ざかっている光景を「ガリレオの落体」と表現していますが、ここにもヘーゲルの「外面性の最初の否定」であるところの「落下」を感じることができます(参考:『ヘーゲル辞典』弘文堂)。その「落下」のイメージとは対照的に、この楕円は平面を抜け駆けするかのように「第三の手」もしくは「神の手」によって引き上げられます。その引き上げは「時代」や「時間」、「完全なる客体」による引き上げによって新たな幾何学を構成していきます。このような短くも長い思考の旅を経て

38. 以上、エルランゲン・プログラムとは、実に直観―観念系の自己史における起爆装置そのものである。

 

39. いつものように、〈概念〉が残されることになった。

〈概念〉が外に残されたことを示して『エルランゲン・プログラム事件』は幕を閉じます。


久しぶりの「エルランゲン・プログラム事件」の読書は、『エルランゲン・プログラム』が若き校長にとって事件であったように、遅ればせの「遊」読者である私にとって「エルランゲン・プログラム事件・事件」とも言える今では懐かしい出来事の再来でした。


  • 小坂真菜美

    編集的先達:リチャード・ファインマン。他を圧倒する速度と量のコンパイルの女王から火元組の要へ。特に数理工学系の知を得意とし、現在はあらゆる松岡正剛知の電子データ化と並行してセイゴオAIを構想中。[離]別当師範代を経て、15[離]からは曳絃方師を担う。

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